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第三章:十三話 暗転

 クレアたちを見送ってから二日が経った。クレアを送り届けたら戻ってくる予定のアスラン助祭の姿はまだ見えない。今日も一騎の傍にいるエストは、


「真正聖教会の人間のことなど心配する必要はないわよ」


 と力強く断言していて取り付く島もない。


 教会への隔意や嫌悪の乏しい一騎としては、ほとんど接点がないにしろ、戻ってくる予定の人物が戻ってこないことに一抹の不安を覚え、相談した相手の宗兵衛には取り合ってもらえなかった。


「伝心人形があるのだから、なにかあれば藤山さんに連絡くらい入るでしょう」


 というのが理由だ。まっこともってその通りであり、一騎としても反論の余地がない。ただ、一騎はそれなりに心配して相談したにもかかわらず、


「……雨四光、八文です」

「ぐはっ!」

『何十連敗してるんですかー?』

《主、五十文を先取したほうが勝ち、というようにルールを変えることを推奨します》


 当の宗兵衛はアーニャと花札をしながら、一騎のほうを見もせずに対応した点に不満を感じたぐらいである。藤山まゆに心配している様子がないのも大きな理由ではあるが。


 後で連敗記録をからかってやろうと固く心に誓って教会の外に出た一騎の右腕に別の感触――弾力があって柔らかい――が発生する。藤山まゆが勢いよく一騎の腕に抱き着いてきたのだ。


「それじゃあ、常盤平。予定通り、私を案内してくれるかな」

「へっ!?」

「ちょっ、人間!?」

「いや、クレアが戻るときに言ったじゃない? 後で私を案内してって。今なら手も空いてそうだし、してもらおうかなーなんて」


 ダメ? と目線だけで――ついでに腕に当たる胸の感触で――問うてくる勇者。


 大事なことなので繰り返し説明するが、常盤平一騎は雑魚として名高いゴブリンである。戦闘力が弱いのは言うまでもない。だがしかし、意志の力については、ゴブリンであることとの関連性は薄い。単に一騎自身の問題であり、意志薄弱な一騎が勇者の誘惑に抗えるはずもなかった。


 ゆでだこのようになった首から上を激しく上下に振る。後は承諾の返事を口から吐き出すだけ、の段になってふと気付く。チロリ、とエストに視線を向けると、彼女はにっこりと笑う。


「大丈夫よ、イッキ。イッキが人間と敵対したくない、人間と仲良くしたいって気持ちはよく知ってる。人間との関係を大事にするために、勇者のお願いを蔑ろにするわけにはいかないってことも理解できているし、わたしはイッキの目的を邪魔しようだなんて絶対に考えたりはしないから」

「エスト……」

「だからね、イッキ?」

「ああ、ありが」

「重石をたっぷり用意して待ってるから」

「…………」


 つい最近までは、外から帰ってくると食事やよく冷えた飲み物を用意して待ってくれていたはずなのに、いまや待っているのは拷問器具である。あまりの落差に一騎は、いつの間にかアーニャとの花札を終えて外に出てきていた宗兵衛の服の裾を反射的に掴んでいた。目には涙をたっぷりと溜め、裾を掴む手どころか全身が小刻みに震え、首は何度も左右に振られている。


「常盤平」

「宗兵衛……」

「僕は他人の痛みには無限に耐えられる体質なんです」

「くぉのゲス野郎がぁぁぁああっ!」


 縋る相手が宗兵衛しかいないのも問題であった。


 経緯や結末がなんであれ、以後の一騎は忙しい時間を過ごすことになる。旅番組で芸能人に付きっ切りで地元を案内する、作り笑顔の眩しい役人のような働きっぷりである。


 ブリング――進化を期待して名付けたゴブリンの長老――の息子で、ゴブリンリーダーとしての役割を担っているゴブ吉を伴って、まゆとアーニャに村と村の周辺を案内しているのだ。一騎は盲目のアーニャには集落に残ることを提案したのだが、


「……わたくしは勇者様付きとしてここにいます。余計な気遣いは無用です」


 容易く断られていた。


 集落全体を見渡すことのできる高台にまで半時間かけて移動する。俯瞰で見る集落は少しずつ発展を加速させていることは見てとれた。疲れを知らない労働力であるスケルトンが森の開墾を、最大の労働力であるゴブリンが農業に就く、のだが農業はまだまだ業には届かない。魔の森にある植物で、農業に適した種を見つけるところからのスタートだ。


「森で栽培可能な作物があったら、是非とも譲ってほしいんだが」

「私は別に構わないけど、そもそもこの森ってなんの栽培に適してんの?」

「さあ?」

「話になんないじゃない!」


 実にまゆの言葉通りである。まゆの家は共働き家庭で、両親ともにサラリーマンだ。だが母方の祖父母は農業に従事しており、小学生時分のまゆは夏休みなどの度に農業の手伝いに参加していた。服や化粧と忙しくなった中学生以降はほとんど手伝いをしていないにしろ、まったくの素人である一騎よりは知識も経験もある。


「私もこっちに来てからは勇者としての勉強しかしてなかったし、久しぶりに畑の勉強でもしてみようかな」

「成果をこの村に還元していただけるととても嬉しい。農業顧問の地位を約束するから!」


 女子高生が喜ぶとはとても思えない地位である。事実、藤山まゆはありがたそうにするどころか、迷惑極まりないといった目付きだ。


 集落の周りを柵が囲っているのは他の魔物対策だ。ゴブリンから襲撃をうけた過去があり、またリザードマンと敵対することになったので対策は欠かせない。「まだ完成はしていないけどな」と一騎が説明する。柵は集落の正面に集中して作られ、裏手にはまだ手が回っていない。


「……うん?」

「ど、どうしましたか、アーニャんさん?」


 突然、なにかに反応した盲目の少女に、一騎はどもってしまう。物静かな彼女は人形のようで、どうにも一騎は苦手意識を覚えていた。宗兵衛が平気な顔で付き合えているのが不思議でならない。きっと宗兵衛はロリコンなんだろうと結論付けた一騎は、帰ったらこのネタでからかってやろうと誓うのだった。


「……なんでもありません。あと、アーニャんは不愉快です」

「えー、いいじゃん。アーニャん、可愛いじゃない」

「……特に下らないことを広めた勇者様にはかなり落胆です」

「酷い! アーニャん、酷い!」


 まゆは泣きまねまでして見せた。閉眼したままなのに、アーニャがまゆに向ける視線は冷凍光線並みに冷たいことだけはわかった。が、すぐに黙殺する方向にシフトする。おどけるまゆの相手をするのは疲れるようで、視線――閉眼しているので、視線という表現が適当かはともかく――を森に落とし、愉快気に微笑した。


 森の中にアーニャの興味を引くようななにかがあるのか、気にはなっても追及する気の起きない一騎である。


「ちょっと常盤平、あれはなにをしているの?」


 まゆの指し示した先ではゴブリンが剣を振っている。野良剣法ではなく、整った姿勢での素振りは、集落唯一の武術の使い手、宗兵衛が指導したものだ。宗兵衛自身は指導に乗り気ではなかったのを、一騎が頼み込んで実現させた経緯がある。


 合流したハーピーとギルマンを加えてようやく三桁に届く程度の兵力。少しでも底上げしようと訓練を課しているわけだ。ちなみに、好戦的な魔物だけあって、戦闘に関する技術の飲み込みは早いらしい。


「魔物でも訓練なんてするんだ。でもなんで訓練なんかしてるの? 人間と戦争したいってわけじゃないんでしょ?」

「当たり前だ。あれは他の魔物対策だ」


 魔の森の全体の動きまではわからないので、一騎は教会を中心とする動きだけを簡単に述べる。当面、最大のリスクになりそうなのはリザードマンだ。なにしろ一騎本人がリザードマンを斬り倒している。遅かれ早かれ、衝突は避けられそうにない。


「備えてるわけだ。さすがね」

「なにがさすがかわからんが。一応、ゴブリンたちは剣兵と弓兵にわけてるんだ。このゴブ吉ともう一人、ゴブ助ってゴブリンが隊長をしている。ハーピーとギルマンも仲間になったことだし、もう少し幅を出せるといいんだが」

「色々考えてるのね。ね、もうちょっと詳しく教えて」


 まゆが一騎の手を取ると、一騎の相好が崩れる。一騎は自分のしていることが評価されて嬉しく、「幅を出せるといい」などと悩むフリをして、実際はかなり気持ち的にも舞い上がっている。


 一騎はリザードマンを警戒していた。リザードマンだけでなく、一応は他の魔物も警戒している。転生者が現れる可能性も捨ててはいなかった。だがすぐそばにいる藤山まゆを、魔物を敵視する教会関係者を警戒することを、完全に怠っていた。


「……危険だね」


 だからこそ藤山まゆがぼそりと呟いた言葉に気付かなかったのである。言葉だけではない。周囲に潜んでいた複数の気配にも、気配の一つが殺気を伴って近付いてきたことにも気付かなかった。


 気付いたときには腹を背中から貫かれ、状況が理解できないままに動かした視線の先では、ゴブ吉の肩口が斬り裂かれていた。血の塊を吐き出した一騎は、どうしたらいいのかわからず、もっとも近しいと信じるまゆに向けて手を伸ばし、伸ばしきる前に足が体重を支えられなくなる。


 地面に倒れた一騎はそのまま、高台から転がり落ちた。下には川などではなく木々が生い茂っている。地面に叩きつけられて死ぬか、木々の枝に裂かれて死ぬか。どちらにせよ一騎は真っ逆さまに落ちていく。


 視界が赤く染まり、真っ赤な視界は一瞬で黒く塗り潰された。

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