第一章:六話 洞窟を走る
「それじゃあ、『導き手』、個体識別は可能ですか?」
《肯定。広間にいた転生者と魔力波形が一致します。古木と越田です》
「ぉうふ」
奇妙な鳴き声は一騎のものだ。緑色の顔は青くなっている。
「あ、あの、『導き手』さん? 感知できる範囲で構いませんので、古木たちの能力を考慮して俺たちの戦った場合の勝率と、あと逃走成功確率はいかほどになりますでしょうか?」
《常盤平一騎が単独で戦った場合の勝率は0パーセントです。双方の移動力を考慮して常盤平一騎が単独で逃走する場合、成功確率は五パーセント未満です》
「単独ってところを強調しなくていいからね!? 俺は宗兵衛と離れるつもりはないから! 二人で協力した場合の確率を教えていただきたく!?」
《現状、主と常盤平一騎の両名で戦った場合でも勝率は0です。逃走の場合は八十七パーセントの確率で成功します。主が単独で逃走した場合の成功率は》
「最後のいらない! 断じていらない! さあ、逃げるぞ宗兵衛!」
「とことん人を巻き込んでくれますね。一番、効果的な場面で裏切ることにしましょう」
「死なば諸共、道連れにしてやるわ!」
一騎と宗兵衛は走り出したのだった。
◇ ◇ ◇
「けっ、逃げた後かよ」
忌々しそうに吐き捨てたのは狼の獣人、人狼の肉体を手に入れた古木だ。古木は広間で受けた屈辱――一騎に拳を避けられたことを指す――を忘れてはいなかった。必ず見つけ出して殺す、と心に誓っていた。
「匂いからすると、そう時間は経っていねえみたいだが」
応じたのは同じく人狼の越田だ。越田としては一騎の命などに興味はないのだが、相方がこだわるので付き合っているのである。
「つーか、あのキモデブ、やっぱり誰かと一緒に行動しているな。別の匂いがずっと一緒にありやがる。二対二になるみたいだぜ、古木」
「一対二だっつーの。匂いからしてキモデブと一緒にいる奴も、そんな強そうな感じじゃねえからな。まとめてきっちりぶっ殺してやる」
「いつになくやる気満々だな」
「たりめえだろ。いきなりこんなわけわかんねとこに連れてこられて、次には人間やめさせられてんだ。むしゃくしゃしてキモデブでも殺さねえと気が済まねえよ。そこらのクソモンスター共をどれだけ殺してもすっきりしねえしな」
古木と越田の爪牙は既に大量の血で濡れている。移動中に遭遇した魔物を殺して回った証だ。人間と人狼の身体能力の差に戸惑ったのも最初だけ。複数回の戦闘を経て、古木らは肉体の動かし方をかなり把握できていた。
肉体の性能しか把握できていなかった。
人間とはかけ離れた外見を持つ魔物が相手とはいえ、容赦なく殺すことができた精神の変調に古木らは気付いていなかったのだ。
一騎への強い攻撃性もそうだ。人間だったときは殴るだけでよかった。一騎が悲鳴を出す様やうずくまる様を見下ろしていれば満足でき、あるいは気が晴れたのに、今となってはその程度ではとても満たされることなどできなくなっている。
「あのキモデブ、力任せに引き裂いてやったらいい声で叫ぶだろうかな。意識が残っている間に臓物を食い散らかすくらいのことはしないと気が収まらねえ」
「だったら早いとこ追いかけようぜ、古木。あんなキモデブに逃げ回られているってのも腹が立つんだ」
「ふん、わかってるよ。もう、追いつくさ」
◇ ◇ ◇
息を切らせて走る一騎は空間把握能力に失調をきたしていると感じていた。
洞窟が広くもあり狭くもあるように感じられるのだ。前方の空間はゴールが見えない得体のしれない広さを、後方の空間からは今にも壁面に押し潰されそうな窮屈さを感じる。
「いや違うな。空間把握とかじゃなくて、追われていることへのプレッシャーが原因か。なんつーか、首の後ろあたりがピリピリするんだが、宗兵衛はどうだ?」
「皮膚がないからそんな感覚はわかりませんね。ただまあ、やたらと嫌な予感が追ってきている気配はありますが」
一騎のじろりとした視線と、宗兵衛の空虚な視線が交錯する。双方共に考えていることは同じ。
相手を生贄として追っ手にぶつけたら自分だけは助かるんじゃないか。
「不思議だな。骨に表情はないのに、お前の考えていることが手に取るようにわかる」
「それはそうでしょう。僕たちはきっと同じことを考えているはずですし」
「…………MMOでも協力は大事だったろ?」
「僕は一人でしかしたことがないのです」
「予想してないとこに地雷を置くなよ! ゲームの世界でもぼっちなのかよ、て俺と組んだことあったろ? 裏切りやがったけど」
「つい魔が差してしまいまして。今は反省しています」
「裏切りを?」
「まさか」
一騎は確信する。小暮坂宗兵衛は絶対に裏切ると。しかし一騎本人も似たようなことを考えていたので責めることはできない。
昨日の敵は今日の友。今の友が次の瞬間に敵になっていたとしても不思議はない。さらに次の瞬間には再び手を組んでも不思議はない。敵と味方の入れ替わりなど、一日に十回はあることだ。少なくとも一騎の中では。
一騎がどっぷりとはまり込んでいたMMO内における、一騎の周囲の人間関係はそんなものだった。都合がいいときは仲間で、利用価値がなくなれば仲間でなくなる。ゲーム内の仲間なんてそんなものだと一騎は捉えていた。それがかなり特殊な部類だとは本人は気付かなかったのだが。
ただしここはゲームではなく、残酷なまでに現実である。
「お前に至ってはそもそも仲間を作る発想があるかどうかも怪しいし」
「あまり人を舐めないで下さい。こう見えても取引には多少の自信があります」
「少なくともそこに友情はないな。あるのって利害感情だけだろ」
一騎と宗兵衛が友情とか仲間関係らしきものについての議論をぶつけ合う、と遠くから獣の咆哮が聞こえてきた。
妖精のペットの突進音とは違う、苛立ちや敵意を多分に含んだ、ストレスを発散させるためと相手への威嚇を目的とした咆哮だ。言語化されていないその叫びはしかし一騎には、「ちょこまか逃げてるんじゃねえ」と言っているように聞こえた。
「ゲームだとさ、最初のダンジョンってチュートリアルみたいなもんだろ、普通。難易度がやたらと高い気がするんだけど」
「僕が思うに、チュートリアルダンジョンヘルモードってやつでしょう」
「チュートリアルでヘルモードってなんだよ! クソゲーにも程があるわ! リトライできないし!」
「『導き手』、対象との距離は?」
《約四百メートル。六分から六分三十秒ほどで接触します》
「結構な余裕がありますね」
《移動速度だけで比較するともっと早く接触することになりますが、探査により地形を把握しているアドバンテージがあります》
「さすが『導き手』。なら、把握している中で川はありますか? 川の流れに乗ることができたら、嗅覚の追跡からも逃れられるでしょうし、洞窟の外に出られる可能性もあるでしょう」
《十分な水量を持つ川があります。ただし現状の探査範囲では洞窟外に繋がっているかどうかまでは不明です》
「足で逃げ続けてもジリ貧なのだから仕方ありません。いいですね、常盤平?」
「仕方ない。それで行こう」
一騎は自分が犬かきしかできないこと、十五メートルしか泳げないことは黙っていた。打ち明けたところでどうにもならないと悟っていたからだ。
――――クソがっ! 逃げてんじゃねえぞ、キモデブがぁっ!
洞窟の奥から下品な怒声が響いてくる。一騎の首筋のひりつきも徐々に強くなってきていた。
「追いつかれるのも時間の問題ですね。それにしても常盤平、どうしたらあそこまで怒りを買うことができるのですか?」
「俺が知るか! 向こうが勝手に俺をターゲットにしてるだけで、正直、いい迷惑なんだよ!」
「それに巻き込まれている僕は更にいい迷惑だとわかっているのでしょうね?」
「後ろにも隣にも敵しかいないって状況は勘弁してくれ! つか最初に合流を提案してきたのはお前だろうが! テレパシーかなんかで!」
「単独よりも生存確率が上がるかな、なんて考えてしまったのが間違いでした」
「うぉい!」
言い争いながらも足を止めない。一騎は運動が得意ではない。一人でするスポーツならこなせる宗兵衛はともかく、一騎の運動神経は学年でも最下層に位置する。なんなら地区全体を見回しても最下層かもしれない。そんな場合ではないのに、毎年、体力テストの時期になると憂鬱な気分になっていたことを思い出す一騎だった。
「いや、身体測定で毎年、座高だけが伸びるのも嫌だったんだけどな」
――――キモデブ、止まりやがれ!
後方から殺気と怒気に塗れた気配が近付いてくる。どうしてここまで熱心に自分を追いかけてくるのか、一騎は心底から疑問に思う。
前方から水が流れる音が聞こえてくる。川が近付いてきているらしい。追いつかれるのが先か、川にたどり着くのが先か。
「……追いつかれる可能性が高そうですね。止むを得ません、常盤平、そろそろ二手に分かれましょう。僕が囮として連中の注意を引きつけます。常盤平はその間、近くの岩陰にでも隠れていて下さい。安全を確認したら僕のことは気にせず一人で洞窟から脱出を」
宗兵衛が走りながら言い出した。自己を犠牲にさせる美しくも尊い発言に、一騎は賛成の言葉を返さなかった。
「ふざけるな。奴らの目的は俺だ。囮は俺がやる。これ以上、お前を巻き込むわけにはいかない。お前が隠れていてくれ」
「……」
「……」
「常盤平、君、僕を売る気でしょう?」
「それはこっちのセリフだ。俺を岩陰に置いておいて、そこに隠れてるぞ、とかなんとか言って切り捨てる気だろうが! つかお前、さっきから微妙に走るスピードが上がってねえか!?」
「魔力による骨体操作のコツがわかってきたのです。まだ速度を上げることができますよ。つまりですね、わかりますか、常盤平? 僕一人だけなら更に生存確率が上がるということです」
「最低なことを重苦しい口調で言ってんじゃねえぞ! 裏切るのかっ? ここまで来て俺を裏切るのか! ここまで道を同じくしてきた俺を? お前のことを心から仲間だと信じている俺を!?」
「これ以上、常盤平と一緒にいても僕に利がありませんからね。悪く思わないで下さい」
思わないわけないだろ、と反駁する時間も一騎にはなかった。分かれ道になっている地点で宗兵衛が一騎を突き飛ばしたのだ。デコボコした洞窟を走っていたこともあって、大きくバランスを崩した一騎は盛大に地面を転がる。
起き上がったときには宗兵衛が反対側の道を全速で走り去るのが見えた。
「さらばです、常盤平」
「く、信じていたのにっ、信じていたのにぃっ!」
「敗者の弁とはかくも耳に心地いいものなのですね。縁があればまた会いましょう」
「心の底から信じていたお前のポケットには俺の匂いが染みついた布切れを仕込んでおいたからなぁっ!」
「なにぃっ!?」
一騎もまた走り出す。
古木と越田が追ってきているらしいが、これで恐らく相手も二手に分かれることになるだろう。『導き手』の言葉通りなら、単独での行動は死を意味する。しかし信頼できない相手を隣に敵と戦うことなど、一騎にはできなかった。
これまでの人生がそうさせるのだろう、常盤平一騎は容易に他人を信用することをしない。できないと言ってもいい。
昼休み、親友だと思っていた奴に好きな女子のことを話したら、当日夕方にはクラス中が知っていた。MMOで仲間と信じていたメンバーたちに金とアイテムを巻き上げられて殺された。家族だって信じることができないのに、体育の時間以外で目立った接点のない宗兵衛を信じることなんてできるはずもなかった。
近い未来で起こるだろう人狼との戦いをシミュレートしながら一騎は走る。心の底から信じていた宗兵衛との決着は別の機会に回すとして、まずは自分が生き残ることを考えなければならなかった。
暗闇の道は複雑ではなかった。
川の流れる音を頼りに移動し続ければいいのだ。洞窟の反響で迷うリスクはあるが、余計な横道に逸れることがなければ短時間のうちに川を見つけることができるだろう。川にたどり着きさえすればなんとかなる。犬の追跡から逃れるには川を利用するのが有効だと、なにかの映画の記憶が頼りだ。
宗兵衛と協力し合えるならより都合がよかったろうが、二人の間に信頼や友情は乏しい。皆無とまではいかなくとも、背中を預け合えるほどではない。二対二で向き合った際、隣にまで神経を使わなければならないのは避けたいのが一騎の本音だ。
「仮にもクラスメイトに向ける考え方じゃねえよな」
自覚はしていても、かかっているのが自分の命である以上は仕方がない。同じ考えを持っているからこそ、宗兵衛もあえて別行動を選択したのだとわかっている。それがわかるくらいには付き合いが長い。
宗兵衛は『導き手』の効果もあって、高い確率で生き残るだろう。となると問題は自分のほうだ。人間だったときから古木との戦力差は大きかった。ゴブリンと人狼にわかれた今となっては、彼我の戦力は馬鹿馬鹿しいほどに広がっていると思われる。
いくつかの戦法は考える。相手の能力を正確に把握しているわけではないので実効性に欠ける、が頭を使うことをやめれば死は免れないのだ。
「っ」
背後から唸り声が聞こえてくる。嫌々ながらも退屈な修学旅行。こんなことなら欠席すればよかったと一騎は思う。教師やクラス委員長の義務的な説得に負けた自分を呪い、執拗に追ってくる古木を呪い、こんな状況でも諦めてくれない自分の心根を呪う。
「ああ、もう! 来るなら来ぉい!」
水の音だけでなく水滴を顔に感じられる距離まで来て、一騎は腹をくくる。振り向いた先には目を血走らせた人狼が立っていた。
次回からようやく戦闘シーンです。