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第三章:十九話 砦にて

「あのクソ虫がああぁぁぁあああっっ!」


 投げられた花瓶が石の壁にあたり砕け散る。カーテンは引き裂かれて床に散乱し、テーブルも椅子も足を折られ、壁に掛けられていた絵画ももはや薪にしかならないだろう。


「雑魚のくせに! 魔物のくせに! 私に傷をっっ!」


 部屋の中で無事な椅子に腰掛けているアーニャは、またか、と小さく肩をすくめ、飛んできた花瓶の欠片を避ける。


 勇者用にと高価な品で統一された砦の一室において、藤山まゆは怒り狂っていた。目につくもの手当たり次第に破壊し続けている。砦の財務担当者が目の当たりにすれば立ったままで気絶しかねない。


「……呆れ果てますが、けど」


 アーニャは勇者の醜態に冷ややかな目を向け、視線がある一点で固定されることで全面的な低評価を与えることだけは思い止まる。


 藤山まゆの顔に巻かれた包帯だ。怒りと怨嗟を吐き出し続ける藤山まゆの顔は、巻かれた包帯により半分ほどが隠れてしまっている。包帯の下にあるのは刀傷、件の集落での戦闘の際にゴブリンによってつけられたものだ。回復魔法で綺麗に治癒することが可能なのだが、藤山まゆ本人の希望で傷跡は残したままにしているのである。「私に傷をつけたゴブリンは必ず殺す」ことを誓ったために他ならない。


 顔を傷つけられたことだけが藤山まゆの怒りの理由ではない。相手がゴブリンのような雑魚魔物であること、雑魚魔物如きのせいで逃げ帰ることになった事実が、藤山まゆの自尊心と信仰心を大いに損ねているのだ。


 勇者としての藤山まゆは、攻撃力が低いことから評価は決して高くない。近接戦にも遠距離戦にも範囲攻撃にも優れた能力を発揮する常盤平天馬のチームと比較して、役に立たないのではないか、と周囲が囁いていた時期もあった。


 勇者たちの内でも軽んじられていた彼女を救い上げてくれたのが真正聖教会である。藤山まゆは教会の手を取り、教会教義に従って積極的に活動しだし、活動に伴って評価は上がっていった。特に教会からの評価は全勇者でもトップクラスだ。それなのに、期待に応えることができなかった事実が彼女の心身を搔き乱す。


 投げつけた酒瓶がドアに当たり一際大きな音を立てて砕けると、ドアの向こう側から非常に控えめなノックが聞こえてきた。勇者の呼吸は荒れていて余裕に欠けるので、アーニャがため息交じりに対応する。


「……どうしました」

 ――――ゆ、勇者エイジ様から通信が届いております。


 外にいる兵士の声は僅かに上ずっている。仕事とはいえ、荒れる勇者の近くにいればとばっちりを受ける恐れが強い。さぞかし不安も強いことだろう。


「……そうですか。どうぞ」

 ――――は。


 緊張と不安で震えながら、砦詰めの兵士が入室してくる。兵士に向ける藤山まゆの眼光は非友好的で、兵士の持つ水晶玉に映る人物への眼光は非友好的を飛び越えて攻撃的ですらあった。


「なんの用よ、市川」

『おいおい、酷い言い草じゃないか。お前の尻拭いをしてやったんだぞ、こっちは』


 市川瑛士は横柄な口調と芝居がかった態度を水晶の中で披露する。口元には吊り上げられた笑みが張り付き、他者を見下すように首は微かに傾けられている。眼光に鋭さはなく、代わりに自己の優位を信じてやまない驕慢の輝きが宿っていた。


『頼まれた仕事はきっちりと片付けてきた。汚染区域の処理は問題なく終了だ』

「随分と早いじゃない」

『当たり前だろ? おれの宝装は攻撃力もないお前のものとはわけが違う。この程度の仕事などに時間をかけていられるか。いや、最初からおれが動いていれば、大精霊様の確保も容易かったんだろうがな』

「っ、この」


 カツン、と硬質な音が勇者二人の間に響く。アーニャが細い杖で石床を小突いたのだ。小さく細く、鋭い音に二人の舌戦が止まる。


「……他の四人はどうされていますか?」

『あいつらは兵士たちと一緒に周辺の見回りに行ってるよ。処理から漏れた奴がいるかもしれんし、力を思う存分振るいたいだろうからな』


 市川瑛士の顔に浮かんだ笑みには品位の欠片もない。強者としての立場、相手より圧倒的に勝る戦力を盾に、優越感に満ち満ちている。勇者としての己を自覚して以降、市川瑛士の立ち居振る舞いは急速に変化し、確立されていた。


『それにしても、だ。おれには劣るとはいえ、仮にも勇者である藤山が負けて逃げ帰ってくるとはな』


 肥大して歪んだ自尊心が大部分を占める市川の在り方は、同じ勇者であるまゆに対しても揺るがない。まゆの敵意の込められた視線を、ヘラヘラと笑いながら受け止めている。弱者の感情が心地良くて仕方ないといった態だ。


(……ガキですね)


 アーニャが市川に抱いた感想は単純だった。内心で他者を見下しつつも、表に出しては礼節を弁えているのならばまだしも、感情と表情筋とがダイレクトに繋がっているようではまだまだだ。


 辛辣とまではいかないもののかなり低い評価を受けたとは知る由のない市川瑛士は、相変わらず優越感だけで構成されている歪んだ笑みを、同じ勇者であるまゆに向け続ける。


『まあ、お前は大人しく傷の治療に専念していろ。仇はおれがきっちりと取ってやる。勇者が負けたなんて話、同じ勇者としてそのままにしておくわけにはいかないからな』


 勇者の敗北は、勇者である自分の評価にもかかわってくる。藤山まゆが負けた相手を自分が倒すことで自己の優位を確立、あるいは認識しようというのが市川の思惑だ。それがわかっているからこそ、まゆは強く奥歯を噛みしめた。


「うるさい! さっさと消えろ!」


 へいへい、と、いかにも相手を馬鹿にした感のある返事と態度を残して、市川瑛士は水晶の中から消え失せた。まゆの呼吸は非常に荒く、平静を保つアーニャとは対照的だ。


「くそがくそがくそがくそが!」


 何度も何度も床を蹴りつけ、当たり散らす。水晶玉を持つ兵士が今にも泣きだしそうな剣幕だ。通信が終わったのだからさっさと部屋から出て行けばいいものを、まだなにか用があるらしい。


「……どうしました?」

「は、はい! ボルドワン様からのご用件がありまして」


 兵士の全身から喜色が溢れ出した。アーニャに話を促されて、心底、助かったと考えている様子だ。ボルドワンとはこの砦の責任者の名である。かつては騎士としての技倆こそ優れていたものの、今では権力欲に憑りつかれ、物欲のプールを泳ぐことを趣味とする人物で、中央へ賄賂を贈ることを日課としていた。


 まゆが砦に到着したときには揉み手をしながらご機嫌伺いをしていたボルドワンは、荒れる勇者に近付くことによって万が一にも不興を買うようなことになってはたまらないから、と一兵士に仕事を押し付けたのだ。


 押し付けられた仕事というのは、砦の地下牢に繋がれている、ある魔物のことだった。藤山まゆが直々に魔の森で捕らえてきた、人語を解するアンデッド。魔の森内部の状況を把握するための尋問を繰り返し、恐らくは全ての情報を吐き出しただろうから、牢に放置されるだけとなった魔物をどう処理すればよいのかについて、だ。人語を解するアンデッドなんて希少な魔物を捕らえたことは手柄だとして、だからといっていつまでも放置しておくわけにもいかない。


「っっ!」


 一際激しく床を蹴りつけて、まゆは顔を上げた。魔物への復讐心で煮えたぎっている心情に相応しく、普段は白い顔が怒りで真っ赤になり且つ歪んでいる。


「わかった……すぐに対応するわ」

「あ、ありがとうございます!」


 兵士は大げさに安堵の息を吐いた。アンデッドは教会の教えに背く不吉極まりない存在であり、地下牢とはいえアンデッドが砦内にいることで、兵士たちや用人たちが不安がるのだという。


 テンプレートのように薄暗い地下牢への階段を下りる間、怒りに駆られている藤山まゆの脳細胞は、ほとんど回転していなかった。付き添いを申し出たアーニャと兵士を断り、半ば走るようにして移動する。今すぐにでもゴブリンを殺したい激情を、椅子やら花瓶やらを壊しても晴れることのなかった激情を、叩きつけても構わない相手がいることに喜びさえ抱いていた。


「ゆ、勇者様!?」


 牢番が驚きに声を大きくする。皴の深い顔にはアンデッドへの忌避感と、急に現れた勇者のへ戸惑いが広がっていた。


「少し席を外してちょうだい」

「は? しかし」

「お前にとってもアンデッドは不吉な存在なんでしょ。こいつは私が処理するから。けど近くにいたらアンデッドの呪いがお前に降りかかるかもしれないわよ。わかったらさっさとここから離れておきなさい」


 相手を気遣う善意に似た言葉に、牢番はむしろ嬉々として足早に地下牢から去っていった。アンデッドから離れられる名分を得られたのだから当然の反応だ。まゆは走る牢番の姿にも気配にも興味を抱かなかった。彼女の感情も視線も地下牢の内側だけに向けられている。


 地下牢に繋がれた、黄瀬の姿に。


「ゔぅ、ぅ……ぐ、ぁ……」


 声を発する黄瀬にまゆは驚く。まだ声を出すことができたのかと。それだけ黄瀬の姿は凄まじい。四肢はなく、体の崩壊も進み、凄まじい悪臭が漂っている。全身に突き刺さっている数十本もの杭もただの杭ではなく、痛覚のないアンデッドに激烈な苦痛を与えられるよう、呪紋処理が施されたものだ。兵士たちもアンデッドには近付きたがらないので、黄瀬に拷問を加えたのは藤山まゆ本人である。


 これが一縷の望みを求めて藤山まゆの手を取った、黄瀬の結末。


「ぷ」


 まゆの顔が奇怪に歪む。軽侮と嘲弄に耐えることができず、遂には大きく噴き出した。


「ぎゃははははぁぁっははっはっは!」


 人生における最大の笑いだ。笑いすぎて肺と横隔膜がストを起こし、軽い呼吸困難まで覚えるまゆ。魔物――自分の顔に傷をつけたゴブリンへの強い怒りの捌け口として、まゆが選んだのが黄瀬だった。正気とは思えないバカげた笑い声に、既に肉体の七割近くが崩れている黄瀬が反応した。


「……ぁ、ぐ……?」


 顔を数センチ上げるのが精一杯のようらしい。喉に突き立てられている杭のせいで、意味のある言葉を発することもできない。あまりにも変わり果てた同級生の姿に、まゆは強い満足を感じていた。はっきりとした上下関係。自分は世界と人類を守る側で、黄瀬は倒されるだけの悪役。惨めで無様な黄瀬の姿を見下ろして、ようやく少しだけ溜飲が下がる。


 下がっただけで、まゆの内に渦巻く攻撃性が和らいだわけではない。世界と人々を守る勇者は大きな舌打ちをして、牢の中に入る。王国から支給された仕立ての良い靴で、黄瀬から流れ出た腐臭漂う体液を踏む。暗くて目立たないが小蠅も飛び交っている。鼻を摘まみながら黄瀬に近付くと


「えぅ……ぉ?」


 右足を上げ、黄瀬の頭目掛けて


「このっ、ゴミ虫がぁっ」


 グシャリ、と異音が牢内に響いた。黄瀬だった魔物の頭部右半分が踏み砕かれ、アンデッドの崩れかけの肉体が跳ねるように痙攣する。


「この! この! このっ! このぉっ!」


 何度も何度も何度も蹴りつける。


「虫が! クソ虫が! ゴミ虫がっ! こっっのぉっ!」


 五分後。呼吸が乱れ、努力して酸素を肺に取り込もうとしているまゆの足元、かつての姿の原形もとどめていない肉塊は、二度と動くことはなかった。

今年最後の更新になります。

お付き合いくださり、ありがとうございました。


次回更新は一月第二週を予定。


それでは皆様、よいお年を。

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