第五章:四十話 大精霊、来る
貫いた骨刀が動き、黒獣は両断されて地面に倒れる。倒れると同時に黒獣の肉体は崩れ、真っ黒なタールが大きな水溜りを作った。水溜りの一部が盛り上がり、ブチュ、という嫌悪感を与える音と共に突き破られる。水溜りの中から這い上がってきたのは、小さな体躯の亜人、一騎だった。
「ぅ、げぇっ、げっほぅ、ぶぇ……んだこれは、気っ持ち悪い」
這い出ながら餌付く。何度も唾を吐き、体にこびりついている黒く粘性の高い液体を引き剥がす。一騎が視線を左右に動かすと、一点に固定される。
体の七割ほどがタールの水溜りに沈んでしまっているが、残りの部分だけでも十分にわかった。カインだ。顔の右半分が沈んでいて、開けられた左目の瞳孔は散大している。僅かに痙攣していることも確認できる。
「宗兵衛、あれはどう思う?」
『感知できる範囲では、まだ生命反応はありますね。辛うじて、ですけど。レベルはⅢ群といったところでしょうかね』
「なんのこっちゃ」
ジャパン・コーマ・スケール(JCS)というものがある。意識障害の程度と経時的変化を客観的に評価する指標で、Ⅰ群からⅢ群に分類されている。
Ⅰ群が0、1、2、3の四段階、Ⅱ群が10、20、30で、Ⅲ群が100、200、300のそれぞれ三段階で表される。もっとも重いJCS300だと痛み刺激にも全く反応を示さない。
本来は頭部外傷や脳血管障害の意識障害に用いられるものだが、実際の現場ではもっと広い場面で使われている。宗兵衛の使い方も本来のものとは違い、ようするに意識がないと言いたいのだ。
他にもグラスゴー・コーマ・スケール(GCS)、エマージェンシー・コーマ・スケール(ECS)があるものの、ECSについては認知度が低い。
「かなりヤバい状況ってことか。お前なら助けられるか?」
『アンデッドに回復魔法を使うとダメージを与えるのですよ? アンデッドが回復魔法を使っても同じでしょう』
「属性反転とかできねえのかよ」
『アンデッドとしての僕は、ぴちぴちのフレッシュな新人ですよ。なにを期待しているのですか』
「ベテランにしか見えねえよ!? つかアンデッドでぴちぴちとかフレッシュってなんだそれは!?」
そういう一騎も魔物としては新人である。これだけ厄介事に巻き込まれているのだから、新人王にでも選んで欲しいものだ。
誰が選ぶ? 魔物たち? それとも真正聖教会? 怖い想像をしてしまい、一騎は体を震わせた。視線をカインから動かし、まだ留まったままのベルカンプを睨む。ベルカンプは大袈裟に口を歪めて応じた。
「フン、生きる価値もない異教徒めが。せっかく力を恵んでやったというのに、最低限の期待に応えることもできんとは。どうしようもない役立たずだな」
墓標に銘を刻むとしたら、これほど酷薄で無慈悲なものもそうはないだろう。
「まあいい。死んだのなら、それでいい。善良な異教徒は死んだ異教徒のみ。そこの役立たずも死んで初めて救われたということだ。おお! 斯様な無知蒙昧の蛆虫にまで救いの手を差し伸べて下さるとは、我らが神の何と慈悲深いことか! まったくもって度し難い間抜け揃いの帝国に、溢れんばかりの慈悲を恵んでくれようぞ!」
恍惚とした表情のまま、帝国に死を撒き散らすと宣言する。ベルカンプの主張も精神も小揺るぎもしない。ベルカンプにとって重要なのは、正当な復讐を果たすことのみ。外交的解決を邪教集団が受け付けなかったというのは、暴論であり愚論。
「神の言葉であるぞ! 外交など必要ない、貴様らはさっさと真実の神に帰依し、この地の全てを即座に明け渡せばよかったのだ! さすれば貴様らとてゼーリッシュ神の慈悲にも恵まれようものをっ」
かつて、ゼーリッシュ教徒は小さいながらも国家を成していた。村落の集合体程度のものでしかない小さなもので、周辺国からは国家と目されていなかったが、教徒たちには紛れもなく自分たちの国家だった。
ゼーリッシュは自らの正当な土地を手に入れるため、度々、国境を侵犯し、ティターニア側は追い払う程度に留めていた。取るに足らない小国とはいえ、信仰の力は侮れない。戦争ともなれば国力を著しく低下させる。
加えて、ゼーリッシュ側の思想、思考などが理解しがたいこともあって、帝国側には敵愾心以上に敬遠したい感情の方が強かった。
だがしかし、帝国側が自重する形を採っていると、ゼーリッシュ側が「ほら見ろ。俺たちの方が正しいから、帝国は大人しくしてるんだ」とつけ上がるようになる。
国境を堂々と越えるようになり、遂には死者が出るに至ったため、帝国とゼーリッシュは戦争に突入した。戦争などするべきではなかった、と穏健派のゼーリッシュ教徒が後に漏らした通り、戦争は強力な魔法士を有する帝国が終始、ゼーリッシュを圧倒した。
開戦から一週間もしないうちに首都近くにまで迫られたゼーリッシュは、「教会施設や神職者らに手を出さねば、忍び難いが降伏も考慮する」と申し入れ、「ふざけるな」と帝国は突っぱねた。
これまでの甘い対応のせいで、増長したゼーリッシュ教のせいで、帝国の安全が脅かされ、国民が死んだのだ。ゼーリッシュ教の神職者や教会を見逃すことなどありえなかった。
苛烈極まる殲滅戦が展開され、ゼーリッシュ教大主教を初めとする神職者たちのみならず、ゼーリッシュ教信者も含めて多くが殺害された。そして帝国では、「帝国の正当な権利と人命を踏み躙った悪逆非道な邪教徒共は打ち滅ぼされ、帝国に平和が戻った」と説いているのである。
「帝国の平和だと! ふざけたことを! 我らは貴様らを決して許さぬ、我らの大義を踏み躙り、多くの信者らの命を奪うという蛮行を行なった貴様らを許すことなどあり得ぬわ!」
ベルカンプの口角から泡が飛び、積年の憎しみと怒りが撒き散らかされ、あまりの呪詛の濃度に一騎の視界が歪む。
「へ! それでやってることがこれか? 適当な魔物をばら撒くだけじゃ、帝国を倒すなんざ、無理だろうさ」
「黙れっ! これだけで終わるわけがないだろう! よかろう、本当はもっと別の場面で見せたかったが、貴様のような醜い亜人の存在を神は許してはいないしな。我が自ら行う聖戦の、最初の贄としてくれる!」
ベルカンプの咆哮と共に、その肉体に無数のヒビが入る。ヒビはあっという間に全身に広がり、砕け散った。破片は地面に落ちる前に黒い液体となり、砕けた内側からは、本物のベルカンプが哄笑を上げて、一歩二歩と踏み出してきた。自分自身をこの場に召喚したのだ。
「安全な場所から眺めているだけの楽ちんなお仕事じゃなかったのか?」
「我が役目に楽なものなど一つもない! 神よ、あらゆる苦難を我に与えよ! 神は乗り越えられぬ試練をお与えになどならぬ! 今日この日も! 乗り越えるべき試練に他ならぬ!」
ベルカンプを大きく手を広げ、空を仰ぎ見て、叫ぶ。
「来い! 我が大精霊――――」
「! 大精霊!?」
大精霊というのは極めて珍しい存在だ。もちろんエスト以外の大精霊がいるのも当然だとしても、同じ場所に二体の大精霊が存在するというのは、歴史上に何例があることか。だが一騎をより驚かせたのは、続く言葉。
「――――ショーマ!」
「!?」
名前の響きがこの世界のものとは違う。もしかしたらどこかにはあるのかもしれない。だが一騎はこれまでに聞いたことがない。つまりは、
「転生者!」
空中に突如として現れたのは、一体の、瘴気を纏った巨大などす黒い蛇のような、醜悪な精霊だ。瘴気はまるでガスのように周囲に広がる。いや、広がるというよりは汚染していると言ったほうが正しい。ガスに触れた木々が腐り落ちていく。
にたり、と笑うと口があまりに大きく裂ける。釣られるようにベルカンプの口も大きく開かれた。呼気すらも黒く染まっているかのようだ。
「言っておくぞ、醜い亜人。これはお前たちの精霊契約とは少し違う。対価でもって成される契約だ」
「対価?」
一騎の疑問に、ベルカンプは大きく息を吐き出す。呼気すらも黒く染まっているかのようだ。だが答えたのはベルカンプではなかった。
「暴力と、殺戮」
空中に浮かぶショーマがゆっくりと答える。




