第一章:四話 骨との合流
暗闇の中を一騎は走っていた。
一筋の光もない洞窟内部を、壁にぶつかることも躓くこともなく走り続けている。暗闇の中の洞窟走行を通じて、このゴブリンの身体能力も大体は把握できた。
まず、いかに最下級とはいえ魔物は魔物。ゴブリンの基本的な能力は人間よりも上だ。少なくとも人間だったころの一騎よりもはるかに優れている。
「いや、単に俺の身体能力が人類平均よりもかなり下だったってだけの話なんだけどね」
五十メートル走も持久走も前屈も、こと運動に関する限り――学力も低いが運動ほどではない――一騎の成績は燕もびっくりの低空飛行だ。それがゴブリンに転生した途端、頭で考えた通りに体が動くのだ。常盤平一騎の肉体がどれだけ脆弱だったのかがよくわかるというものである。
あるいは、これが転生による特典、一騎が獲得した特異能力の効果かもしれない。
『進化』
それが一騎の獲得した特異能力である。心の奥底で抱えていた、矢立誠一のようになりたい、なんてバカな願望を拡大解釈したのか歪曲した解釈がなされたのか、とにかく常盤平一騎は『進化』なる能力を身に着けていた。
「でもなんなんだよ、この能力。なりたい自分になれるってんなら、ゴブリンじゃなく俺も魔人とかにしてほしいっつーの。そもそもゴブリンが進化したら何になるんだよ。ホブゴブリンか? ゴブリンロードか? どっちにしろ弱っちいじゃねえか」
一騎は頭を抱えたくなる。複製とかの能力のほうが使い勝手が良かったかもしれない。ぶつぶつと文句をこぼしながらも走り続ける。
「くそ、こっちに走っていったと思ったんだけどな。どっかで間違えたか?」
決してやみくもに走っているわけではない。一騎は自分自身というものをよく知っている。このままでは洞窟から生きて出られないだろうなとも悟っている。なにしろ古木も越田も自分よりも強力な魔物なのだ。なにも考えずに走っているだけで逃げ切れるはずがない。
一騎は状況を覆すための仲間を求めて走っていたのだ。
脱出のタイミングを教えてくれた、一騎にとって、恐らく唯一ともいえる仲間を求めて。
「あいつが唯一の仲間ってのも正直どうかと思うけどな」
「同感ですね、まったく」
「うおぉっ」
突然の声に思わず飛び上がる一騎。
暗がりに潜んでいたのは一体の骸骨、つまりはスケルトンと呼ばれる魔物だった。肉体があればまだしも元が誰であったのか想像もつくというのに、骨だけになってしまっては皆目見当がつかない。歯の治療痕や手術の痕から個人を特定できるが一騎にそんな知識はない。
「お、お前、あいつ……なのか?」
「君ならわかるはずです」
「宗兵衛、か」
「よくわかりましたね」
「お前がわかるって言ったんだろうが!」
大声でツッコんでしまう一騎だった。
「声が大きいですよ、常盤平。位置がばれる可能性が高くなります」
「む」
釈然としないながらも一騎は宗兵衛の指摘の正しさに黙り込む。
腐った眼を持っていた小暮坂宗兵衛は、いまやがらんどうとなった眼を一騎に向ける。立ち話をする余裕はないから、と移動しながら対策を練っていくことを宗兵衛から提案され、一騎も一も二もなく頷くのだった。
◇ ◇ ◇
全身を容赦なく貫いた痛みからようやく解放されたとき、小暮坂宗兵衛の視界は完全に失われていた。真っ暗でなにも見えない。視力を失ったのか、と絶望的な考えに至ったそのとき、
《否定。失ったのは視力ではなく眼球、視神経、電気信号を映像にする脳細胞、のみならず肉体のすべてを失っています》
「……」
突如聞こえてきた少女の声により、随分な事実を叩きつけられる宗兵衛だった。だが動揺はしない、いや盛大に動揺はしてもすぐに落ち着く。このあたりの神経の太さはとても並の人間ではない。神経自体も失われているのだが。
(それで、声の主である君は僕の想像した通りの能力であっていますか?)
《肯定。転生に伴い獲得される特異能力、『導き手』になります。以後、よろしくお願いします》
やたらと人間っぽい反応ですね、との感想を覚える宗兵衛だった。『導き手』、小暮坂宗兵衛が獲得した、望んで獲得した能力だ。宗兵衛はこの事態に陥ったときから生き残るために必要なものはなにかと考え続け、ナビゲーションこそが必要だと判断したのだ。
あの妖精が一から十まですべてを教えてくれるとはとても思えず、またそんなシステムが魔物の世界にあるとは思えなかったからだ。
自分が必要とする情報を与えてくれる技能をこそ、宗兵衛は必要としたのである。もっと強力な能力にすればよかったじゃないかと思わなくもない。
(たとえば全知全能とか万物創造みたいな能力、でしょうか……?)
《否定。獲得される能力は主に当人に相応しいものになります。人の分際を超えるような能力の獲得はできません》
(それもそうですか……てか分際って)
言葉遣いが悪いような気がした宗兵衛だったが、この点については慎ましく沈黙を守ろうと決める。優先しなければならないことはいくらでもあるのだ。
(まずはなによりも重要な情報収集ができないのは困ります。目が見えないのですがどうしたらいいかわかりますか?)
《魔力もしくは魔素を用いた知覚が必要になります》
宗兵衛は『導き手』の便利さを実感した。問えばやり方も教えてくれるのだ。魔力や魔素による知覚の方法も丁寧に教えてもらった結果、魔素の感知方法や魔力の操作方法の習得までできたとあって、自分の選択の正しさを強く実感したのだった。
(……なんですかね、これは)
視界が開けて最初の、自分が骨だけになっている感想だ。
強靭な肉体に転生とか言っていたはずなのに、肉体そのものがない。あるのは肉も内臓も脂肪も神経も一切を削ぎ落した無駄のないフォルム、骨だけだ。チャームポイントの腐った眼を失った眼窩は、魔力により青白く輝いていた。
(家族でテーマパークに行ったときを思い出しますね。ウォーキングデッド……あれはゾンビだったような? いや、中には骸骨メイクの奴がいたような気もしますし、て現実逃避している場合じゃなかった。『導き手』、骨の体ということは視力同様、魔力で動かすことになるのですか?)
《肯定。魔素もしくは魔力で動かすことになります》
(効率的な魔素や魔力運用の方法とかありますか? あればこの体自体にインスト……設置するというか入力するというか刻み込むというか、そんなことができるなら、しておきたいのですが)
《了承。多少の時間を要しますが》
(なるべく急いで頼みます。やばそうな雰囲気になってきていますから)
宗兵衛の前では妖精が物騒な熱弁を振るっている。誘拐して転生させておきながら、弱ければこの場で殺すと口にする。生き残りたければ強くなれ、強くなりたければクラスメイトどうしで殺し合え。
妖精さんに対する暖かで微笑ましいイメージはガラガラと音を立てて崩れ、いまや瓦礫となっていた。
『たとえばそちらのゴブリンを殺すとかいかがですかー?』
妖精の指名で宗兵衛を含む全員の目が一点に集中する。スケルトン以上に脆弱そうな魔物、緑色のゴブリンが戸惑っていた。
まずい、と宗兵衛は考える。相手が誰であろうと、殺してしまえば取り返しがつかない。一線を越えてしまった後は躊躇いがなくなってしまうだろう。巻き起こるのは凄惨な殺し合いだけである。
(おっそろしい妖精ですね)
人間のことをよく知っている。自分に被害が及ばない限り、人間はとことん冷淡になれる生き物だ。交通事故も内戦も他人事と捉える。
学校のような閉鎖的なコミュニティで身近な人間が排除される事態になっても、「皆がやっている」「自分だけが悪いわけじゃない」「やらないと次は自分がターゲットにされる」とかなんとか、自己保身のための理由を見つけては罪の意識なく行動を正当化できるのだ。
いわんやこの状況、冗談抜きで本当に命にかかわるとあっては、妖精の扇動に抗うことは不可能だ。
(進捗状況はどうですか、『導き手』?)
《順調。残り二十七秒で完了します》
返答を受けて宗兵衛は骨の肉体を細かく動かし始める。タイミングを見計らって最速でこの場を脱出するためだ。常盤平が転生したあのゴブリンは絶望的だ。周囲を固められ、目の前には人狼。生き残るのは難しいと思えた。
(だからといって見殺しにするのも気が引けます。古木や他の連中みたいなのと同じになるのもご免被りたいところですし……『導き手』、あのゴブリンと会話は可能ですか? 声に出してじゃなく念話というか頭の中だけで会話するというか)
《肯定。接続に成功しました、どうぞ》
(便利ですね、ほんと)
宗兵衛が伝えた情報は二つ。
魔力感知により判明した情報、つまり妖精のペットが間もなくこの広間に現れることと、ペット出現のどさくさに紛れて逃げることだ。いくつか返された文句は無視する。見殺しにはできない、かといって積極的に助けられるほどの余裕もないのだ。
《残り五秒で完了します。妖精のペット出現まで九十五秒》
(いよいよですか。楽で安全な脱出ルートとか、わかります?)
《否定。洞窟内のルートの危険度はいずれも変わりありません》
(魔素感知を使って洞窟内のマッピング、ついでに索敵はできますか?)
《肯定。直ちに実行します》
ここまでくればもうぶっつけ本番。宗兵衛は覚悟を決めた。
古木たちがじりじりと常盤平ゴブリンに近付いていくのを尻目にそれとなく動き出し、広間が大きく揺れると同時に手近な穴に飛び込む。生き残れるかどうか、答えはまだわからなかった。
◇ ◇ ◇