幕間:その二十一 とある勇者(妹)と魔物(兄)の話 ~第一話~
「ほっ」
薄紅色の花びらが頬の横を横切っていく。四月の、まさに入学シーズン真っただ中の早朝、整備された川沿いの土手を自転車で走る。
学生服に身を包んだ山吹夏樹も、思春期男子の例に漏れず格好をつけたい年頃ではあるが、貯金が乏しくバイトもできていない身としては、九九八〇円のシティサイクルで一杯一杯だ。親の援助は、衣類の購入のために使ったばかりというのも関係していた。
川の両岸には桜が植えられていて、三月後半からのこの時期、県外からも観光客が訪れるちょっとした名所として知られている。
太陽の日差しはまだまだ力強さを欠く時期と時間、夏樹の他に土手にいるのは、早朝の散歩やランニングを日課としている人たちが大半だ。少数派として、健康のために歩きや自転車――そのために早めに家を出た――で出勤するサラリーマンたちがいる。
夏樹はどちらかというと後者に分類された。登校時間には早く、朝練のある部活組でちょうどいい時間か。クラブ活動をしていない夏樹がこんな早朝に自転車を漕いでいるのには、深くもなければ大したこともない理由がある。
自分が利用していた道、利用する道を、自分の目で確かめておこうと思ったのだ。少しだけ自転車で回った後は、家にUターンし、妹が作ってくれた朝食を食べてから登校する予定でいる。
ただししっかりとした予定ではなく、状況によってはいつでも変更は利く。むしろ気分次第でいくらでも変更するつもりでいるくらいだ。
穏やかな流れの川面に乗って、桜の花びらが下流へと流れていく。岩にぶつかったり、小さな渦に巻かれたり、はたまた何物にも引っかかることなく流れていく様は、今日の夏樹の気持ちに寄り添うかのように柔らかだ。
「おっと」
自転車を降りる。押して歩くほうが楽しそうだ、との考えは正しかった。自転車で流れていく景色を見るのもいいが、もっとゆっくりとしたペースもいい。
ゲートボール場を通り過ぎ、市民の声によって増設されたベンチを見つけ、腰掛ける。土手に直接、寝転がるという非常に魅力的な考えも浮かんだが、下ろしたばかりの制服を汚すのは躊躇われた。
「ふわぁ」
いつもより一時間遅くに寝、一時間近くも早起きしたせいもあって、ぼんやりと景色を眺めているだけで眠気に襲われる。
腕時計は持っておらず、すぐ家に戻るつもりだったのでスマホも持ってきていない。遠くに設置されている時計の文字盤は、両目とも〇.七の視力ではよく見えない。そろそろ眼鏡が必要かな、とのんびりと考える。
「ちょっとくらいなら平気だろ」
楽観的に考え、夏樹はベンチに横になった。自転車を漕ぎ続けてきたことと重ね着をしているおかげで、弱い日差しでも十分に暖かい。
頬を撫でる風は心地良く、川のせせらぎと少ないながらも土手を歩く人が作る軽やかな音。寝不足も相まって、急速な睡魔が夏樹を襲う。そして悲しいかな、夏樹にとって睡魔は敵ではなく、出会えば即、握手を交わす間柄だった。
夏樹の目蓋はあっという間に重くなり、完全に閉じられるまでに五分かかったかどうか。顔の近くを飛ぶモンシロチョウが、どこか呆れた風だった。
――――兄さん……兄さん、起きて下さい。
「ん、ぅ」
夢の中で揺れた、と夏樹は感じたが勿論勘違いだ。しっかり体が揺らされていた。開けた目のすぐ近くにあったのは、妹の由宇だ。
「由宇? どうして、ここに……?」
夏樹のセリフに、由宇の頬は少しだけ膨らんだ。
「兄さん、今の時間がわかりますか?」
「え?」
由宇に突きつけられたスマホは、午前八時五分を示していた。どうやらたっぷり半時間は寝てしまったらしい。どこに出しても恥ずかしくない自慢の妹様は、どうやら大変にお冠のようだ。
「朝食までには戻ってくると言ってましたよね。兄さんの好きな大根のお味噌汁を用意して待っていたのですよ」
「そ、それはすまなかった。いや、昨日は寝不足だったんでつい、ね?」
夏樹の全身に微かに残っていた眠気は、遥か彼方に吹き飛んでしまっている。友人である睡魔も、可能な限り遠くに退散した後だ。実に友達甲斐がない。
「はぁ、仕方のない兄さんですね。兄さんらしいとも言えますけど」
どこか嬉しそうなため息、と共に由宇が通学カバンから取り出したものは、おにぎりが詰められた弁当箱だ。
「かたじけない。感謝していただきます」
ははー、とばかりに頭を下げる夏樹。時間的に夏樹が家に戻る余裕はないし、コンビニで買物をしようにも財布すら持ってきていない。一日を水で空腹を紛らわすか、友人に借金をするか、遅刻を覚悟して家に取りに帰るか、くらいの選択しかなかったのに、思いがけず救いの手が差し伸べられた。
ゴマ塩おにぎりは当然として、ヒジキ、ワカメ、梅、鮭と各種具材に、保温性能の高い水筒には味噌汁付き。朝食としては相当に贅沢な部類といえよう。
高校生男子の食欲は、余人には理解しがたいものがある。由宇が呆れる速さで、夏樹は四つのおにぎりと味噌汁を平らげていた。差し出されたお茶を一気に飲み干し、手を合わせる。
「ご馳走様、美味かった」
「そこまで美味しそうに食べてくれると、わたしも作った甲斐があります。こっちが兄さんの荷物です」
「……部屋に置いてたんだけど?」
「時間割通りに組まれていて助かりました」
「そ、そうですか」
色々とスペックの高い妹に、スペック以外の理由もあって夏樹は根本的に頭が上がらない。昔はもう少し、気持ち程度、紙一重ぐらいは、夏樹のほうが立場が強かったような気がするような、気のせいのような。
由宇が高校に入学後、二人は一緒に通学することが多くなった。思春期の男女の兄妹で一緒に登校するのは珍しいのではないだろうか。
「学生生活は楽しいですか、兄さん」
「シスコン呼ばわりされる毎日だよ」
「つまりとても楽しいというわけですね」
「………………」
「なにか?」
「いや……お前はブラコン呼ばわりされないのかと思って」
「そこはとても辛いです」
「あれ? どっかおかしくない?」
人生にはいろいろと曲折があるにしろ、夏樹も高校生活で予期せず躓いた口だ。自分だけで立ち上がることができたかどうかは微妙。できた妹の由宇がいなければ、引きこもりになっていたかもしれない。
「そういえば、今年は修学旅行ですよ。班分けは大丈夫ですか? ハブられたりされていませんか?」
「まだ先の話だろ。でも安心してほしい。皆が俺に気を遣ってくれている」
「安心できる要素がわかりませんが。まあ、土壇場で欠席するとも思えませんし、その点は安心かもしれませんね」
「あのね、お前はおれをなんだと思っているの?」
「聞きたいですか?」
「いえ」
由宇は男女問わず人気がある。物腰が穏やかで成績もよく、スポーツ万能、分け隔てなく人に接し、なにより笑顔が可愛い。
今のところ、由宇の笑顔をほぼ独占している異性である夏樹は、紹介しろとせがんでくる男を追い払うことが日課でもある。幸いというべきか、はたまた大いに悲しむべきか、逆の例に遭遇したという話は聞いたことがない。
「修学旅行では男女が急接近するとかでクラスの男どもが舞い上がっているが、そっちはどうだ?」
「似たようなものです。兄さんも期待しているのですか?」
「おれの優先は、まず修学旅行を楽しむことだ」
夏樹の言葉に、由宇は花のような笑顔を見せる。
「ええ、存分に楽しみましょう」
兄妹の会話は、確かにこの修学旅行を楽しみにしたものであった。クラスは違えど、どこかのタイミングで合流しようとも話をしていた。実に仲のいい兄妹である。こんなだからシスコンだと囁かれるのだ。
準備には疲れながらも心躍らせ、学校のカリキュラム通りの時期に修学旅行へと出発し、予定とはかなり遅れる形で兄妹は合流、あるいは再開した。
薄暗い洞窟の中、魔法の灯りが周囲を照らしている。だがその灯りは暖かく柔らかなものではなく、冷ややかな剣呑さを漂わせていた。事実、野生動物やヒエラルキーの低い魔物は危険を察知したのか近付こうともしない。淀んだ空気が張り詰める中、
「それで兄さん、頭を冷やす準備はできましたか?」
「冷えてる! 冷えてるから!? もうこれ以上はないってくらいに冷却されてますから!?」
これ以上はないというくらい、はっきりとした上下関係が構築されていた。




