第二章:二十一話 一騎の願い
ゴブリンの洞窟、その一角にあるベッドの上に、一騎は慎重な手つきでブラウニーを寝かせた。
ブラウニーは非常に弱々しく、浅い呼吸を途切れ途切れにしており、加えて全身のいたるところにヒビが入って砕けかかっている。
一刻の猶予もない。
知識も経験もない一騎ですら、容易にそうと知れるほど、ブラウニーの状態は切羽詰まっている。だが一騎の手の中には解決策がない。唯一の解決策は宗兵衛を待つことだ。『導き手』を介した会話で、ブラウニーを助ける手順については確認済。呪いの解除に必要な教会長ベートの魔力も入手している。後は宗兵衛が到着してからだ。
一騎は歯を食いしばる。不甲斐なさも後悔も噛み殺すくらい奥歯に力を入れて、頭はこの小さな妖精を助けることだけを考え続ける。
情けないことに、一騎も宗兵衛もろくな手札を持っていない。回復術は使えない。回復させる道具も持っていない。病院などに行けるはずもない。
ヒントになったのはラビニアの言葉だ。洞窟から出た直後、ラビニアは大気中の魔素を吸収するだけでも大丈夫だと言っていた。ブラウニーも食事は必要ないのだと口にしていた。思いついた手段とはすなわち、ブラウニーへの魔力供給だ。『導き手』を介して一騎は宗兵衛やラビニアと相談し続けた。
《理屈の上では確かにそうですけどー、ほぼ死にかけている状態の彼女に、自分を維持できるだけの魔力を供給し続けるには莫大な量の魔力が必要になりますよー?》
「魔力ならある。俺の魔力は普通のゴブリンよりも多いんだろ?」
大気中の魔素を吸収し、魔力に変換するだけで生きることが可能な妖精なら、魔力を供給し続ければブラウニーの命を繋ぎとめることができるかもしれない。思いついた一手は最善手ではないだろうが、今の一騎に採れる唯一の好手であり、宗兵衛が『導き手』に確認した限りでも同様の返事だった。
《君が保つかどうかわかりませんよ、常盤平》
「やる。それしかない」
一騎は覚悟はとうに決まっている。こうしておけばよかった、初めから気を付けていればよかった、たらればばかり考えていても仕方ない。後悔するのだけは絶対に嫌だった。
「到着にはどれくらいかかる?」
《今、着きましたよ》
急に洞窟が騒がしくなる。部屋に飛び込んできたのは骨の魔物、宗兵衛だ。
「待たせましたね。解呪に必要な魔力は二つとも回収してきました。君の準備はできているのでしょうね?」
「問題ねえよ。ありったけの魔力をブラウニーに渡す。お前の魔力は」
一騎が最後まで口にするより先に、宗兵衛の首が横に振られる。
「気持ちはわかりますが、僕の魔力を使うのは最後にしておきなさい。僕はアンデッドです。命を繋ぐための魔力供給に対してマイナスの影響が出ないとも限りません。効率的な魔力供給については『導き手』にフォローをお願いしますから」
「わかった。俺が倒れたらお前に任せる、でいいな?」
「約束します」
宗兵衛の首肯を確認し、一騎は横たわるブラウニーに視線を落とす。青白く変色した顔に、新たな一筋のひびがはしり、ひびが生んだ衝撃でブラウニーの顔が一部、欠ける。
「っ……宗兵衛!」
「ええ。いけますか、『導き手』」
《了承。常盤平一騎とブラウニーの間に魔力パスを構築します》
「絶対に、なにがなんでも助ける……っ!」
あの日の、一度だけの食事を思い出す。ブラウニーと食べた夕食は、一騎の中で百万の宝石にも勝る輝きを持っていた。
あんなに楽しい食卓はいつ以来だったろう。食事が心を満たすなんてことを、一騎は本当に久しぶりに実感したのである。一人っきりの食事に慣れてはいる。慣れただけでしかない。他の誰かと笑いながら食事をできる環境とは比べるべくもない。
だからこれは、一騎にとっての願いでもある。
もう一度、いや、何度だってブラウニーと一緒に食事をとりたい。妖精としての性質を変えられ、後ろから一騎を斬りつけたときの顔と目を二度と見たくない。呪いに縛られて、自我を塗りつぶされるように無表情無感動になって戦いに身を投じるような姿は断じて見たくない。
感情がよく表に出るブラウニー。よく笑って、怒りやすくて、Sっ気が強いのに優しくて、厨房では転生者の好みを考えながら味見を繰り返して、一緒に、食事をしたのだ。
これから先も、食事を共にしたいのだ。
教会長の裏切りを知ってしまった彼女がどんな反応をするか、見当もつかない。もしかすると教会長と共に滅びたいと願うかもしれない。混乱のあまり一騎に攻撃を仕掛けてくるかもしれない。
それでも、それでも尚、一騎はブラウニーに生きていてほしかった。生きて、もう一度、食卓を囲みたいと願っている。少なくとも、呪いに縛られたまま生涯を終えてほしくなかった。
これこそが、他ならぬ一騎の願い。
ブラウニーが助けてほしいと口にしていない以上、彼女を助けることは一騎のわがままだ。彼女を助けたいという、ある意味において独りよがりの、勝手極まりない願いだ。それでも、と何度だって一騎は繰り返す。
「俺は、彼女を、助ける」
一騎はブラウニーの小さな手を、万感の思いを込めて優しく握った。
一騎の決意に答えたのか、ゴブリンの小さな体躯の全身から魔力が噴き出したのを宗兵衛は確認した。宗兵衛ならわかるが、この魔力の放出は洞窟で古木を殺した時に起きた現象によく似ている。
しかしあのときとは状況が違う。進化に足る魔力量を一騎は持っておらず、目的も進化ではない。ブラウニーを助けるための全霊での魔力供給だ。
僕の魔力供給で命を助けることができるかどうか、と考えていた宗兵衛に思いもよらない事態が襲い掛かる。宗兵衛の魔力が急速に減少しだしたのだ。
「な、な、な!?」
《常盤平一騎は自身だけでは足りない魔力を他から得ようとしています。主の渡した骨刀から魔力を吸い出しているのを確認できます》
「そっ、れは、かなりマズイですね」
宗兵衛は別に純粋な親切心から骨刀を渡したわけではない。一騎の生存確率を高める他に、骨刀を通じて一騎の情報を、ようするに『進化』についての情報を集める目的があった。常時『導き手』を接続させ続けるのも不自然なので、手ぶらの一騎に武器をプレゼントすることを隠れ蓑にしたわけだ。
当然のことながら骨刀と宗兵衛は魔力的につながっている。この繋がりがなければ、骨刀に込められていた魔力がゼロになった時点で骨刀が砕けて終わりなのだが、
「お、おおお? す、凄まじい勢いで魔力が奪われっ」
骨刀と繋がりがある以上、骨刀を通じて宗兵衛の魔力が奪われていくのである。
「いや、それよりも僕の魔力なんかを吸収してブラウニーさんは大丈夫なのですか?」
《問題ありません。吸収しているのは常盤平一騎です。むろん生者の常盤平一騎は主の魔力を吸収することで身体的に強い負荷がかかっていますが、一旦、生者の内側を循環した魔力を供給されているだけのブラウニーは大丈夫です。ただ、このままだと主に危険が及ぶ可能性があるため、魔力の遮断を提案します》
「い、いえ、魔力供給について最初に拒否していない以上は遮断するわけにいきません。それに」
せっかくの『導き手』の提案に宗兵衛は拒否を示す。宗兵衛は目前で行われている事態に強い興味を抱いていた。魔力が溢れている一騎は当然として、どうしたわけかブラウニーの体も輝き始めたのである。単に魔力を注いでいるだけの現象とは思えない。
既に命の尽きかけていた妖精に魔力の輝きが起きる理由。宗兵衛は頭の中で一つの仮説を組み立てていた。常盤平一騎の『進化』は自分だけではなく、他者をも進化させるのではないか、と。
「見届ける価値はあります」
『あの、宗兵衛さん、右足にひびが入ってますよー?』
《魔力を吸収されすぎて骨体を維持できなくなってきています》
「はいっ!?」
右足のひびは瞬く間に広がり、宗兵衛の右足が砕け散る。次いで左足にひびが生まれ、膝から下が砕けた。
地面に倒れ込むに至り、マズイ、と判断した宗兵衛は骨刀との接続の優先順位を自身から骨杖に切り替える。この骨杖も骨刀と同等以上の魔力を込めているのだ。足しにはなってくれるだろう、と骨杖にも大きなひびがはしった。
「っ! 本当に燃費が悪いですね、常盤平は……っ」
骨杖が砕け折れ、左足の大腿骨も砕ける。腰骨には大きな穴が開き、右前腕にもひびが生じた。肋骨も半分が砕けてしまい、残りの半分も満足なものは一本も残っていない。左の肩甲骨が粉末になり風に乗って消え去った。
《主、即時遮断を》
「ダメです。頭だけになるまではこのままで」
『宗兵衛さん!』
宗兵衛から左腕が失われ、背骨の半分が砕ける。ラビニアの焦る声など初めて聞いた、と場違いな感想が浮かんだのと同時、広がり続けるだけだった魔力が収束し始める。
それも急速に。
ブラウニーに向かって。
疑問を声に出す間もない。収束は一瞬で終わり、視界を埋め尽くさんばかりの輝きに飲み込まれる。
輝きが収まったとき、宗兵衛とラビニアは目を丸くしていた。




