第五章:二十五話 接触
夜の帳は貴族も平民も、人間も亜人も魔物も関係なく、万人に平等に訪れる。もちろん灯りの数によっては帳が降りる速度に差もあろう。魔の森にある集落では既に静まり返っている時間であっても、一年でもっとも人出の多い時期のコンディート市には当てはまらない。一騎がヘンドリクソン家で食事を摂っている頃、四大公爵家が一つ、シルファリオ家のカインは、市内にある別邸の広大な庭で剣を振っていた。
「三百二十一……三百二十二……三百二十三」
魔法士といっても魔法だけで役割をこなせるわけではない。任務の内容によっては体術や剣術が必要になる場面は多くある。あるいはまた戦争でも起ころうものなら、体力のない魔法士など足手まといにしかならない。
「三百五十七……三百五十八……」
剣を振るカインの姿勢に乱れはない。規則的に振るう剣筋は真っ直ぐで、体重移動もスムーズなものだ。だが表情は違う。眉根は寄り、眉自体も吊り上がっている。奥歯は強く噛みしめられていて、剣が空を切る音には歯軋りの音が混じっている。
剣を振ってはいても一心に振れてはいない。カインの脳裏には一騎がちらついて消えないのだ。試験中、一騎は躊躇いなくリズを助けた。敵を、自分を罵っていた相手を。翻って自分ならどうしただろうか。カインは助けない。助けようともしなかっただろうし、助けようなどという考えはチラリとも浮かばないと断言できる。
「いや、おれが正しい。たとえなにもしなくても、あの落ちこぼれの無能が助けになど行かなくても、リズは助かっていた。あいつがしたことは体力と時間の、ムダだっ」
感情に任せて剣を振り下ろす。技でもなければ理合いも持たない刃は、硬い音を立てて庭の石に弾かれた。鍛えられているはずの刀身は、一部が砕け、ヒビも入る。
事実としては、カインたちの班は一次試験をトップの成績で通過している。それに引きかえ、一騎の班はギリギリ通過した程度の点数であり、大精霊エストの手助けを得られない二次試験は合格できるかどうかも怪しい。このことを考えると気が晴れても不思議はないが、カインの気分は屈辱に塗れたものだった。
大精霊エストの顔が鮮明に浮かぶ。圧倒的な力と美貌を持つ彼女に殴られた傷は、魔法により回復している。回復したのは体に受けた傷だけだ。精神的な傷に至ってはむしろ、時間を経つ毎に深くなり、また膿んでいく。
あれだけの力を持つ、あれだけの存在が己を拒絶する。帝国最高位貴族の家に生まれ落ちてより十余年、望んで叶わなかったことなど初めてと言ってよい。忌々しい亜人を排除できていないが、それは明日の試験で叶うことだから構わない。即座に排除できなかったことは腹立たしいにしても、まだ許容できなくもない。
だがエストは違う。精霊契約を交わしている彼女は、カインに見向きもしない。興味も関心もなく、他の、下級貴族や平民共と同列に扱っている。
精霊は人と似てはいても、人と価値観を共有していない。だから貴族も平民も亜人も奴隷も、あくまでも「人間」という一つの括りの中に納められてしまう。
精霊にとっては別に珍しいことではない捉え方は、しかし特権というものに慣れ親しんでしまったカインにしてみれば、不条理極まりないものだ。
どうして最高貴族の自分が望んでいるのに、亜人などと一緒にいることを選ぶのか。
大精霊との精霊契約は次代の帝国を率いるこの身にこそ相応しいと、どうして理解してくれないのか。
自分はすべてを持っている。金も権力も地位も名誉も、輝かしい未来も。誰がどう考えても、大精霊エストの契約者に相応しいのは自分だ。
自分だけだ。
それはカインだけでなく、学院の教師やリズのような他の貴族たちからも認める。なのにどうして、大精霊エストだけが認めない。あらゆる要素を加味しても、あの醜い亜人に負けることはないと断言できる。
「わかっているぞ」
契約により縛っているのだろう。それがカインの導き出した結論だった。帝国の筆頭貴族である公爵家子息の自分が何度も声をかけているのに、一向に自分を選ぼうとしないなどありえない。
なぜゴブリンのような雑魚などと契約しているのだ。教会教義において枢機卿よりも高い地位にある大精霊には相応しくない。自分こそが、四大貴族の跡取りである自分こそが契約者に相応しいというのに。礼儀と敬意に満ちた対応をし、態度を示し、名誉と財産を提示しているというのに、なぜ自分の手を取ろうとしないのか。
あらゆる点においてイッキに勝る自分を選ばない理由、それこそが契約による強制的な隷属だ。隷属を強制する魔法や魔道具を用いることで、大精霊を手元に置いているのだ。そうでなければ、説明がつかないではないか。
カインは自分が持っている知識だけを総動員して、自分に都合のいい結論を作り出していた。
「明日の試験、必ずやあの亜人を倒し、御身をお救い致します。その暁には、今度こそ精霊契約を」
なによりも理想の未来を作り出していた。
「カイン」
「っ! 父様!」
いつの間にいたのか。シルファリオ家当主にして軍務大臣のシャトレー・シルファリオが刀剣の如く真っ直ぐな姿勢で立っていた。眼光も刀剣さながらに鋭く、カインは背筋が寒くなる。
「随分と乱れた剣だな」
「……も、申し訳……ございません」
頭を下げるカイン。公爵家として十分な点数を採っている。常ならば誇らしげに父の顔を見返したところ、今日のカインは父親の顔を見ることができない。エストに殴られ、治療を受けた顛末も当然、耳に届いているだろうから。
「お前もいずれはシルファリオ家の当主として、帝国の未来を担い守る身だ。分かっているな?」
「は、はい! 重々に!」
「魔法士とは帝国を守護する剣であり盾である。六大公爵家はその頂点。我らの姿は魔法士そのものだ。公爵家の成した功績も、過ちも、全ての魔法士に影響を与えるものだ」
公爵家の振る舞いは魔法士の規範となる。実技だろうと座学だろうと、情けない姿を見せるわけにはいかない。これまでに何度も繰り返し聞かされてきたセリフを、このタイミングでもう一度投げられる。
「その剣のようなみっともない様を見せるでないぞ」
「はい! 必ずや!」
息子の返事に果たして父親は満足したのか。顔色一つ変えず、公爵家当主は去っていった。カインは奥歯に力を入れ、音がするほど強く柄を握り、横薙ぎに振るう。刀身は風の魔法を帯び、庭に置かれている石を真っ二つにした。
「勝つだけじゃ足りない……あの無能、徹底的に叩き潰してやる」
鬱屈した感情の切っ先は一騎に向くようになっていた。父に責められたことも気に食わないが、これも元を正せばあのゴブリンのせいだ。
「薄汚い亜人野郎がおれを苛立たせるから、こんなことになるんだ。父様がおれを責めるのも、大精霊様がおれを選ばないのもっ!」
少なくともカイン自身は、この考えを間違っているとは思っていない。
「っ」
あまつさえ、大精霊エストから受けた顔の傷だ。強かに殴られた顔を押さえる。傷こそ残っていないが、痛みは確かに残っている。自分は大精霊様のことを第一に考え、分際を弁えないゴブリンを打ち据えることを選んだだけであるというのに、この仕打ちはなんだ。断じて許せない。
大精霊様のことが許せないのではなく、大精霊様に帝国貴族を傷つけさせたゴブリンが許せないのだ。あのゴブリンは必ず引き裂く。四大貴族としてのあらゆるコネを使って契約解除を使える術者を探し出し、ゴブリンと大精霊様との間にある契約を必ず破却させる。
「代わって君との契約を成立させる、というわけだね」
「!」
インクが滲むように、黒い闇の中から浮かび上がる人影があった。
「ベルカンプ先生……」
「やあ、カイン君。ようやく決意を固めてくれたんだね」
「え?」
「あの亜人から大精霊様を取り戻す決意を、だ」
奪い取る、のではなく、取り戻す。巧みではなくとも、ベルカンプの表現は一瞬でカインの気持ちを定め固めることに成功した。
己が抱く怒りという感情に、正当化の金言が与えられたと受け止めたのだ。投げかけられた言葉に、カインは既に持っていた確信をより強くする。自分の行いは正しいのだと。正当な権利を回復するだけのことに過ぎないのだと。
「だが問題がありますよ」
「なに?」
「君の力なら確実にあのゴブリンを倒すことができるだろう。あのゴブリンだけなら、ね」
「精霊契約のことか」
「その通りです。たとえ一対一の戦いであったとしても、契約に縛られている大精霊様はゴブリンを助けざるを得ない。そして大精霊様が介入してきたならば、いかに四大貴族といえど勝てるものではない」
カインの整った顔に苦みが滲む。大精霊エストの規格外の力は、たとえ片鱗程度のものにすぎないにしても身に染みている。学院での様子から、相手がゴブリンだけなら負けるとは思わない。だがエストの介入を許してしまうと、実力的にも宗教的意義を考えても絶対に勝てない。
だからといって、諦めるわけにはいかない。大精霊様に本来の地位を回復させることができるのは、公爵家たる自分だけなのだから。どうする? 結論を出せないカインに、ベルカンプは邪悪を押し隠した柔和な笑みを浮かべた。
「これを君に託す」
強制力すら感じさせる言葉に、カインは鋭い視線を向ける。ベルカンプが差し出してきた両掌には、黒い靄が蠢いていた。
目の前に立っているのは本当にベルカンプ教諭なのだろうか。いつも猫背の、小声でぼそぼそと話す、相手が貴族なら子供にだってへつらう、冴えない印象の男。
それなのに、これはどうか。体格も服装もなにも変わっていない。だがカインが受ける印象は、今のベルカンプはどこか人間離れしているようだった。琴線に響くはずもない、粘りつくような声。黒く、しかし美しさの欠片もない濁った瞳。正誤はともかく、ベルカンプの声と目はカインを否応なく吸い込んでいく。
「こ、れは……?」
「本当は教師が一生徒に協力するのは良くないのだけどね。君には重大な使命がある。これは、そのために必要な力だ」
笑みを浮かべたまま近付いてくるベルカンプに、カインは動けなかった。ベルカンプに圧倒されていることに、カイン自身は遂に気付かなかった。
「これは、精霊……なのか?」
「そうだ。君の力と精霊の力。この二つが合わさった君ならば、必ずや大精霊様をお助けすることができるだろう」
「俺が……大精霊様を……」
「君がだ」
カインの呟きに、ベルカンプは力強く返す。
「あのゴブリンから解放させることができたなら、大精霊様も君に深く感謝するだろう。ゴブリンに代わって、君が大精霊様と契約することも十分に考えられる。それは、御父上にもできなかったことだ」
「!」
カインの心の炎が強く燃え上がる。ただし炎の色は、ベルカンプの瞳同様に黒く濁っていた。ぬるり。伸ばしたカインの手に黒い靄が滑り込み、黒い靄は浸み込むようにカインの内に消えていく。
「最初は嫌がるかもしれない。だが時間が経てば、おれのほうがあらゆる面において、あのクソゴブリンよりも優れていると理解してくれるはずだ」
「ああ、その通りですよ」
「そうだ、おれを選ぶことこそが大精霊様のためなんだ」
カインが浮かべた笑みは、極めて凶暴なものだった。




