第三章:十五話 燃え盛る
「あーやだやだ。さっさと終わらせてシャワーでも浴びたいわ」
藤山まゆはグリーンゴブリンに触れていた部分を、眉をしかめながら何度もはたいている。心底から嫌がっていることが表情から見てとれた。
「お見事でございました、まゆ様。完璧に騙しおおすことができましたな」
「人間、やれば大抵のことはなんとかなるってことね。あーでもダメ! 天上の偉大なるお方や教皇様のためとはいえ、あんな醜いゴブリンなんかに抱き着くなんて」
姿を見せた断罪者たちに、我慢するのがどれだけ大変だったか、とまゆは吐き捨てた。心ならずも融和を説き、協力を申し出るだけでも吐き気を催していたのに、手を握りしめたり抱き着いたりしたときには神経を直接、掻き毟られたかのような嫌悪感が全身を駆け巡り続けた。
戦闘力において他の勇者に劣ることを自覚している藤山まゆは、これも必要なことだと覚悟を決めて割り切っている。魔族討伐のために必要なことはなんでもする。立派な覚悟だが生理的な嫌悪感まではどうにもできない。まだまだ人生経験の乏しい十代半ばの少女だ。割り切るにも限度がある。だからこそ断罪者たちやアスランはまゆを尊敬する。勇者として大神から宝装を授かりながら、己を投げ打つ覚悟と実践を示した藤山まゆを心から尊敬するのだ。
「で、こっちに連れてきてる断罪者は何人なの? さっさとあの集落、消しちゃいたいんだけど」
「四人一組のチームを三つになります。ゴブリン共など皆殺しにしてもお釣りがくる戦力です。ただ、予想外の存在がおりましたのでそちらの確保が重要かと」
予想外の存在とはエスト――人型の精霊のことだ。真正聖教会の教義において、精霊や妖精は神族の庇護を受けているとされている。大神アルクエーデンの名の下、自然の運行を司っているのが精霊で、精霊を助けるのが妖精であると説くのだ。
その精霊の中でも、エストのように人型を採れる精霊は大精霊と呼ばれ、信仰の対象にもなっている。最後に人型の精霊が確認されたのは、実に二百五十年前にまで遡る。エストとの出会いは歴史的にも価値があり、確保すればその功績は極めて大きい。
「それにしてもまさか大精霊様がゴブリンなんかと一緒に行動しているなんてね。最初は魔物の情報収集とあわよくば退治って命令だったけど、思わぬ事態って奴になったわね」
「こちらとしても非常に驚くべき事態です。ですが、魔物の手から大精霊様をお救いしたとなれば、天上の尊きお方も教皇猊下もお喜びになることかと」
森に入り込んだクレアの捜索も依頼として受けていたのだが、まゆたちの間では優先順位は低く設定されていた。第一位が魔物の情報収集、第二位が魔物退治、第三位がクレア捜索だ。ここにきて人型の精霊確保が優先順位の最上位に置かれている。
「……なら、早く行動したほうがいいと思います」
アーニャは手にした細めの杖で集落の方向を指し示す。魔物の村は急に動きが慌ただしくなっていた。まゆとアスランがはっきりと確認できたわけではないにしろ、どうも逃げ出しているように見える。ゴブリンが隠し持っていた通信玉の報知機能が作動したとは知る由のないまゆたちは、逃げる魔物たちの影にはっきりと焦りを覚えた。
「ちょっと! 魔物なんかどうでもいいけど、人型を逃がすわけにはいかないわよ!」
「参りましょう、まゆ様!」
「あ、でもアーニャんは」
「……私は見えませんから、後で合流します。それと、アーニャんは不愉快です」
アーニャの語尾に重なるように、爆発音と衝撃が響く。眼下、広がる森の一隅で、魔力反応の感じ取れるオレンジ色の炎と黒い煙が広がっていた。
「まゆ様、あれはっ」
「多分、小暮坂のほうね。対アンデッド用の装備はしてるって言ってたけど、あんな派手とは思わな……てぇ! ちょっと待って! ただでさえ逃げ出してるのに、あんな爆発があったらますます逃げられちゃうじゃないっ。行くわよ、みんな!」
勇者の肩書が持つ威力は大きく、日本では高校生に過ぎない藤山まゆの号令に、断罪者たちは一斉に動き出す。厳しい訓練を経ている断罪者たちと、強い魔力で身体能力が向上しているまゆは、森の中を疾風のように駆け抜ける。一際大きな爆発の衝撃と音を背中に受け、まゆは行儀悪く舌打ちをした。視界の端に逃げ出しているゴブリンたちを収めた断罪者が確認を取る。
「まゆ様、あのゴブリン共はどのように」
「始末できるなら始末を。そうでないなら無視。ゴブリンみたいな弱っちい連中なんて脅威にはならない。人型の確保が最優先よ」
事実だ。ゴブリンのようなヒエラルキーの下位に位置する魔物の重要度など、人型の精霊とは比べるべくもない。断罪者たちは射程距離内に入ったゴブリンたちは容赦なく殺し、射程外にいる魔物には微塵の興味も示さなかった。それでも殺した魔物の数は十を越える。
時間にして僅かに数分、まゆたちが教会近くにまで戻ってきたときには、魔物の集落には不気味な沈黙が降りていた。ぼろテントのあちこちに物品が散乱していることからも、魔物たちが大慌てで逃げだしたことがよくわかる。
藤山まゆが「やれ」と短く告げると、断罪者たちが集落に火を放つ。火勢はあっという間に強まり、小さな集落の全体に広がっていく。活発に動いているのは火の手だけで、逃げ遅れた魔物が出てくることは一度もない。もぬけの殻という表現そのままの集落の姿に、苛立ったまゆが声を大に
「っっ!?」
するよりも早く、爆風めいた魔力の嵐に全身を強かに叩かれ、数メートルを吹き飛ばされた。まゆと断罪者たちは体勢を立て直して着地する。魔力の直撃を受けた一人の断罪者だけは、腹から地面に落ちて蛙みたいな声を出す。
「貴様ら……」
生木が爆ぜるような音を立てて、放たれたばかりの火が弾け飛ぶ。
「イッキに、なにをしたっ!?」
燃え盛る炎ですらが避けるように左右にわかれた先、まゆたちの眼前には、憤怒に囚われた大精霊が立っていた。大喝に地面が砕け、断罪者たちの手も震える中、まゆだけはぎこちないながらも丁寧な所作で頭を下げる。
「大精霊様。大精霊様をお待たせしてしまったことについては深く謝罪をいたします。ですがご安心下さい。大精霊様を惑わし、不当に拘束していた低俗愚劣にして醜悪な魔物は排除いたしました」
「排除……? イッキを……?」
「はい。大精霊様におかれましては、今後、我が真正聖教会にて保護させていただ」
轟音がまゆのセリフを途中で吹き飛ばす。エストが右足を小さく上げ、下ろしただけで地面が絶叫と共に砕けたのだ。
「人間……貴様は、イッキの友達じゃなかったの?」
「ご冗談を。この身は大神アルクエーデン様より宝装を授かりし勇者でございます。あのような下賤な魔物と交わす情は一切、持ち合わせてはおりません。そもそも人間だったときからアレは見るに堪えない醜悪な愚物でした。自己管理もできずにブクブクと太り、学力は低く、状況を変えるための努力もしないカスクズゴミ。魔物などに転生したのも自業自得ともいうべき必然でございましょう」
まゆの声は冷然としている。使命とはいえ、心ならずもゴブリンなどと手を取り合ったときには全身に怖気が走ったと、協力を持ち掛けたときには血反吐を吐きたい気分だったと、心底からの嫌悪を声と顔と全身で表現する。
「大精霊様、貴女はこのような場所にいてはなりません。あのような魔物と一緒にいるなど許されません。どうか我らと共においで下さい。御使いたる大精霊様に相応しい待遇を用意しております」
実のところ、集落に異常を知らせる報知機能が作動した際、魔物たちは戦闘準備を始めたのだ。元から人間に良い印象を持っておらず、人間を獲物や敵としてしか捉えていないのだから当然ではある。
にもかかわらず、魔物たちが逃げ出したのは、人間が理由ではなくエストが理由だ。襲撃してくる人間たちからではなく、怒れるエストから逃げ出したのだ。人型を採れるまでになった大精霊の力は強大で、巻き添えになるだけで甚大な被害をもたらす。魔物たちはエストこそを恐れたのである。
「ふざっ!」
そして今、まゆたちは自らが神の御使いと称える大精霊の怒りを、真正面から叩きつけられているのだ。
「けるなぁぁっ!」
エストが砕いた地面に炎がまとわりつく。日本人であるまゆは、なにが生じるかを一瞬で理解した。理解して顔が青ざめる。砕けた地面の奥から灼熱の赤い光が溢れだす。ニュース映像で見たことのある火山の噴火、自然も人工物も容易く呑み込むマグマだ。高さ十メートルを超える真っ赤な五本の柱が勢いよく吹き上がり、エストの敵意と殺意に従って躍動する。
「っっ! 土と火、二重属性の大精霊っ!」
精霊は基本的に単一属性の存在だ。エストのように複数の属性を持つケースは極めて稀であり、まゆが学んだ中でも、数例しか確認されていない。腹から地面に落ちて未だ転がったままの断罪者が情けない声を出す。
「まままままゆ様、これは」
「穏便には、いきそうもないわねっ」
吹き上がったマグマがそれこそ大蛇のようにうねり、暴れまわる。周囲の木々もぼろテントも差別なく薙ぎ払い、焼き尽くし、人を溶かす。
武装した断罪者たちは、あるものはマグマに呑まれて即死し、あるものは半身を焼かれて悶え苦しんでから死んだ。真正聖教会の暴力装置として教義の敵を数多、追い詰め葬り去ってきた彼らは、今度は自分たちが必死に逃げ惑う番になった。逃げ惑い、自分たちが決して目標を逃がさなかったように、自分たちも迫るマグマから逃れきることはできずに焼け死んでいく。
「ひ、ひいいいぃぃぃいいいっ! まままままゆ様ぁぁぁああ!?」
「落ち着きなさい、障壁魔法!」
「ははははいいぃぃいいっ!」
混乱と恐怖に晒されながらも発動した断罪者の防御壁――光の幕を作り出す障壁魔法は、紙切れのように容易く破れ燃え落ちた。驚いたのは藤山まゆだ。下級魔物程度の攻撃なら、完全に防ぎきることができる障壁がなんの役にも立たないのだから。
「バカなっ!? まゆ様ぁぁああ!」
「あんたたちは下がりなさい! 私の宝装でなんとかする!」
召喚の呪文を素早く唱えると、まゆの周囲に光球が四つ出現した。通常、宝装は武具の形状であり、常時、手にしている形になる。あるいは形状を腕輪などに変え、勇者の意志により武具の形に変化するケースの、二パターンが多くを占めている。まゆのように呪文で召喚する例は少なく、これは武具を持って立ち入ることができない場所での作戦に重宝される特性だ。
魔力波と熱風がまゆの全身に打ち付けてくる。大精霊の激怒は収まる気配がない。吹き上がるマグマに乗って上空を取った大精霊は、翼のように広げたマグマの塊を怒号と共に叩き落した。
「! 一番と二番、全力防御!」
呼び出した光球の二つが強く輝き、障壁としてまゆの前に展開する。灼熱の岩漿自体はどうにか防げても、膨大な熱を防ぎきることはできない。
「飲み込まれる前にどうにかしないと。三番!」
三つ目の光球が足場となってまゆを上空に持ち上げる。一瞬遅れて、まゆの立っていた地面がグズグズに溶けて消え去った。
高温に晒されるまゆの背に、尋常ではない寒気が走る。マグマが発する熱量は凄まじく、攻撃に当たらずとも熱を浴び続ければ勇者といえど焼死は免れない。大地と空気を揺らして、マグマが乱舞する。骨すら残さないとばかりに迫るマグマに、まゆはあえて飛び込んだ。身を守る障壁役の一番と二番が焼き消え、足場に使っている三番も障壁に回す。
「でぇぇええやぁぁぁっ!」
三番が燃え上がる直前、マグマの突破に成功する。手の届く距離にまで接近する勇者と大精霊。咄嗟に握られた大精霊の拳にはマグマが発生し、これで殴られたなら人間など跡形も残らないだろう。だが数瞬遅い。マグマ突入前から手順を考えていたまゆと、マグマを突破されると考えていなかった大精霊とでは、行動速度にわずかな差が出る。
「四番!」
中空で待機させておいた光球が輝き、大精霊を包み込む。まゆの宝装『護封の光球』は直接的な攻撃力は乏しいものの防御には優れ、捕縛にはより優れた性能を発揮する。荒れ狂う大精霊を光球の捕えることに成功したのだ。ボロボロになった三番を足場に、勇者は大精霊に近付く。
「こっの、この光はっ」
「お許し下さい大精霊様。これも大精霊様のためでございますので、このまま法国にまでお連れすることになります」
大精霊はまゆの言葉など耳に届いていないようだ。莫大な魔力を攻撃に回して、光球を何度も殴りつけている。まゆは己の宝装に自信を持っている。攻撃力では常盤平天馬に遠く及ばないが、一度、捕縛すれば勇者の誰も脱出することができなかったからだ。
宝装への自信と、自信からの安心により余裕の生まれたまゆは、聞き分けのない大精霊様を窘めようとして、凍り付いた。
宝装に亀裂ができたのだ。
「な、な、なっ?」
「まゆ様! お逃げ下さい!」
眼下、かなり離れた位置にまで避難していた断罪者の声が届く。その正しい指摘にもまゆの体は動けない。魔力の消耗が大きく、体の動きが鈍っているのだ。それ以上に宝装に亀裂が入る現実が受け止めきれないでいる。
「こんなものでぇぇええっ!」
大精霊の大喝と共に生み出されたマグマが宝装を内側から叩き破った。衝撃で三番の光球も砕け、まゆは大きく吹き飛ばされる。地面に落ち、転がりながらもすぐに体勢を立て直して上空に視線をやる。
「どぉぉぉおおりゃあぁぁっ!」
「!?」
大精霊の追撃を警戒していたまゆの背中を、裂帛の気合のこもった声が叩く。思わず振り向いたまゆの視界に飛び込んできたのは、真っ白な刀を振りかぶったグリーンゴブリンの姿だった。
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