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第二章:二十三話 ブラウニー

 ブラウニーは自分の体が軽くなっていくのを感じた。体だけではない。精神が、魂が軽くなっていくような、解放感を覚えていた。


 それがなにを意味するのか、彼女にはよくわかっていた。


 教会長ベートによる呪いが解かれたのだ。ベートに騙されていたことは悲しい。ベートのことを見抜けなかった自分が情けない。自分がベートの頼みを引き受けたと思っていたのに、実はベートにより縛り付けられていたのだと知って腹が立つ。


 二百年もの時間を振り返る。ベートに頼まれた、自分が引き受けた、約束のために守り続けてきた。すべてが嘘だった。なんのために守り続けてきたのか。二百年の無意味さを思い知らされ、ベートの裏切りを見せつけられ、自らの間抜けさ加減を深く深く悟る。悟らされる。


 あのとき、ブラウニーは「どうでもいい」と思ってしまった。時間にも約束にも一欠けらの意味がなかったと悟るに至り、ブラウニーは生きる気力自体を喪失した。呪いに侵食され、砕ける全身を虚ろな瞳で眺めながら、本来なら泣き叫ぶほどの砕ける痛みをすら感じないまま、ぼんやりと受け入れていたのだ。


 反発が生じたのはいつだったろうか。


 まったく聞きなれない声がした。靄のかかった頭では判別しにくい、けれど何度も何度も語り掛けてくる声がした。ベートのような優しさを感じるのでもなく、シスターたちのような使命感も感じ取れない。信者らのような真摯さもなく、教会を訪れた行商人のような熱っぽさもない。


 一番近いものを挙げるなら、子供たちだろうか。親にくっついて教会にやってきた、お菓子を食べ散らかして、ブラウニーがきれいに片付けた部屋を汚していくにっくき相手。


 どうして子供たちを思い浮かべたのだろうか。聞こえてくる声には子供のような無邪気さはないのに。


 ああ、いや違う。


 似ている点がある。


 泣き声に、泣きたいのに我慢している声に似ているのだ。悪いことをしてしまったと、でも泣いても解決しないから懸命にこらえているのだと、そんな声に少しだけ似ている。


 イッキ。


 微睡んでいた意識が揺さぶられる。意識に響いてくる声は、出会ったばかりのゴブリンのものだ。人間として生まれながら、よりにもよってゴブリンなんて雑魚にさせられた不幸な転生者。フライパンで叩き飛ばし、修復作業でこき使い、一緒に料理を食べた相手。


 ああ、だから、子供を思い浮かべたのか。聖職者故か、ベートやシスターは「美味い」と褒めはしても、テーブルでは物静かで、賑やかさとは無縁だった。ブラウニーの作った料理を、あれだけ美味しそうに食べてくれたのは、ブラウニーと笑いながら食事をしてくれたのは、子供たちだったからこそ、思い浮かべたのだ。


 温かだった食卓を思い出す。いつ以来だろうか、ブラウニーがスープを口にしたのは。食べる必要がないからと、ベートらが姿を消して以降はほとんどなにも食べずに過ごしてきた。いつだったか、高級品とかいうクッキーが残っていたので食べたことはあった。これがどうしたわけか不味くて不味くて、とても食べられたものではなかった。


 以来、精々が水くらいしか口にしたことがなかったのに、あの日はつい、勧められるがままに食べてしまった。美味しかった。大した材料も使っていないのに、高級クッキーなんかよりもよっぽど。じんわりと温かさが広がっていき、


 一瞬で暗転する。


 手に嫌な感触が蘇る。この手は一体、なにをしたのか。誰を、斬ったのか。温かさを与えてくれた相手を背中から斬りつけたのは誰なのか。


 ブラウニーの体を新たな鎖が覆い始める。後悔だ。騙されていることにも気付かず、呪いに操られてイッキを傷つけたことへの。


 厳然たる事実に謝罪のしようもない。呪いに縛られて生きてきた挙句、久しぶりの温かさを共有した相手を呪いによって傷つけた。


 あまりにも酷い。体が砕けるのが罰だというのなら、このまま滅びるのが罰だというのなら、ブラウニーは受け入れる。元々、気力を喪失していた身だ。呪いに振り回されていた自らの間抜けさへの罰、イッキを傷つけてしまったことへの罰へと形を変えてくれるのなら、むしろ願ったりだ。


 衝撃が響いた。


 暗転したはずの世界に、白い亀裂が入る。


 細く一筋だけだった亀裂は、一秒毎に太さと数を増していく。ブラウニーは体が熱を帯びるのを自覚した。自分の熱ではない。外からの、誰かから送られてくる熱によって満たされていく。


 熱の正体をブラウニーは知っていた。イッキの魔力だ。食卓で少しだけ触れた、あの温かい魔力だ。


 砕けた手が、足が、顔が修復されていく。ひびの入った体は元通りに治っていく。空っぽになっていたはずの内側にまで、イッキの魔力が浸透していく。


 なんだってこんなわたしを助けようというのか。二百年間も騙され続けて、あまつさえ後ろから斬りつけた相手を。


 ――――ブラウニーと一緒に食事をしたい。


 そんな、声が聞こえてきた。


 隠すことも飾ることもしない、真っ直ぐなだけの言葉。


 呪いに縛られて操られているブラウニーを見たくないとの願いが響く。よく笑い、怒り、Sっ気が強くて優しいブラウニーと、これから先も食事を共にしたい、と強く願っている。生きてほしい、食卓を囲みたいとイッキは願い、そのために自分に魔力を供給し続けている。


『――――っ!』


 体が熱くなる。


 なんだこれは。こんな、バカみたいに単純な理由で、イッキは自分を助けようとしているのか。呪いは解除して、傷つけたことを責めもせず、ただ食事をしたいと願っている。もう一度、一緒に食事をしたいと。


 なんて単純で、こんなにも嬉しい理由が他にあるだろうか。


 ブラウニーは手を伸ばす。亀裂の向こう側に向けて。ベートに向けて手を伸ばしたときは、縋ることが目的だった。信じたくないという弱さゆえの行動だった。


 今度は違う。


 今度こそ、自分の意志で。こんな自分の食事を美味しいと言って食べてくれる人のために、一度だけではなく何度だって作るために、ブラウニーは持っている力を出し切って手を伸ばす。


 体の熱が一層、上昇する。魔力の浸透した内側の、更に奥からだ。全身の隅々にまで行き渡ったイッキの魔力は、ブラウニー自身も知らない奥の奥にある扉を押し開く。


 ブラウニーは自身の周囲を水に包まれたかの感覚を受ける。痛みはなく、心地いい、穏やかで優しい感覚だ。誰かに手を引かれ、新しい場所新しい世界に連れて行ってもらっているような、親というものがあるのならこんな感覚なのだろうか、とブラウニーは思う。


 手を引かれる先にあるのはどんなものなのだろうか。指が、耳が目が鼻が舌が手が足が体幹が、徐々に水の中に溶け、水を通り過ぎたとき、ブラウニーは目を覚ました。




 見慣れるにはもう少し時間を要するだろう天井が広がっている。ブラウニー奪還戦から六日、一騎の体はまだ本調子には程遠い状態だ。魔力欠乏により意識を失い、宗兵衛に背負われて教会に戻ってきて、初めて目を覚ましたのが四日前。少なくとも一昨日の一騎は寝返りを打つことすら満足にできなかった。


 一騎はふと、右手側に布団とは別の重さを感じる。四日分の経験が蓄積されている身とあっては無様に驚くことはしない、しかし心臓に悪いことには変わりがない。


「すぅ、すぅ……」


 ベッド横の椅子に座ったまま眠ってしまい、姿勢を維持できなくなって上半身がベッドに倒れ込んだのだろう。一騎の体内にしぶとく残る眠気を、木っ端微塵に吹き飛ばすほどの美少女が呑気に寝息を立てていた。


「お、おーい」

「んぅ?」


 控えめな、というより恐る恐るといった態の一騎の声に、絶世と評しても問題のない美少女がうっすらと目蓋を開く。少女の瞳は三秒間焦点が合わず、次の三秒間で視点は固定され、更に一秒後には両目に涙が溜まる。今日も来るか、と悟った一騎は身構えようとして、諦めた。圧倒的な力の前にゴブリン如き弱小魔物になにができるというのか。


「イッキーーーっ!」


 美少女は勢いよく一騎に抱き着いた。近い近い近い柔らかいいい匂い気持ちいいいやそうじゃなくてでも柔らかい。一騎の脳内を埋め尽くしたのはこのあたりだろうか。実際、一騎の頭部は少女の胸とかおっぱいとか乳房とかに埋もれてしまっていて、このまま息絶えても本望かもしれない。


「でえっ! 大丈夫だって何回も言ってんだろうが!」

「ぅう、だって、目を覚ましてくれるだけで嬉しいんだから」

「むぅ……」


 美少女からの告白に一騎の頬は朱に染まる。ここ数日、ブラウニーはずっとこんな調子だ。一騎に命を助けられて以降、献身的になんて表現では追い付かないほど、一騎の面倒を見てくれている。


 一騎が最初に目覚めたときは、涙を流して自分を覗き込み、抱き着いてくる彼女のことが誰かわからずに混乱した。彼女自らブラウニーだと告げられて驚き、他人を進化させたのだと宗兵衛から教えられてもう一度驚いた。ベッド上に横になったまま三十センチは飛び上がったと記憶している。


「命の尽きていたわたしを助けてくれただけじゃなく、これだけの力まで与えてくれたんだもの。今度はわたしがイッキを助けるからね」


 ブラウニーは力強く宣言した。


「そうだ、イッキ。昨日、頼んどいたことは考えてくれてる? できてたら今すぐにでも欲しいんだけど」


 ブラウニーの顔は一騎の人生で経験のないくらいにまで近い距離にある。彼女からの頼まれごとは別に難しいものではない。新しい名前、だ。


 一騎の『進化』により、ブラウニーは妖精から精霊へと進化していた。精霊には火の精霊、風の精霊というように、それぞれの属性がある。しかしブラウニーは家に憑く妖精であり、明確な属性を持っていない妖精だったため、精霊化した今でも属性が確立していない。家に関係あるものとして木、つまりは木の生える土の属性が近いとされている。『導き手』によると、今後の成長次第では土以外の属性を持つこともできるようになるかもしれないとのことだ。複数の属性を持つ精霊となると、かなり希少な部類になるらしい。


 妖精とはかけ離れた姿と力に一騎は、このままブラウニーと呼び続けるのもあれなので、ラビニアのような名前について確認したのだ。彼女にしても異論はなく、ただし一騎に付けてほしいと要望してきた。一騎はその場では思いつかず、先送りにしたのだった。これが四日前の話。


「ああ、うん……考えることは考えたけど……」

「ホント? じゃ、早くちょうだい」

「いやそのな? 本当に俺でいいの? ぶっちゃけネーミングセンスには自信の欠片もないんだけど」

「そういうセリフは他に自信のある人が口にするものよ」


 心の中で血反吐を撒く一騎。学力底辺、運動能力皆無、対人交流は薄く、自慢できるものは平均よりも遥かに多かった体脂肪くらいのものか。


「わたしはねイッキ、イッキがつけてくれる名前がいいの。わたしを生まれ変わらせてくれたイッキにね。センスなんて気にしないわよ。野暮でも気が利いてないのでも、イッキがくれたものなら喜んで生涯の宝にするわ」


 情熱的なセリフに一騎の全身が熱くなる。一つだけ咳払いをして、ゴブリンの両手が美少女の両肩に乗せられる。


「エスト。今日からお前の名はエストだ」

「……エスト」


 ぽつりと呟くブラウニー改めエスト。一騎はエストの肩に手を置いたまま、見つめ合うことしばし、美少女との接近に不慣れな一騎が、このまま続けていると心房細動でも起こしかねないと離れようとした瞬間、エストが再び一騎に抱き着いた。寝起きのときよりも三倍増しの勢いで。


「ぐほぅふぁ!?」

「ありがとう、イッキ! わたし、ずっとイッキについていくわ!」


 女子に抱き着かれたのは一騎の人生にはなく、ゴブ生になってからが初めてだ。だからだろうか、背骨が非音楽的な悲鳴を上げたのにも一騎が気付かなかったのは。

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