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幕間:その四 堕ちた勇者

 暗い暗い暗い地の底。ありふれた、使い古された表現しか思いつかなかった玉ノ井幹康だが、自分の脳みその貧弱な発想には欠片の関心を示さなかった。実のところ、玉ノ井幹康は地の底にいるのではなく、木々の生い茂る森の中にいた。


 好き好んでいるのではない。追いやられてのことだ。仲間だと信じていた連中に受け入れてもらえず、それどころか排除された結果として、玉ノ井幹康は森の中を這いずり回っていた。


 勇者召喚とやらいう儀式に巻き込まれて数日は問題なく過ごせていたとの確信がある。決して誰の邪魔もせず、誰かを虐げるような真似もせず、自分が目立つような真似もしなかった。中心になることなく、疎外されることもなく、日々を過ごせていたと思っている。


 崩れたのはいつだったのか。振り返ろうとして、実は最初から崩れていたのだと思い知る。


『欠けた仮面』。玉ノ井幹康に与えられた宝装だ。仮面などと銘打っておきながら、左目の一部分を覆う程度でしかないこの宝装は、デザインも黒を基調とした禍々しさを漂わせている。


 他の勇者たちの宝装は剣やら盾やらとわかりやすく、それら以外にも本や杖のようになんとなく用途や能力の見当がつくものが大半だった。『欠けた仮面』の能力はさっぱりわからず、所有者である玉ノ井幹康本人も戸惑うばかり。確かなのは、『欠けた仮面』を装備すると、凄まじいばかりの飢餓感に襲われてしまうことだけだ。


 使い方がわからないまま数日が過ぎ、その日がやってきた。他の勇者たちが玉ノ井幹康を切り捨てたのである。魔族と戦う勇者として戦力にならない、というのが理由だった。


 玉ノ井幹康は問題なく過ごせていたのではない。本人が勝手に思い込んでいただけで、実際は周囲から観察され、様子を見られていただけだった。よくわからない宝装、だが貴重な戦力になるかもしれないから、と。だが数日を経ても状況に変化はなかった。他の勇者たちが次々と宝装の力を発動させる中、腹が減るだけの仮面に価値を見出すものは一人もいなかった。


 勇者たちのチームは、日本でのグループをそのまま引き継いでいることがほとんどだ。人数の少ないグループ、戦力に自信のないグループが他のグループに合流することはある。教室内でのグループより部活や委員会関係のグループに移ったものもいる。いずれも、ある程度は気心の知れた仲間どうしでくっついていた。


 玉ノ井幹康も同じだったのだが、有益な宝装ではないと見限られ、グループから追い出されたのだ。仲間だと、友人だと信じていた人間の裏切りは玉ノ井幹康に大きな衝撃を与え、衝撃を与えるだけでは済まなかった。


 次に待ち受けていたのは、どこのグループも自分を引き受けてくれないという現実だったのである。


 王国や教会関係者も玉ノ井幹康には冷淡だった。常盤平天馬のような期待をかける相手への待遇とは逆の、無関心で無干渉な態度を貫いていた。


 居場所を失ったと自覚しながらも、他に行くところもない玉ノ井幹康は、しがみつくようにして王城に留まり続けていた。留まることすら許されないと知ったのは、ある日の夜。居心地の悪さから食堂を出た玉ノ井幹康は、闇討ちを受けたのだ。犯人は不明。わかっているのは同じ勇者の中の誰かだということだ。


「お前みたいなのが勇者だと、同じ勇者の俺たちが安く見られるんだよ」

「同じじゃねえよ。こいつは出来損ないだ」

「ハハ! 違えねえや!」

「出来損ないの落ちこぼれが。さっさと出て行ったのなら見逃してやったのに、しつこくしがみついてるからこうなるんだ」

「自業自得って奴だな」


 背後からの不意打ちを受け、誰何の声を上げることも糾弾することもできず、玉ノ井幹康は逃げ出す。執拗な追跡者から逃れるために王城の外に出、尚も追いかけてくるかつての仲間を罵りながら、森の中に逃げ込んだ。


 森に入ってから何日が経過しただろうか。追跡者の手も届かなくなり、安堵したのも束の間、腹の虫がうるさいくらいに主張しだす。湧き水や川ぐらいはあるだろうとの淡い期待は、泥を湛える薄汚れた水溜りを見つけることで砕けた。


 強い口渇感に晒された玉ノ井幹康は水溜りに飛び込むようにして、泥水をすする。ジャリジャリとした感覚が舌と喉を通過し、喉の渇きだけはなんとか誤魔化すことに成功し、数時間後には強烈な腹痛に見舞われて倒れてしまう。


 玉ノ井幹康は体力も尽きていたので、ズボンを下ろすこともできなかった。下痢便により下半身は汚れ、しかし風呂などあるはずもない。下痢が続いたことによる脱水、空腹感を通り越した飢餓感。苦痛に塗れて意識を失うことができればどんなにか楽だったろう。けれどなまじ魔力の強い勇者は気絶すらできない。絶え間ない苦痛に、玉ノ井幹康が考えることはいつしか一つのことに集約されていく。


「なんで俺が」


 疑問の形をした、それは怒りだ。心が折れるのではなく、諦めに浸かるのでもなく、玉ノ井幹康は自身の内を怒りで燃え上がらせる。


「ふざけるなふざけるふざけるなふざけるな。なぜ俺がこんな目に遭うんだこんなに苦しめられるんだ責められるんだ攻撃されるんだ殺されそうになるんだ。俺は悪くない。こんな宝装しか寄こさなかった教会の連中が悪いんだ。なのになんだって俺が悪いようになってんだ。好き好んでこんなところに来たわけじゃねえのに、勇者になんかなりたかったわけじゃねえのに、なんで俺がこんなに苦しまなきゃならねえんだ。俺がなにをしたってんだ。どうして誰も俺を助けてくれないんだ。どうして誰も俺が悪くないってわかってくれないんだちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう」


 玉ノ井幹康の思考は怒りに染め上がっている。理不尽な召喚に、押し付けられた立場に、裏切った仲間たちに、灼熱の怒りが血液や電気信号に代わって全身と魂を駆け巡る。どうしようもない怒りが玉ノ井幹康のすべてに置き換わっていく。


 復讐だ復讐だ復讐だ。必ず報いを受けさせてやる。こんな世界に呼びつけた教会の連中も、簡単に裏切った仲間だった連中も、一人残らず復讐の炎で焼き尽くして復讐の刃で首を掻き切ってやる。


 復讐復讐復讐、厳然たる復讐をこそ誓う。


 ゴトリ、と音を立てて倒れている玉ノ井幹康の前に転がり出たものがあった。『欠けた仮面』だ。宝装でありながら、なんら役に立たなかった、どころか災いを呼び込んだふざけたアイテムが目の前に転がっている。


 玉ノ井幹康の心中に新たな怒りが湧く。これこそが理不尽の象徴だ。押し付けられた勇者としての身の証にして、この身をこれだけの苦痛の中に放り込んだもの。


 手を伸ばす。『欠けた仮面』を砕け散った仮面に変えてやる。復讐の手始めに、勇者の証である宝装を破壊する。ボロボロになった心同様、ボロボロに傷ついた腕が『欠けた仮面』を掴み、掴んだ腕が力を失い、『欠けた仮面』が落ちた。玉ノ井幹康の顔の上に。


「っっっ―――――!?」


 暴風のような、氾濫のような、圧倒的な飢餓感に襲われる。復讐の念も、怒りも憎悪も刹那にすら満たぬ間に押し流された。


 あるいは人格すらも。


『欠けた仮面』の左目部分が明滅する。まるで『欠けた仮面』に持ち上げられるかのように、グン、と勢いよく、不自然な体の使い方で玉ノ井幹康は起き上がった。口からは涎が滝のように流れ、仮面に塞がれていない右目は爛々と輝いている。


 その目が捉えるのは木の枝に巻き付いた一匹の蛇だ。魔物だろうか、日本で見るよりもはるかに大きな蛇が玉ノ井幹康を見下ろしている。その瞬間に蛇の行く末が決まった。


 飯だ飯だ飯だ飯だ殺す殺す殺す殺す殺して、食ってやる。


「がああぁぁぁぁああっ!」


 人間離れ、というよりも哺乳類離れした動きと跳躍力で蛇に襲いかかる玉ノ井幹康。枝に巻き付いている蛇は尾を振るうこともできず、大きく口をあけて威嚇する、が意味がない。


 強烈な飢餓感に突き動かされる玉ノ井幹康は、威嚇など気にすることなく蛇の喉に食いついた。激しく暴れる蛇を意にも留めず、喉を食い千切り、咀嚼もせずに飲み下す。想像を絶する高揚感に襲われ、食欲のままに蛇を貪る。


 玉ノ井幹康は気付いていない。蛇を掴む己の爪から、蛇の出す毒が滴っていることに。『欠けた仮面』の大きさがわずかだが増していたことに。


 宝装『欠けた仮面』は飢えと渇きの苦痛を与える。生きながらにして餓鬼道に突き落とすようなものだ。飢えと渇きの衝動を満たすために食事を行わせ、捕食対象を装備者の内側に取り込ませることで、装備者を徐々に強化していく。精神から人間性を奪い、肉体をも変性させながら。『欠けた仮面』自体に戦闘力はない。防御力や支援能力もない。あるのは装備者を強烈な飢えと渇きに晒して強化を図る能力だ。


 七メートル近い大蛇を食い尽くし、しかし少しも満足することのなかった玉ノ井幹康は新たな獲物を求めて歩き出す。いつの間にか、傷ついた肉体は回復していた。

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