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第三章:二十一話 愚か者へ

 魔の森の中を走る複数の影がある。魔物の群れ、とまではいかなくともそこそこの集団だ。


 集団を率いるグリーンゴブリン、常盤平一騎の目には複雑な感情の動きが見てとれた。部下を失ったことへの悲しみと怒り、自分たちを騙した勇者への怒り、間抜けな自身への歯がゆさ、それでも人間との全面対決は避けたいジレンマ。


 駆け抜けることで全身を叩く風も、一騎の感情を吹き散らすことはできそうになかった。


 一騎に付き従う数は少ない。ゴブリン、ハーピー、ギルマンと勢力こそ大きくなったが、先の教会による奇襲で相当数が傷を負ったことで、戦える数が減ったことが影響している。ケガ人、ケガ人を看病する人手、ケガ人たちを守るための人手、そもそも水辺を離れると戦力の低下するギルマンらを連れて行くわけにはかない。


 一騎と宗兵衛を中心にした、二十体を少し超える程度だ。もっとも機動力の高いハーピーを主軸に、森の中での移動に慣れているゴブリンを一騎と宗兵衛が率いている。


 エストは留守居役だ。教会の場所は割れているので、ハーピーたちが使っている巣にまで避難していた。本人は「イッキから離れるのは嫌だ」とついて行くことを強硬に主張したが、ケガ人たちだけを残しておくわけにもいかず、またケガ人たちを守れるだけの戦力としてエストを配置することになったのだ。


 一騎もゲーマーとして戦力を分散させることのリスクは承知しているのだが、人型の精霊をつけ狙う教会勢力に、エストを近付けたくないのもある。加えて、エストはまだ精霊化したばかりのため、感情に振り回されすぎると凶暴化してしまう恐れがあるためだ。合流してきたばかりのマンドラゴラたちも、傷ついていることから戦力としては数えられない。


 ――――ウオオオォォオオォオォッ!


 森を駆ける一騎たちの耳朶を叩く太い咆哮。勢力を誇示するような声であり、魔物の優れた聴覚は戦闘音を捉えていた。


『トロウルが吠えていますねー』


 宗兵衛の頭の上という定位置でラビニアは呟く。


 欠伸交じりのラビニアとは対照的に、ゴブリンとハーピーの顔色は悪い。最近の魔の森での騒乱、その原因の一部がトロウルであると知っているからだ。


 普段のトロウルは単独で動き、動きの理由も食欲が大半を占めているのに、最近のトロウルは明らかに戦意に溢れ、拙いながらも連携すらとる。マンドラゴラが「ただでさえ弱っていた」と口にしていたが、マンドラゴラたちを襲撃したのもトロウルだった。


《感知する限りでは湖周辺、リザードマンとトロウルの衝突かと》

「ギルマンたちの居場所が水場に変わったことは、僕たちが考えていたよりもよかったかもしれませんね」


 リザードマンとの戦いに介入するのはともかく、ギルマンたちが未だに居住地を湖にしていれば、このトロウルの襲撃に巻き込まれていた可能性が高い。人間への対応と同時にトロウルと向き合うなんてのは、冗談でも勘弁してほしいというのが宗兵衛の意見、つまりは人間とのいざこざをなんとか早期に片付けることを優先している。


《斬り殺されていたトロウルたちは、斥候だと思われます》

「トロウルとの衝突も避けられそうにありませんね。けれどそれよりも」

「今は目の前の問題を何とかするほうが先だ!」


 奥歯を噛みしめながら走る一騎の足取りからは、十分な力強さを感じる。迷いや不安がないからではなく、むしろ迷いや不安を踏み潰すために、半ば以上、意図的に力強く地面を蹴っている。


 報復を決意したはいいが、意識を強く持たなければすぐにでも決意が鈍りかねない。元は人間で、なにかを選ぶ場面はあっても己の人生を左右するような選択だと捉えたことはない。要は人生経験の足りない子供だ。決意など、たとえ大人であっても状況が変われば容易く揺らぐ。一騎がどれだけ決意を固めようと、ぐらついてしまうのは無理からぬことであった。


『イッキ様! 前方に!』


 上空からのハーピーの声に含まれる強い緊張に、骨刀を握る一騎の拳により力が加わる。いよいよ人間との衝突か。骨刀を抜きつつ、前方に注意と警戒を向ける一騎の目に映ったものは、天に向かって伸びる、何本もの黒い筋。火災による黒煙だ。


「火事?」


 一騎は教会を焼いた炎を思い出す。転生させられてから何度目のことか、嫌な予感が極彩色を伴って全身を襲う。


「急ぐぞ、宗兵衛!」

「ええ」


 目の前をふさぐ倒木を、骨刀で斬り開いた。



                     

 地獄絵図。


 現代日本に生まれ育った人間の大部分にとっては、フィクションの中にしか存在しない言葉を、一騎は厳然たる現実として見せつけられていた。


 小さな村で、無事な建物は一つもない。すべてが焼け落ち、打ち壊され、燻る炎が吐き出す黒煙は怨嗟の声のようだ。家畜も人間も、動くものはない上に無造作に積み上げられて小山となり、焼け焦げて地面に転がされている死体もある。よく見ると、焼けた死体のあちこちには刀傷と思しき傷もあって、襲撃を受け、皆殺しにされ、火を放たれたのだとわかった。


「っっ!」


 一騎はあまりの惨状に目を背けたくなる。小さな村とはいえ、ここには生活があったはずだ。父祖から継いだ土地を耕す人も、子育てに精を出す人も、ときにケンカをしながらも健やかに成長する子供たちも。どのような意図があったにせよ、奪っていいものではないはずだ。


「へえ、てめえらかよ」


 否、動くものたちはいる。一騎の持つファンタジー世界の記憶に似つかわしい、武具に身を固めた兵士たちと、彼らを従えるように先頭に立つ五人の男たち。この惨状の只中にあって、落ち着き払った声が不気味極まりない。


《勇者です、主》

「五人もいるのですか。常盤平、慎重に」

「っ……わかってる」


 一騎の両目にも、骨刀を握る手にも、抜き差しならない怒りが込められていた。


「人間の言葉を喋る魔物ってことは、お前らが元級友かよ」


 五人の勇者の中央にいる男がニタニタと、優越感に満ちた下劣な笑みを浮かべる。元級友。卒業したわけでもないのに、既に自分たちとは袂を分かった相手だと言い捨てた。他の四人も含め、少なくとも勇者たちには、一騎や宗兵衛のような魔物にされた相手への同情は皆無だ。


「ま、初めましてってやつだな。おれは市川瑛士。勇者だ。本来なら魔物なんかすぐにぶっ殺してやるんだが、元級友の誼ってやつで、名前ぐらいは聞いといてやるぜ、うん?」


 市川瑛士の軽薄な口調には一騎も宗兵衛も応じない。ラビニアは冷めた目で周囲を見回し、骨の宗兵衛は表情から感情をうかがい知ることはできず、一騎の顔には敵意が満ちている。


 見下す相手からの敵意を心地良いかもしれないが、問いかけを無視されたことは不愉快だったのだろう、市川の口元には優越感に加えて明確な悪意が浮かんだ。


「あーあ、この村の連中もかわいそうになぁ。お前らみたいなのと関わっちまったばっかりに、穢れたんだ」


 穢れ、という言葉の意味が一騎にはわからなかった。言葉の意味自体は知っていても、この村の状況とどう結びつくかがわからなかったのだ。


「クレアっつったけか?」

「!?」

「一人でも、一つでも穢れができちまうと、その穢れは周囲に一気に感染する。この村はもう手遅れだった。この村の穢れが周りに広がる前に、おれたちが手を打たせてもらったんだ」


 ニタニタと、相変わらずの笑みを振りまきながら、市川は親指で死体の山を示す。生前の面影などない、黒く焼け焦げて雑然と積み上げられたそこに、一騎の記憶を刺激するものが、その欠片があった。


 村で販売している、ゴブリンの木彫り人形。あの日、二人で村内を回ったときに、クレアに渡した人形の、焼け残りがあった。


「っっ、クレアっ!」


 思わず走り出す。


 市川たちへの憤りよりも、惨状への衝撃よりも、この世界に来て初めて出会った人間のことしか考えられない。


 一騎には成功体験があった。エストだ。死に瀕していたエストを、『進化』を用いることで救うことができた。


 だからこそ、今回も救うことができる、と思ってしまったのだ。


 自分なら助けることができる、自分の『進化』ならクレアを助けることができる、と。


 一騎の視野は急速に狭まり、クレア以外の一切が見えなくなる。不愉快に歪んでいる市川たち勇者の顔も、注意を促す宗兵衛の声も、情報として一騎に届くことはない。自分なら助けられるという意識だけが思考を埋め尽くす。僅かに焼け残った飾りの一部だけが一騎の感情を揺らし、クレアの焼けた亡骸を抱え上げた。


 瞬間――――


 ――――爆発が生じる。赤とオレンジの炎が巨大な顎を開き、一騎を飲み込む。


 仕組みとしては単純なものだ。ケガ人や死者に爆弾を仕掛け、駆け寄って動かすなどすると爆弾が作動する。正確には爆発の術式だが。


「ぷ」


 目尻には涙さえ浮かべ、目いっぱい膨らんだ頬から、こらえきれないとばかりに空気が吐き出された。


「「「ぷひゃひゃひゃひゃっははっはっはぁああははっひゃっひゃっはぁ!」」」


 馬鹿笑いは市川だけのものではない。他の四人の勇者たちも、兵士たちも大笑いに腹を捩らせていた。


 なにがおかしいのか。村人が自業自得で――市川たちの立場からすればだが――処分されたことが面白かったのか、駆け寄ったゴブリンの姿が面白かったのか、自分たちの仕掛けた爆弾が思い通りに作動したことが面白かったのか。


 爆風と爆炎に激しく叩かれて吹き飛ばされた一騎の耳には、届かない。


「いやー、最っ高だわ! すっげぇなあおい! ナァイス爆発! あー、マジ最高!」

「ブービートラップって知ってっか? 愚か者って意味なんだよ、ひゃは! まんまお前のことだよな!」


 渋谷と松尾が指を差して一騎を笑う。


「これはお前のせいだ! お前らのせいだ! お前らゲスな魔物がその女と接触したからだ! だからその女は穢れてしまった。この村もな!」

「クソ魔物が! 罪のない人間を汚染しやがって。お前らがその女を穢した! この村を穢したのはお前らだ!」

「けど安心しろっ」


 金山と林の罵倒を遮って、市川の握る剣が炎を噴き上げる。


「この神から授かった勇者の武器によって、穢れた罪人たちの魂も肉体も、罪も! すべて浄化してやったんだ。焼き払ってやった! お前らがもたらした穢れを、村を汚染した穢れを! おれたちに感謝しろ、おれに感謝しろ! お前の、お前らの罪深さを知れ! お前ら魔物は、この世界にはいらねえんだ!」


 地面に倒れ伏したままの一騎の手が空を彷徨う。求めているものは明白だ。


 ついさっき、自分のこの手が抱え上げたのは誰だったのか。自分の目の前で爆ぜ飛んだのは誰だったのか。自分が、助けることも守ることもできなかったのは誰だったのか。


 一騎の目に映ったのは緑色の、悪魔のような異形をした自分の手だ。


 人間のものよりも力強さを感じ取れるこの手が、年下の、小さな、女の子の手を握ったことが鮮明な画像となって


 ブヂィッッ!


 千切れ飛ぶ音がした。


 千切れたのは理性か血管か神経か、あるいは人との交流を成し遂げた未来だったのか。いずれにせよ、一騎の意識は弾け、拡散した。

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