第二章:十六話 菫の選択
一騎は思わず口と鼻をふさぐ。研究室ではなく腑分け場のような雰囲気だ。地面は血や臓物や肉片や油などの生物だった名残りで埋め尽くされ、耐え難い臭気と、恐らくは怨念に満ちている。こんな場所を研究室呼ばわりする精神はやはり、正常なものではない。赤木が呻くように言葉を吐き出す。
「く、も、もう来やがったのか。黄瀬、お前は菫を!」
「わ、わかった!」
グールとストラスは完全に守りに入る。なんとか逃げる方法を模索していると容易にうかがい知れる。よくわからない神官姿のアンデッドが隅で震えているが、一騎にとってはグールたちなど二の次だ。素早く視線を動かす。研究室の一角に鳥籠に入れられたブラウニーを見つけた。
「ブラウニーさん! おい、宗兵衛!」
「!? ダメよ! 黄瀬、妖精をっ」
一騎の声、菫の声、動く宗兵衛、反応する黄瀬。黄瀬が鳥籠に飛びつきながら懸命に手を伸ばす。遮ったのは大量に出現した骨だ。太く頑丈な骨が檻となって鳥籠を包み込む。
「こ、の!」
黄瀬の爪が骨を激しく叩く。教会では簡単にスケルトンを砕いたのに、今回は傷一つつかない。
『おおー、凄い硬度ですねー』
「骨が折れる思いで頑張りました」
「自虐ネタは入れんでいい!」
「! あなた、その妖精は……っ」
菫の声は信じられないものを見てひび割れていた。緑川には理由がわからなかった。
「どうしたんだよ、菫。あの妖精がどうかしたか? あいつも生け捕りにしたほうがいいのか?」
「ばか! 覚えてないの? 私たちを転生させた奴じゃない!」
グールたちは衝撃に打たれ、両目から発する雰囲気にも怒り、などではなく恐怖と怯えが前面に出てくる。洞窟での残酷な所業と、圧倒的な力を思い出してしまったからだ。
『怖がらなくても大丈夫ですよー? あなた方には興味ありませんからねー』
「興味がないから殺さないってわけでもないのでしょう」
『それはそうなんですけどー』
グールたちは知らず知らず、一歩二歩とラビニアと距離を開ける。教会で見せた妖精や魔族への怒りはどこかに吹き飛び、見る影もない。つまるところ、これが赤木たちの性質だ。相手が目の前にいなければ勇ましく、相手がいれば途端に逃げ腰になる。人間らしいと言えなくもない。グールたちは爪を構えて腰を低くする。戦うためではなく逃げるために。
「どうするんだよ、赤木ぃ」
「うるせえぞ黄瀬。どうするもこうするも、こ、降伏するとか」
「そ、それがいい! 同じ人間、クラスメイトだし、被害者どうしなんだ! あいつらだってきっと許してくれるって!」
菫を背にしている以上、グールたちが絶対に気付けないことがある。菫の表情だ。気付いたのベートだけだった。
菫の表情筋は一切の動きを止め、双眸には霜が降りている。菫と呼ばれるストラスは呆然とした態で俯き、ゆっくりとした所作で杖を持ち上げた。一騎たちの距離では聞き取れない呪文を呟くと、杖の先端から木の根のようなものが三本、ずるり、と音を立てて生まれる。
「そそそうだ、な。俺たちの目的のためにも。菫、ここは一旦はこっげばぁっ!?」
生み出された三本の根は、それぞれにグールたちを貫く。信じられない、と声に出さず顔と全身で訴えて赤木が振り向く。
「かっは、づぅっ! ず、菫……なにを」
「なんなのよ、これは。なんのために組んだと思ってるのよ。こんな簡単に追い込まれるなんて……私は嫌よ。降伏したところで助かる保証もなにもないのに」
顔を俯けているから感情はわからない。杖を持つ菫の手は震えている。仲間を刺したことによる自失か、勝手に降伏しようとした仲間への怒りか、死の恐怖への怯えか。
「殺されたらどうするの? こんなところで死ぬなんて私は嫌よ。絶対に嫌。私は、絶対に人間に戻って、元の世界に戻るの……」
いずれにせよ、手の震えは速やかに止まり、持ち上げられた顔には狂気じみた決意が満ちていた。
「元の世界に戻って、お姉ちゃんを追いかけなきゃいけないの!」
杖が輝きだす。杖から生えてグールたちを貫く木の根もだ。段ボールを折るような軽い音と共に、グールたちの肉体が折りたたまれ潰されていく。
「おがげぁ」「あぺ」「や、やめでぇえずみ、れ」
バスケットボール程度にまで潰されたグールたちは、そのまま一つに混ぜられる。凄惨な光景に、一騎と宗兵衛の視線が固定された。
それがまずかった。
菫の術の続き、潰されていくグールとは別の場所、机の上に置かれた鳥籠が砕け、ブラウニーが浮かび上がる。
「ブラウニーさん!? てめえ、なにしてんだ!」
菫は骨檻の隙間から取り出したブラウニーを掴むと、一つになったグールの中に捩り込んだ。だけでなく、研究室内に怨嗟の声を上げる怨霊が浮かび上がり、怨霊らもまたグールたちに混ぜ込まれていく。
「なぜブラウニーさんをグールたちの中に入れたのかわかりますか、『導き手』?」
《ストラスが使用しているのはアンデッド生成魔法の一つです。アンデッドは生者への執着が行動原理ですが、彼らは転生者……通常のアンデッドではありません。なるべく多くの意識を混ぜ込んで、転生者の自我を潰そうとしているのでしょう。また二百年を生きるブラウニーの魔力を取り込ませて、より強力なアンデッドを作るつもりだと推測できます》
「後は、ブラウニーさんを僕たちに対する人質として使うつもりもあるのでしょうね」
一騎の顔が『導き手』と宗兵衛の説明に歪む。こいつらは、どれだけブラウニーを踏みにじるのか。
「す、ずみれぇぇえ、お、まえぇぇ」
「うるさいうるさいうるさい! 私はこんなところで死にたくないの! なにがあっても、どんなことをしても、誰を犠牲にしても! 私だけでも生き残らないとダメなの!」
肉をかき混ぜる音が一際大きく響き、新たな魔物が出現した。赤木たちと研究室内の怨霊の顔を貼りつけた球状の魔物だ。球状の体のいたるところから無数の腕が生えている、悪霊や怨霊が群体を形成したかの姿は、生理的な嫌悪感を覚える。無数の口からは怨嗟と苦悶の呻きだけがとめどなく溢れていた。
「……っ、仲間じゃねえのかよ、お前!」
「うるさいゴブリン! 私のこの姿を見なさい。醜いフクロウの魔物なんか冗談じゃない。私はなんとしても人間に戻りたいの。こいつら三人ゾンビもちゃんと生き返って人間になりたいって言ってたから利害は一致していたのよ。けどここまでね。ゴブリン共は裏切ったし、こいつらは降伏するなんて言い出すし。あんたらゴブリンや骨なんかと組んだって、私が人間になるために役に立つとは思えない。だから、ここで、役に立たない全部を切り捨てるのよ! かかれ、ソウルイーター!」
菫の号令に従って球状のアンデッドが動く。肉体の大半を失い、頭部だけのような形状なのに、飛行能力を得て速度が上昇している。爪を失っているから毒はないだろうと一騎が安易に考えていると、赤木たちの歯と舌に毒が生まれるのが見えた。
間一髪で避ける一騎。ソウルイーターの本体は一騎のすぐそばを通り過ぎた後、向きを変えるより先に黄瀬の首だけがろくろ首のように伸びて噛みついてきた。一騎が身を躱しても、何度も何度も噛みついてくる。アンデッドらしく獲物への執着が非常に強い。
「第三位魔法、大地の矢!」
菫の魔法が大量の石礫を奔流として生み出す。目標とされた一騎は腕を交叉する、と骨の手甲が広がり盾となって一騎を守る。菫が思わず叫ぶ。
「! なんなのよ、それ!?」
「なんだこの手甲! めちゃくちゃ凄えんだけど!」
「魔力消費はその分多いですが、取るに足らないささやかな問題ですよね」
「なんでもいい! ブラウニーさんを助けるのが最優先だ!」
ソウルイーターは一騎の防御を崩そうと三つの口で執拗に噛みつくが、骨の装備を貫くことができない。
埒が明かないと判断したのか、緑川の首が急激に伸びて宗兵衛を襲う。見た目のインパクトを除けば単純な攻撃だ。宗兵衛に通用するはずもなく、骨杖で前額部を砕かれた。悲鳴を上げる緑川を無視して、宗兵衛は腕を振るう。
五発の骨弾――二発は菫の腹と左翼、二発はソウルイーター、一発は外れ――が命中し、肉の爆ぜた菫は唸りながら宗兵衛を強く睨みつける。
視線に割り込んだのは一騎だ。ソウルイーターを無視して菫との距離を詰める。菫は魔法を使っての中遠距離で戦うタイプだ。近接戦には向いていない。一騎の斬り上げに反応することもできない。横合いから首の伸びた黄瀬の頭突きを受けて一騎は弾かれた。
菫は悟る。相手のほうが強いと。戦闘を続けても勝算は薄い。
となれば採る道は一つだけ。杖を掲げると巨大な火球が出現する。菫の手持ちの魔法で威力は五番手ほど、派手さは間違いなく一番の魔法だ。目に見えて狼狽を示したのは、部屋隅で震えていた神官ゾンビだ。
「ひ、ひぃ! す、すす菫様、その魔法は!」
《第五位魔法、大火の散乱です。主、回避を》
「それよりも」
解き放たれる魔法に真っ先に反応したのは宗兵衛だ。回避でも防御でもなく、掌を合わせる行動を採る。オレンジ色の巨大な火球が研究室中に広がる。噴き出した炎はゴブリンもスケルトンもソウルイーターも、逃げ遅れて近くにいた他のゴブリンも十数体をまとめて飲み込む。
爆風の衝撃は大きい。
一騎の目の前で、風に叩かれたゴブリンの手足が関節の予定外の方向に折れ曲がる。ソウルイーターの体も、隅で震えていただけの神官アンデッドも引き裂かれていた。風と熱は一騎の肉体も容赦なく叩く。熱く硬い――炎と風の混じり合った塊に突き飛ばされ、壁面に押し付けられる。
洞窟のような狭い空間で使うことは想定されていない爆発魔法を使用した本人だけは、表情に余裕があった。いつの間にか石を口にくわえている。
暴れまわる炎と熱と風の中、一騎はその石の正体に気付く。グールたちが教会で用いた、転移用のアイテムだ。菫は見捨てた仲間たちを一顧だにせず、石を噛み砕く。それこそ一目散に逃走したのだった。




