第一章:三話 ゴブリンは駆けだした
サブタイトルを第〇章:〇話~~という形に変更しました。
唐突に妖精が指名する、と全員の視線が一騎に集まった。
「え? 俺? てかゴブリンって?」
妖精の言葉に一騎は自分の腕を見た。
緑色をしている。人間だったころよりも太くなっているのかと問われればそんなことはない。細くなっているわけでもなく、特に色以外の変化がない。ただし手の形は大きく変わっていた。オーソドックスな悪魔のような爪、掴んだり引き裂いたりするときに有効そうな、しかし人狼やリザードマンと比べると頼りない手。
一騎は慌てて顔を触る。普段は洗面をするときくらいしか触らない顔を、撫でまわすように触り続ける。口には牙がある。首との境い目を失っていたはずの顎がしっかりとある。
嫌な予感を覚えた一騎は鏡か、それでなければ水面を覗き込もうと周囲を見回して、結局は徒労に終わった。
「おい、お前、もしかしてキモデブか?」
話しかけてきたのは狼の獣人――身長は三メートル近く、鋭く巨大な爪牙は見るからに獰猛そう、全身を覆う体毛は銃弾でもわけなく弾いてしまいそうだ――だ。声はかなり変わっている。纏う雰囲気も別物だ。けれどもっと底の、根っこの部分、本質的な部分は変わらなかったのだろう、一騎にはこの狼獣人が誰であるのか一瞬で理解できた。古木だ。
「ぶ」
まじまじと一騎を観察していた狼の獣人、古木が噴出した。
「ギャハハハハハ! なんだてめえ、ゴブリンってあれだ、ゲームで出てくるクソ雑魚じゃねえか! キモデブから生まれ変わってクソ雑魚かよ! ギャハハハハ!」
「なんだ、こいつ、キモデブだったのかよ」
別の獣人が近付いてくる。古木の相方の越田も獣人へと転生していた。
「強靭な肉体を持って転生するんじゃなかったのかよ。どう見てもヤラレ専門の雑魚キャラじゃねえか、ははははは!」
広間に笑い声が広がる。
古木と越田だけじゃなく、他の連中も笑っている。笑っていないのはごくごく一部だけだ。
「ギャハハハ! あー笑った笑った、ひー、腹痛えわ、まったく」
ひとしきり笑うと、古木が拳を握りしめたのを一騎は確認した。やばい。直感で判断して思い切り後ろに飛びのく一騎。一瞬前まで一騎がいた地面は大きく陥没していた。獣人と化した古木の、恐るべき膂力だった。
「な、なにしやがる!?」
「ああん? てめえこそなんで避けてんだよ。てめえが死なねえと皆が生き残れねえだろうがよ」
当然のように古木が返し、一騎は二の句が告げなくなってしまう。こんなに簡単に人を殺すことを選択するのか、と。
「てめえみたいなクズのキモデブがここから生きて出られるわけがねえだろ。どうせ死ぬに決まってる。だからよ? どうせ死ぬんだったらせめておれたちの役に立って死んじまえよ。それぐらいだったらできるだろうがよ。それぐらいしかできることはねえだろうが。そうは思わねえか、なあ、越田」
「最後の最後にはクズでも役に立つ。ほらあれだ、えーと、お前の死は無駄にはしないってやつ?」
越田の追従に古木は大声を出して笑った。
「っ!?」
一騎が気付いたときには、他のクラスメイトたちも古木らと一緒になって包囲網を作り始めていた。転生して読みにくいがその表情は雄弁だ。「自分たちのために死んでくれ」「クズなんだから役に立って死ねよ」「マジで死んでくれない?」声に出さずとも容易にわかるほど明白だ。
「……っ」
一騎は切り抜けるためにはどうすればいいのかを考える。
ゲームで得た知識によるとゴブリンと狼男の戦力差は歴然としている。抵抗は無意味。であれば逃げるしかない。包囲網が形成され、徐々に縮められていく中、判断を誤れば本当に死んでしまう。
そのときだ。
一騎の頭に直接、声が聞こえてきた。比較的、聞きなれた声で脱出のタイミングを知らせてきている。
「間違ってたら恨むからな、ちくしょうが」
泣きそうな声を絞り出す一騎。ゴブリンの肉体の性能を把握しているわけではない状況で、失敗の許されない事態。
「あぁ? なに言ってんだよてめえは」
古木が凶暴な気配を撒き散らしながら近付いてくる。人間だった時と同じようにわざわざ拳を鳴らしながら。
一騎は生きた心地がしない。早く早く早く。間に合ってくれ。額の汗が一筋、一騎の目に入る。内心で舌打ちしながら目を閉じてしまう一騎。
死んだ。
一騎の脳裏に浮かんだ確信は形にならなかった。知らせてくれた脱出の好機。広間全体が大きく揺れて、その場の全員がバランスを崩したのだ。
「今しかない!」
一騎は全速力で駆けだした。正解なんてわからない、広間のあちこちに開いた穴、そのうちの一つに飛び込むようにして広間から逃げ出す。
「くそが! 逃がさねえぞ、キモデブがああぁぁっ!」
古木の絶叫が聞こえてきて、一騎は生きた心地がしなかった。
◇ ◇ ◇
『それにしても、見事な逃げ足でしたねー』
妖精は誰もいなくなった広間を見て大きく首を振る。
『あのゴブリンとスケルトン。ゴブリンはゴブリンとは思えない判断力でしたし、身のこなしも、まあそこらのゴブリンよりかはマシですかねー。スケルトンのほうも油断できない動きでしたし、さてさて、はたして何人が生き残ってくれることやら、期待に胸が膨らみますね』
ゴブリンが逃げ出し、逃げたゴブリンを追って何人かが走り出し、更に他の者たちも別々に走り出した。
妖精が見る限り、スケルトンの動きが秀逸だった。一連のやり取りには一切参加せず、体を動かしたり魔力での探査を行ったりしていた。さっさと状況を飲み込み、できることとできないことを確認している。
能力的には最下位クラスのスケルトン、そのスケルトン以下のゴブリン。妖精には彼らの動向がもっとも気になった。
妖精がふと視線を上に向けると、そこには巨大な穴が開いている。
魔人と吸血鬼、転生者たちの中でも最上級の力を持つあの二人が開けたものだ。魔人と吸血鬼のコンビは自分たちだけでなく、他に七人を連れて洞窟から脱出しているとあって、その手際は見事と言うほかない。これで洞窟からは早々に九人が脱出した。
『魔人と吸血鬼には期待できそうですが、人間だったときの感覚ですかね、役立たずを見捨てることができなかったのは。まあ、十分に強力ですから、今後の成長に期待させてもらいましょうかねー』
妖精は凶暴な笑みを浮かべる。貼り付けたような笑顔ではなく、心の底からのものだとはっきりわかる笑み。
ひと際大きな地響きが広間を揺らす。崩れ落ちた壁の向こうから現れたのは一匹の巨大な魔獣。妖精がペットと表現した、危険極まりない獣だった。