第二章:二十六話 森を這うものたち
未だ太陽の恵みが残っている時間であるにもかかわらず、森の中は薄暗い。うっそうと生い茂る木々に遮られ、陽光の恵みは地面にまで落ちてこないのだ。夜がひそやかに近付くこの時間ともなれば尚更で、西空に低くなりつつある太陽では、森の表層を赤く染めるのがやっとである。
森の大半は常に影に侵食されていて、その中を男は、這いながら移動し続けてきた。眠ることはできない。眠る時間自体はあるのだが、過度のストレスにより睡眠欲求は駆逐されていた。種族的に睡眠が必要ないことも関係している。
緑川は疲れ果てていた。ソウルイーターに作り変えられ、骨刀で斬り裂かれ、自爆までさせられた。緑川の本体、もしくは本来の意識は既に滅びている。ゴブリンに真っ二つにされたときに意識の九割方は破壊され、自爆により残りの一割も掻き消えた。ここにいるのは緑川の最期の怨念や未練に、腐肉がこびりついて緑川らしき形になっただけの、もはや別物だ。
怨念と未練と幸運と生き汚さとががっちりと手を組んでいたおかげで、生き延びることだけはでき、生きること以外のすべてを失う羽目になった。
爆発で洞窟の外に吹き飛ばされてからは、足の失った体を胴体と腕だけで懸命に動かし、休みなく移動し続けている。止まることなどできなかった。少しでも止まると、危険が喉元に刃を突き付けてくるのではないかと恐怖に駆られるからだ。単なる錯覚である。強くなったはずの自分、他人を蹂躙できる強さを手に入れた自分、それらこの世界での寄る辺を一瞬で失ったことからの、敗北からくる錯覚だ。
だからこそ拭い去ることはできない。積み重ねてきた――といっても大したものではないが――強さを真っ向から斬り伏せられ、見栄も外聞もかなぐり捨てて逃げることしかできない自分を責めることは一切せず、自分の前に立ちふさがったゴブリンとスケルトンのことを延々と罵り続ける。
自分は悪くない自分は悪くない自分は悪くない自分は、絶対に悪くない。自分は間違いなく一方的な被害者で、常に被害者で、他の誰かは自分を助けるために寄り添うために動くべきだったのに、あのゴブリンとスケルトンはこれ以上ない酷い裏切りをしたのだ。
転生させられて以来、緑川は駆り立てられるようにして生きてきた。混乱と憎悪と怒りに塗れた時間だった。
数少ない例外は、横山を殺したとき。不愉快な相手を殺したとき、内側には歓喜が溢れた。ただ、わずかな歓喜は麻薬となって緑川の精神を一瞬で汚染した。気に食わない相手を殺すことが楽しいのではない。気に食わない相手、自分たちに偉そうにしていた相手が泣き叫ぶ顔を見ることが楽しい、と感じるようになった。
緑川たちは怒りや憎悪を紛らわすために、より多くの歓喜を追い求めた。それのどこが悪いというのか。憎悪のような負の感情を抱えたままでいるよりも、少しでも明るい感情を手に入れるために努力することのどこが悪いのか。
自分たちは悪くない。悪いのは転生させた魔族で、自分たちを攻撃してきたあのゴブリンたちだ。いずれ必ず正当な権利を回復させてみせる。
「!」
頭部に鋭い衝撃を感じた。アンデッドだからこの程度のダメージで活動停止になることはないが、不愉快な事実には違いない。また他の誰かが不当に自分を害しに来たのだろうか、と敵意と殺意を込めて衝撃の方向を睨み付けた。
森の中にいたのは人間たちだった。数は十人前後で誰も彼もが目に、口元に、纏う空気に強い怒りがある。緑川の腐った脳みそでも覚えていることがあった。人間たちの服装だ。
洞窟を出てから、ボロボロになった制服の代わりを探していた緑川たちは、森の中で狩りを行っている人間の集団に遭遇したことがあった。採った行動は単純だ。人間たちを襲って服を奪っただけ。抵抗したり騒いだりした連中は腹が立ったので殺した。この連中はそのとき一緒にいた仲間たちだ。手には一人残らず武器を持っている。
緑川はズルズルと音を立てて、村人たちに近付く。救いを求めての行動だ。傷ついた体を癒すため、同じ人間どうし、助けてもらおうと思
ゴッと音がして、緑川の頭に投擲された斧が突き立った。投げられた槍が肩を貫く。無数に放たれた矢が何本も命中し、緑川はハリネズミのようになる。
緑川はどうして自分が攻撃されるのか理解できなかった。服を奪ったことを怒っているのだろうか。
緑川には言い分があった。理由があった。自分たちは醜いアンデッドに変えられたのに、村人たちが清潔な服を着ているのが妬ましかったのだ。だから攻撃して、服を奪った。止むを得ない事情だったのだ。お前たちだって似たような状況になったらきっと同じことをするだろう。だからわかってくれ。なにも悪くないということをわかってくれ。
「あぁあああぁぁっっっあぁぁあっぁああっぁっ!」
緑川は声を吐き出した。
村人たちが死んでしまったのも、元を正せば自分たちを転生させた魔族のせいだ。自分たちは悪くない。自分たちも被害者だ。自分たちは本当は人間なのだ。だから助けてほしいと願ったのに、どうして村人たちは攻撃してくるのか。なにも悪くない自分を、どうして排除しようとするのか。
伸ばした手に斧が振り下ろされる。槍やフォークが胸部に突き刺さり、鍬が頭蓋を削る。
最後まで、なぜ自分がこんな目に遭うのか理解できないまま、緑川は覚めることのない闇の中へ転落していった。
――――おぉ、お、ぅ……
響くような、それでいて消え入りそうにか細い呻き声がうっすらと広がる。水面に発生する蒸気のように、地面から浮き上がったのは、辛うじて人の形をしている、黒色半透明の影だった。輪郭は崩れ、体幹と四肢の区別すら容易にはつかない。この影の正体をわかるものを上げろと言われれば、菫かブラウニーくらいであろう。
宗兵衛に始末されたはずのベートが、影となって蠢いている。アンデッドであるベートの魂は二百年前に死に、遂には肉体も砕かれた。しかし未練や執着だけは滅んではいなかった。
ある意味でこれは成果だ。魔の森を二百年に亘って這いずり回ってきた成果。魔素を受け続けてきたベートの負の想念は形を取れるまでに成長していたのである。しかしそれでは単なる怨霊、ゴースト程度でしかない。アンデッドとしてはポピュラーな、生者への恨みや未練だけで動く雑魚だ。
ベートはそんな己の立場を否定した。もはやおぼろげになっている記憶、ひたすら奪われて報われることがなかったと信じる記憶は、形ある想念に成り果てた今となってもこびりついている。
嫌だ。奪われるだけの立場は嫌だ。報われないのは嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。今度こそ、自分は自分が自分こそが自分だけが正当な権利を手に入れる。
――――ぅぅ……ぁぁあ、?
ベートの、怨念に埋め尽くされた目が捉えたのは、動かなくなったグールだ。全身に酷い傷を負っていて、腐った肉体には魂も未練も残っていない。空っぽだ。顔には見覚えのあった。極めて短時間だけ、行動を同じくしていた転生者のうちの一人、名は緑川とか言っただろうか。
転生者でありながらロクに役に立つこともなかった、菫の足を引っ張るだけだった無能な存在。砕けようが滅びようが知ったことではないし、因果応報としか思わない。それでもベートには、緑川の肉体は宝に見えた。
なにしろ転生者の肉体だ。無残に打ち捨てられて見る影もないが、転生者である事実は変わらない。自分が持ちえなかった強大な魔力を、手に入れるチャンスが目の前に転がっている。緑川の肉体を手に入れることができれば、神官としても戦士としても、並を大きく下回る自分が力を得られるのだ。奪われるだけだった自分。菫の下についても報われることのなかった自分。
それが今度こそ、報われるかもしれない。
――――うぅ、ぉおぁぁ……
輪郭のぼやけている黒色半透明の影は、ズルズルと音を立てるように自らを引っ張り、緑川に近付いていく。近付くごとに全身の透明度が落ちていく。未練などの負の想念で構成されているベートは、転生者の体を手に入れられるとの欲望により、加速度的に想念が濃くなっているのだ。意思もない、意地もない、誇りもない、理念もない、節度もない。
――――欲……し、ぃぃぃい
ただただひたすらに、目の前のものに飛びつこうとする本能に従っているだけ。あるいは衝動なのか、もしかすると単なる反射かもしれない。
ベートの視界に映っているのは緑川の肉体のみ。進路上にある木や石、折れたり転がったりしている斧や剣など、緑川の周囲に群がる獣や鳥、虫などには一瞥もくれない。怨念に塗れた目を爛々と輝かせ、赤ん坊のハイハイよりも遅い速度で、徐々に迫ってくるベートの異様な迫力に、獣たちは逃げ出した。
――――ぉおおれ、の……おれぇ……のだぁぁ
ついにベートは辿り着いた。二度と動くことのなくなった緑川の肉体に、抱き着くように、覆いかぶさるように倒れ込む。
ベートは緑川の目や耳、鼻腔や口腔、全身の傷口から染み入るように、緑川の肉体の内側に侵入する。五分もすると、黒い影は完全に死体の中に入り込んでいた。更に五分が経ち、十分が経ち、十五分が経つ。緑川の肉体はピクリとも動かない。
興味でも抱いたのか、一羽の鳥が探るように上空から降りてきた。近くの木に止まってしばらく観察した後に、地上へと降りる。慎重に緑川の肉体に近付き、啄もうと嘴を向けた瞬間、緑川の肉体が大きく動き、鳥の首に噛みついた。そのまま首を噛み千切り、翼や胸や足を乱暴に食い漁る。
怨念だけだった両目には、達成感や高揚感も混じっていた。
「ぢ、ぢぐじょうがぁあぁぁ」
黄瀬は呪いを吐きこぼしながら森を這い進む。黄瀬の顔はズタズタに引き裂かれていて、胴体のソウルイーターは無残にひしゃげたままの状態で引きずっている。汚泥のような血が帯のように流れ、血から浮かび上がった泡が弾け、怨嗟が粒となって飛散した。
黄瀬の口から吐き出される言葉は限られている。似たような言葉ばかりがとめどなく続く様からは知性は感じ取れない。生者への、否、一騎たち――黄瀬自身は一騎たちの正体を知らないが――への恨み、未練、執着だけで動いているようだ。
「ぢぐぢょおぉぉ、ぶっ殺じで、ぶっごろじでやるぞおぉぉっ。あのゴブリンがあぁ、ぜっだいにぶぢごろじてや」
ザシャ、と土を踏む音がして、黄瀬の近くに人影が現れる。
「へえ、もしかして……黄瀬君?」
「ゔ、あ?」
腐り、欠損の著しい黄瀬の脳みそに刺激が加えられる。今となっては遠い昔のことのようにも感じられる、実は一月も経っていない近い日々の記憶が掘り起こされる。
「藤山、か?」
「お! てことはやっぱり黄瀬君なんだ」
隣のクラスの藤山まゆは、安心したかの笑顔を浮かべた。藤山まゆは漫画研究会と文芸部を掛け持ちしている女子で、文芸部においては次期部長と囁かれている。漫画研究会の幽霊部員である黄瀬とは、少しだけだが接点があった。
その藤山の格好は学生とはかけ離れている。この世界で用意したものだろうと思われる服は、西洋ファンタジーでよく見かける僧服だ。新品なのに、森の中を歩いてきたせいで所々が汚れて、いくつかの箇所は破れてもいた。藤山は覗き込むように黄瀬に近付く。
「それにしても……うっわ~、本当に魔物にされてる人がいるんだ。聞いてはいたけど、引くね、これは」
「ど、ういう……ご」
「いや、私は勇者だもの。勇者兼神官」
藤山まゆは軽い口調で答える。その内容は黄瀬にとって衝撃的だった。自分たちが魔物に転生させられたのと同じタイミングで、藤山たちは勇者として召喚されたのだという。自分たちが同級生どうしで殺し合いをさせられていた頃、藤山たちは大神アルクエーデンから加護を受けて、宝装を授かり、世界を救う勇者と崇められていた。
あまりの格差に黄瀬は愕然となる。同じ修学旅行に参加していたのに、一方は勇者で一方は魔物。一方は名誉や地位も得て尊敬される立場で、一方は元は同じ種族だった人間からすらも憎しみを向けられる。黄瀬はゴブリンたちへの憎しみの他に、不公平を見せつけるような勇者たちへの憎しみをも募らせる。
と、黄瀬の眼前に藤山の白い手が差し出された。
「あ?」
「いや、あ、じゃなくて、私たちのほうに来ないかってことなんだけど」
藤山は勇者であると同時に神官でもある。勇者としては戦闘力が低いほうの彼女は、より多くの人を救うにはどうすればいいのかを考え、真正聖教会に入信したのだった。
召喚された勇者たちの中には、藤山以外にも真正聖教会に入信したものはいる。いずれも与えられた階級は輔祭だ。
真正聖教会では上から教皇、総主教、枢機卿、大司教、司教、大司祭、司祭、輔祭、助祭、聖徒、侍者の階級があり、輔祭は下から四番目にあたる。様々な権限を行使でき且つフットワークの軽さが特徴だという。
彼女は今回、勇者と神官の双方の立場から森の探索に来たのだ。自分たちと同時期に行われたらしい魔族側の勇者召喚、の現場がこの森だと指摘されたからである。人類や世界にとって間違いなく脅威になる魔族の勇者。これを調査するために藤山は志願してやってきた。戦闘力が低い分は情報収集で役に立てれば、との思いでだ。
「な、にを」
「だから、私たちって立場的には似たようなもんっしょ? そりゃ勇者と魔物っていうふうに立場は違っちゃってるけど、おんなじ現代日本人じゃん。日本に帰ることが目標じゃないの?」
それは、黄瀬が本当に望んでいたことで、いつの間にか忘れ去ってしまっていたことだった。
「魔物を倒して平和な世界を実現すれば、次は元の世界に戻るための本格的な研究が始まるんだよ。黄瀬君だって別に魔族とか魔物に愛着とかないんでしょ? だったら私たちに協力してよ。私たちに、勇者に協力してくれるっていうのなら、私としてもこの世界の人たちを説得しやすくなるし、そしたら、勇者としての特権を最大限に使って黄瀬君を守るからさ。ね? 日本に帰るために、一緒にがんばろ?」
蜘蛛の糸。
心情的には正にそれだった。転生と、転生に伴う理不尽と不条理の連続に心身の悉くを打ちのめされて、もはや滅び去るしかないと恨みを撒き散らすことしかできなかった黄瀬にとって、藤山はこの世に残されたたった一つに救いに見えた。
「あ、もちろん、魔族側について知ってることは教えてもらうよ? この森でなにが行われたのか、とか、どんな魔族が裏にいてるのか、とか」
「がまわねぇよ……俺だっで、魔族にば恨みじがねえんだがらよ」
「うっし。じゃ、交渉成立ってことで、よろしくね、黄瀬君」
自分を救い上げてくれる、一筋の糸に。黄瀬はボロボロに崩れている腕を伸ばす。
藤山まゆの差し出した手に向かって。
今話で第二章終了になります。
お付き合いくださり、ありがとうございました。
来週は更新を休ませていただき、
8月第4週から再開の予定です。
更新ペースは週一、二回を予定
第三章もよろしくお願いします。




