幕間:その一 教皇ルージュ・アウグスト
「顔を上げなさい、ボストーク大司教」
「は、ははっ!」
硬く、鏡のように磨き抜かれた石の床に跪き、広くなった額を石床にこすりつけていたボストーク大司教は、バネ仕掛けの人形のように勢いよく顔を上げた。
ここは真正聖教会の総本山、アウグストリア法国は大神殿である。
法国といっても国家としての規模は小さく、都市国家の域を出ない。ただし、宗教的な重み、国際的な立ち位置を加味すると、発言力や影響力は他国を圧倒する。
真正聖教会の聖地であり、二十万人を超す住人の全員が真正聖教会の信者。数多の奇蹟や秘宝を所有し、世界中の信者らから送られる寄付の合計はレメディオス王国の国家予算を大きく凌ぐ。枢機卿以上ともなると上級貴族以上の存在として扱われ、教会の最高位たる教皇に至っては、神の代行者として国王よりも上位に位置付けられている。
顔を上げたボストーク大司教の視線に先には、第四十八代教皇ルージュ・アウグストが鎮座していた。十代前半のまだまだ幼いルージュはしかし、氷点下の眼差しでボストークを睥睨する。
ルージュの隣に立つ壮年の男性、カリオス枢機卿が一歩前に出た。教皇補佐を務める人物で、先ほど顔を上げるよう命じたのも彼だ。
「ボストーク大司教、なぜここに呼ばれたか、理由はわかっていますね?」
「はぃ、そ、それは」
皆目見当がつきません、などととぼけることはできない。よりにもよって教皇の御前にまで召喚されているのだ。証拠も根拠もなくできることではない。召喚状を受け取った二日前には、ボストーク大司教の視界はグニャリと歪み、自らの目論見が崩れ去ったことを自覚させられた。
「ゆ、勇者召喚について、でございましょうか?」
「弁明の余地はありません。教会の権限である勇者召喚を勝手に行った罪、召喚のために教会の秘儀である法具を無断で持ち出した罪、召喚した勇者を己が出世に利用した罪、他にもありますが、いずれも許されるものではありません」
ボストーク大司教の全身から大量の汗が噴き出ている。教会を出し抜いたと思っていたのに、すべて見透かされていたとは。このままでは間違いなく処刑されてしまう。ボストーク大司教は何としても自分自身を守ろうと決意した。
「お、お待ち下さい! すべては愛ゆえ……っ! 愛ゆえに行ったことにございます。勇者召喚は大罪であるとわかってはおりましたが、神を! 世界を! 教皇猊下を愛するがゆえの行動にございます! 我が魂が罪に汚れようとも、この世界から魔族を滅ぼさんがための……っ!」
再びボストーク大司教は額を石床にこすりつける。
「この身はいかなる罰でもお受けいたします。ですが! ですが叶うならば、この身の一切を魔族討滅にお使いいただきたく存じます! このようなことで罪が許されるなどとは思ってはおりませぬ。罪への罰として処刑されることも覚悟はしております。しかし、人々を正しく導く教会の末席にあるものとして、最後は魔族との戦いに命を投じ」
「ボストーク大司教」
せっかくのボストーク大司教の熱弁を遮ったのは、一切の熱を感じられない教皇ルージュ・アウグストの静かな声だった。ボストーク大司教はこんなときであるにもかかわらず、感動を覚えてしまう。教皇から直接声をかけられるなど、一体いつ以来か。
「召喚した勇者たちに、勇者としての見込みはあるのですか?」
「教皇猊下のご下問である。答えよ、ボストーク大司教」
「は……ははっ!」
召喚した勇者たちの顔を思い浮かべる。もっとも期待できそうなテンマ、好色が前面に出ているが一番早く順応したエイジ、他にも優れた力の持ち主たちは多くいる。ボストーク大司教は脳細胞を回転させながら舌も動かす。
「ゆ、勇者たちの多くは年若くはありますが、いずれも強い魔力と宝装を有しております。王国で行っている訓練が終わり次第、勇者として魔族討伐の任に着く予定ですが、必ずや教皇猊下のご期待に応えられるものと確信しております!」
「そのような些事を問うているのではありません。勇者としての力ではなく、勇者としての資質を問うているのです」
「資質、でございますか?」
「躊躇いなく世に正義を執行できるか否か、ではなく、正義を執行するために神の名や教会の権威を借りねばならぬほどに弱いかどうか、が重要なのです。教会の権威によって与えられる力と立場と価値観にこそ無上の喜びを見出し、これらをほんの僅かでも否定したり傷つけたりする不逞の輩の一切を、魔族の手先として情け容赦なく誅滅する残虐性と残忍性を有するもの。且つ己の行いの責任を他者に転嫁して自らを正当化することに執着するもの。資質とはそういうものです」
ボストーク大司教は背筋に氷の杭が突き刺されたような感覚を覚えた。行動の一切を神や教会の名を借りて行う弱さ、名を借りればあらゆる所業を平気で行える残忍性、残忍性を正当化する卑劣さ。これらこそが勇者の資質であると教皇ルージュは口にする。
「今一度、問います。召喚した勇者たちに、勇者としての見込みはあるのですか?」
世界を救うことを期待するのではなく、教会や神にとって役に立つかどうか。教会の権威や、民衆支配の助けになるかどうか。教皇ルージュの凍てついた瞳は、ボストーク大司教の心臓を容易く貫く。
事実、教皇ルージュの瞳は一般人のそれとはかけ離れている。金色に輝く瞳には波紋のような紋様が浮かび上がっており、魔法的な素養に乏しい人間でも、一目で尋常ではないとわかるほど強い魔力を感じ取れる。
神眼とも真眼とも呼ばれるこの金色の瞳こそが教皇の証だ。現教皇ルージュは歴代でももっとも色濃い神眼の持ち主として知られている。歴代教皇の大半が左右のどちらかにしか発現しなかった神眼を、両目に宿しているのだ。黄金の輝きも太陽を溶かし込んだかのように濃く、教皇ルージュは大神アルクエーデンの娘とまで囁かれている。
「も、問題はございませぬ。勇者たちには教会教義を中心とした教育を施しておりますれば、いずれも忠実なる神の使徒として力を振るうことと存じます。勇者たちの中には入信したものも複数おりますので、必ずや……っ」
教皇ルージュが瞑目して口を閉ざしたので、カリオス枢機卿が代わりに応える。地位も高く、地位を得るための手腕にも長け、教会の内外で高い評価を得ているカリオス枢機卿も、教皇ルージュの後では凡人にしか見えない。
「ボストーク大司教よ、理解しているな? 勇者には我らが聖典のみを読ませておればよいのだ。他者の書いた本など不要。自分の頭で考え、自分の意志で行動するような勇者など求めてはいない。命令を、指示を、完璧に実行できるものがいればよいのだ。自分で考えたように錯覚し、自分の意志で動いているように勘違いする間抜けな愚者こそ、教会に必要な勇者なのだ」
「は……はい。重々に」
ボストークの口腔内はカラカラに干上がっていた。かつて、出世のためのデモンストレーションで砂漠にすむ部族を帰依させたことがあったが、そのときですら比較にならない、強烈な口渇感に襲われている。全身を汗が伝い、ボストーク大司教の主観的には、体内の水分の半分以上が既に失われていた。
教皇ルージュが小さな手を軽く振り、カリオス枢機卿は恭しく頭を下げ、一歩下がる。
「勇者とは、無私の信仰者でなければなりません。わかっていますね?」
「もちろんでございます!」
平身低頭を全身で表現し、ボストーク大司教は下がる。脂肪で丸くなっている背中には、立身出世を目論む野心家としての意欲や覇気は微塵も感じられず、カリオス枢機卿の口角は意図せず吊り上がってしまう。腹芸と宮仕えに熟達したカリオス枢機卿は巧みに笑みを押し殺し、教皇ルージュに一つの報告をする。
「教皇猊下、ファリスタが戻ってきたとのことです。通してよろしいでしょうか」
教皇ルージュは首を小さく縦に振る。ボストーク大司教に次いで教皇ルージュへの名誉ある謁見を賜ったのは、まだ年若い少女だ。ファリスタと呼ばれた少女の正体を知る者は少ない。教会の上層部か、そうでなければファリスタの被害者かだ。ボストーク大司教は知らず、ボストーク大司教らが召喚した勇者たちの中では出口教諭だけが知っている。
ファリスタの後ろには、豪奢な箱と、素朴な造りの木箱を緊張した面持ちで運ぶ二人の従者がおり、従者たちは丁寧且つ慎重に箱を床に置き、一礼をしてから箱の蓋を取り払う。
素朴な木箱の中に納められているのは、勇者の一人でもある出口教諭の首。
豪奢な箱に納められているのは、出口教諭の宝装である『預言書』だ。
このファリスタは好色な出口教諭に近付き、これを殺害、宝装を回収したのである。カリオス枢機卿が進み出て、豪奢な箱に納められている『預言書』を手に取った。木箱の出口教諭の首には見向きもしない。
「これが宝装『預言書』か。使いようによっては相当強力であろうに、欲望を満たすことにしか使わんとは、出口という男は本物の愚物でございますな、教皇猊下」
愚かであるのは勇者として相応しい資質である。しかし真正聖教会が勇者たちに保有を許すのは直接的な戦闘力のある宝装が原則だ。例外はある。教会に帰依し、教会のためにすべてを捧げられる勇者ならば、この『預言書』のような宝装の所持も許される。出口教諭は欲望が前景に表れすぎで、教会に寄与することもないどころか、害をもたらしかねないとの判断から処刑と宝装の回収が行われたのだ。
「その『預言書』のように教会の正義や教義に疑念を抱かせかねない宝装は、勇者たちが使う必要はなく、持っている必要は更にないものです。ファリスタ、よく回収しました」
「ははっ! すべては天上の尊きお方と教皇猊下のために!」
ファリスタの顔は、教皇ルージュへの拝謁という光栄に浴することができたことへの歓喜に満ちていた。
出口教諭の『預言書』は、遠い未来を見通すことはできない。近い、精々が数日先までしか知ることができない。質問に答える形式の宝装であり、質問や疑問を投げかければ、解決するための指針を預言として示すのだ。預言というよりも案内や進行の役割というべきかもしれない。
好色な出口教諭は女との出会いしか求めていなかったが、確かにカリオス枢機卿の指摘通り、強力な宝装である。教皇ルージュが静かな口調でカリオス枢機卿に命じた。
「その宝装を用いてボストークを始末しなさい」
「はっ。教会に最大限の利益をもたらすよう、取り計らいます」
「犬の皮を被った卑屈な蝙蝠など、真正聖教会には不要です。レメディオス王国へはクルト枢機卿を配置しておくように」
「大司教の席が一つ、空くことになりますな。いかが致しましょうか?」
「雑事はお前に任せます」
教皇ルージュは、木箱の中に納められている出口教諭の首に向けて笑みを向ける。柔らかで、穏やかな、悪意の結晶のような笑顔だった。




