第二章:二十話 骨に胃薬はない
腰を抜かしていたベートは、渾身の力を込めて逃げの一手を選んだ。
二百年かけてようやくチャンスを手にしたと思っていたのに、信じてくれていた同僚や信者やブラウニーらをすべて売り払ってまで手に入れることのできなかった成功を、後ほんの少しで手に入れることができると思っていたのに、一瞬にして失ってしまった。
自分の知識を必要としてくれた相手、それが転生者だと知ったときのベートは、全身を歓喜の落雷で打ち抜かれたかのような気分だった。強大な力を持つ転生者の側に立つことができれば、今までの不幸の一切合切を帳消しにすることも夢ではない。
まったくもって自分は不幸だった。ユリス神などに縋る家に生まれたばっかりに、とんでもない不幸に見舞われた。
自分が出世できないのも、地位や名誉や富や女を得ることができないのも、生まれたときの間違いから始まっていたのだ。自分は努力した。与えられた環境で、本意ではない場所で、できる限りの努力を積み重ねてきた。しかし周囲は努力に見合う果実を用意してくれなかった。
あんな森の奥の教会でなにをしろというのか。
戯れに優しくしてやったブラウニーに懐かれはしたが、妖精からの好意など求めてはいない。ベートが望んだのはいつだって、もっと単純でわかりやすいものだけだったのに、誰も与えてはくれなかった。
菫だけが違った。
転生者として強い力を持っていた彼女は、彼女が作り上げる組織の中での高い地位を約束してくれた。ベートの持つ知識を必要としてくれ、組織を運営するために教会長だった手腕も必要としてくれた。
二百年経って、ようやく報われる日が来ると信じていたのに、ベートの夢も希望も未来もあっさりと崩れ去り、欠片の一つだって残ってはいない。
どうするどうするどうするどうする。
腐った脳みそで考えても良案の一つだって浮かびはしない。いや、一つだけあった。転生者は菫だけではないのだ。菫を倒したほどの力の持ち主がすぐ近くにいるではないか。
あいつにすり寄ればなんとかなるのではないか。自分もアンデッドで、相手もスケルトンだ。近しい種族として、受け入れてもらえるのではないか。自分の有用性、有益性を説き、内側に潜り込むことができればまだなんとかな
「あぺ」
ベートの喉から白い棒状のものが突き出ていた。
後頚部から喉を突き破った骨杖だと気づくのに、たっぷり三十秒以上を要する。乱暴に振るわれて倒れると、骨杖の主は離れた場所に立ったままだ。ベートを追いかけたのではなく、菫を倒した場所から杖を伸ばしてベートを貫いたのである。
喉を破られたベートはなにも喋ることができない。有用性をアピールにしようにも、アピールする手段を奪われた。
ベートは必死で否定する。自分はこんなところで終わる人間ではない。こんなところで終わっていい人間ではないのだ。自分が正しく報われる日が来るまで、自分に最大限の名声と富が与えられるまで、終わるわけにはいかないのだ。
懇願するようにスケルトンに向けて手を伸ばしたベートは、伸ばした腕ごと頭を骨杖で貫かれ、砕かれた。
「それにしても、情報を回収する際に、記憶まで流れ込んでくるのはなんとかなりませんかね。精神が魔物化……外道化しているような連中の記憶って、本当に気が滅入ってくるのですけど」
宗兵衛はベートから魔力や知識を回収しながらぼやく。ブラウニーの呪いを解くために必要な行動なのだが、ついでにベートの記憶まで回収する羽目になり、気が重いことこの上ない。
このベートは、外面だけは本当にいい。ブラウニーを含む信者や同僚たち、数百人単位で騙しおおせたのだ。甘いマスク、穏やかな物腰と声音、常に笑顔を絶やさず人々と接している様子は、宗教家でなければ稀代の詐欺師になっていたと思わせる。
それだけに宗兵衛は気分が悪い。全部が全部上っ面だけの、誰とも心を通わせることなく、ひたすら権力や名声を追い求め、ただただ周囲への不満を溜め込んできただけの人生に。
厳密にはベートは権力や名声を他人から与えられることを望んでいた。自らが勝ち取るのではなく、あくまでも主体は他の誰かなのだ。自分で自分を肯定せず、他人からの評価を要求し、思い通りにならないと責任の一切を自分以外の誰かに転嫁する。よくもまあここまで独善に陥ったものだ、と感心しないでもない。
《疑問。主はあえて記憶の回収もしているのかと》
「え?」
《魔力や知識だけを選別しての回収は可能です。問われなかったので、主は記憶も合わせて回収することを選んでいるのだと判断していました》
「……え?」
宗兵衛の骨体が硬直する。
思い返してみればなるほど、確かに『導き手』の指摘通りではある。ぼっち生活の長い宗兵衛には、物事を基本的に自分だけで片付けようとする癖が染みついていた。自分だけで片付けられないときは、先送りにするか解決を諦める傾向もある。
ブラウニーに対するラビニアの発言のときといい、記憶回収の件といい、対処できることなのに対処していない自分に、宗兵衛は頭を抱えたくなった。人間のときの癖を引きずって、致命的なミスを引き当てるような事態に陥っていないのは、単に運がよかっただけだろう。
『宗兵衛さんってときどきバカですよねー。こっちが気付いてほしくないことには気付いたり辿り着いたりするくせに』
ラビニアは宗兵衛の頭の上で頬杖をついている。気付いてほしくないこと、というのは転生者が強くなる方法についてだ。
転生者を殺すと強くなる。このこと自体にウソはない。ただし、ウソではなくとも隠されていることがある、と宗兵衛は考えていた。精神の魔物化、外道化に関することだ。
骨刀を通じて一騎と繋がっていた宗兵衛は、一騎の怒りの感情に引きずられそうになった。これは感情や魔力のうねりからの影響を受けるということだ。
だったら、もっとも影響を受けるのはどのタイミングになるのか。
決まっている。相手を殺したときだ。誰だって殺されたくはない。殺しに来た相手に対し、怒りや憎しみの感情を抱くだろう。一騎のように感情によって魔力が爆発するというのなら、死の間際の感情は間違いなく魔力に影響を与える。そんな相手の魔力を取り込むことは、同時に相手の感情を取り込むことを意味する。
転生者の性質は、魔物に転生したことで好戦的になっている。闘争は魔物の本能でもある。加えて死の間際の剥き出しの感情まで取り込んでしまったら、人間の意識など一瞬で押し流されてしまうだろう。事実、赤木たちは人間だった頃からは考えられないほどの変性を遂げていた。
短期間で複数人の転生者を殺すことは、自身の外道化を助長する結果に繋がる。だからこそ宗兵衛は、ラビニアに勧められてもあの場面で赤木を殺さなかったのだ。
殺せば殺すほど強くなり、殺せば殺すほど人から遠ざかっていく。他者を殺すことへの罪悪感は消え失せ、他者を蹂躙することへの喜びは増していく。
生き延びるためには殺し合えと煽り、殺し合いの末に生き延びたときには人間の意識を手放していて、手放した以上は二度と戻ってこない。
『なんといっても魔族の勇者ですからね。人道とか人倫とかって不必要な代物です。強くなると同時に削ぎ落としていくほうが効率いいじゃないですかー』
「当人に気付かれないように、ね。本当に誰が考えたのですか、このろくでもないシステム」
『さー?』
ラビニアは大胆にすっとぼけるのだった。返答を期待していなかった宗兵衛は軽く頭を振り、ベートに突き立てていた杖を外す。呪いに関する情報も含め、回収が終わったのだ。ベートの記憶のせいで、宗兵衛は消化器官もないのに嘔気を感じていた。
「次からは記憶の回収はなしの方向でお願いします、『導き手』。記憶が必要そうなときは都度、声をかけて下さい」
《了承》
「ああ、それと、アンデッドに効果のある吐き気止めとか胃薬ってありますかね?」
《否定。存在しません》
予想通りの答えに、宗兵衛はがっくりしながらも、ゴブリンの集落へと戻るために足を動かすのであった。
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