第四章:二十七話 森の騒乱 ~その十~
ネズミは沈没する船を見捨てて逃げ出すという。
負け戦について行きたくないというのもまた、生あるものとしては当然の反応と言える。人の歴史においても、旗色が悪いと見るや逃げ出したり寝返ったりするものは多い。
『ウガァァァ! あの! あのクソゴミ共め! 役立たずが! 満足に役目を果たすこともできねえのかっ! 簡単にやられやがってぇぇぇえええっ!』
広間の中心で戦斧を振り回す。これまでなら――つまり一時間前までなら――戦斧の先にはゴブリンロードの鬱憤を晴らすための犠牲者がいた。
今はゴブリンロードしかいない。
だだっ広い、人間百人程度を収容できるスペースに立って、息をしているのはこの山砦の主だけだ。いや、主ではなく、間借り人程度であるかもしれない、と不愉快な幻想にとり憑かれ、雄叫びと共に振り払った。
『ここはもうだめだ』
遅まきながら結論を出す。
常のゴブリンロードなら、転生者ほどの戦力を前線に出した時点で、己は安全のために身を隠していた。事が済んだ後でしたり顔で出てきて、すべてが自分の手柄であるかのように振る舞い、勝利の咆哮を戦斧と共に天高くつき上げたことだろう。
『ベートッ!』
片腕と目すアンデッドの名を叫ぶ。しかし、ベートが姿を見せる気配がない。
『ベーぇぇぇぇトッ!』
再びの、今度は叫びにも似た声。一番の部下と捉え、腹心との信頼を寄せていた相手が一向に応えない。
まさか逃げ出したのか? もしそうなら断じて後悔させてやる。こめかみに浮かび上がった血管が今にも破裂しそうだ。
これが最後、と大きく息を吸い込んだタイミングで、広間に転がり込んできた影があった。
『お、おおおぉぉお、おお、ぉ王様っ! たた、大変です王様!?』
ベートだ。出会って以来、初めて見る狼狽えぶりに、「のこのこ顔を見せたら殴り飛ばしてやる」と決めていたゴブリンロードも、行動を躊躇した。
『どうした? なにが大変だ?』
己が築いた軍団が崩壊しつつある今でも十分に大変なのに、これ以上、どう大変になりようがあるのか。
『ててててて転生者が!』
『あ゛ぁ!?』
語気が荒くなったのは相手を威嚇するためではなく、無意識のうちに、届くであろう悪報への警戒を強めたからだ。
『ヤスオが負けました! 死にました!』
『ぉっ!?』
『あああ相手の頭目らしきゴブリンと一騎打ちをして、返り討ちにあったと連絡が! ああ跡形も残らなかったと! 他の巨人たちも皆……っ、そ、総崩れです!』
『あ、いっつぅぅぅぅっ!』
ベキ、ビキ、ミシ。右手から大きくも鈍い音がする。戦斧の柄が握り折られていた。
『なにが転生者だ、クソッタレの役立たずが! 立派なのは口と態度だけかクソ雑魚の石ころ野郎め! 問題ないだと? 蹂躙してやる!? てめえがくたばってりゃ世話ねえだろうがクソがぁぁあっ!』
ヤスオが並べていた威勢のいい言葉が、口先だけだったことが腹立たしい。あらん限りの罵声を吐き出しながら山砦の床を蹴りつける。
先に冷静さを取り戻したのはベートだった。折れた戦斧が床に落ち、金属的な音を立てたことがきっかけだ。
『おお落ち着いてください王様。もうここはダメです。早く逃げなければっ』
『逃げ……っ』
沸騰していたゴブリンロードの頭に、冷水が浴びせかけられた。
逃げるだと? ここまで大きくした群れを失う? ボスとしての、いや、王としての地位を失う。手に入れかけていた森南部の覇権と共に。
『王様、早く! 王さぶべらっ!?』
ベートの顔面に直撃したのは、ゴブリンロードの岩塊のような拳だ。受け身も取れず、ベートは間抜けな声を上げて倒れる。ゴブリンロードは唸り声を上げて倒れたベートの上に馬乗りになり、苛立ちのままに何度も拳を振り下ろす。
『やかましいぞこの役立たずが! 威勢のいいことばかりを言いやがって。貴様なんぞの言葉を信じたからこの様だ! アンデッドの腐った口じゃまともな策の一つも出せねえか、ああ!?』
殴打。殴打。殴打。
ベートの歯が折れ飛び、頬肉が殴り削られる。『ひぃ、ひぃっ』と繰り返される悲鳴に、ようやくゴブリンロードは冷静さを取り戻した。
ベートの胸倉を掴み、体を引きずり上げる。息も絶え絶えなベートに向けて、ゴブリンロードの下した命令は酷薄なものだった。
『俺は砦を捨てる。てめえはここで時間稼ぎをしろ』
『ひょ、しょんな……』
『なにが不満だ。王たる俺のために死ねるんだから望むところだろうがっ』
『わ、わりゃひは王しゃまの右腕では』
『俺の右腕は俺の体についているんだよ!』
ブン、とベートを投げ捨てる。投げ捨てた直後には、ベートのことなど脳細胞の片隅にも残っていなかった。
早く逃げなければ。
業腹だが止むを得ない。出直しだ。
今までにもいくつもの群れを率い、失っては再起を叶えてきた。これだけの規模の群れを一度は作り上げた。ならば次も可能だと確信している。
いや、次はもっと大きな群れを。次こそは間違いなく森の覇権を握れるだけの強力な群れを。動けば必ず勝利する、動かずとも相手が黙って頭を下げてくるほどの。
そのためにもここは引く。群れの部下たちは多くが死ぬだろう、と考えるとゴブリンロードのはらわたが煮えくり返る。
部下たちが死ぬ事実に対してではない。
自分の思い通りに物事が進まなかったから、部下たちが死ぬ。群れを失う。このことが許せなかった。
士気の低さ。運用のまずさ。薄い忠誠心。作戦を持たず、力押し一辺倒の戦い。振り返ればいくらでも出てくる反省点に、ゴブリンロードは見向きもしない。反省すべき点があるとすれば、ベートのような奴を頼ったこと。
今度はすべて自分だけでやると誓う。
いや、その前に、逃げ出した元部下たちを見つけてぶち殺す。殺して食ってやる。食いでがないようならら、臆病風に吹かれた頭を砕いて、脳みそを地面にばら撒いてやる。
反省すべきは、あまりにも頼りない部下たちだ。
次はもっと強い、優秀な連中で陣容を揃えよう。のこのこと逃げ戻ってくるような恥知らずどもがいたら、腹の虫を治めるために引き裂いてやる。
獣じみた決意。剥き出しになった牙。血走った目。太い血管が脈動する腕。
『――――っ!?』
一瞬で凍り付いた。一体どういう仕組みなのか、バルコニーの向こう側から見えたものがあった。
バルコニーに立っていたら見えたのではなく、バルコニーから離れた広間の中央にいながらにして見えたのだ。左肩から右腰にかけて、斜めに斬り分けられた死体が宙を舞っていた。斬り飛ばされた部位の一部だと気付くのに時間がかかったのは、それだけ頭に血が上っていたからか。
『くそぉぉぉっ!』
血が上り、回転の鈍った頭でもわかることはある。戦争は前線だけで起こっているのではない。敵の手は既にここにまで、この首に届かんばかりに近付いている。
ゴブリンロードはあらゆる思考をかなぐり捨てて駆け出す。
まだ戦いが続いている状況で総大将が必死になって逃げだすことがどんな影響を与えるか、に考えを巡らす余裕は秒にも満たぬ間に消え去った。指揮官が先頭切って無様に逃げ回る様は、軍という集団に極めて大きな悪影響を与えることなど思い至らず、仮に思い至ったとしても無視する。
部下たちは浮足立ち、継戦意欲を失い、逃走なり降伏なり、要するに完全に瓦解するだろうが、ゴブリンロードには思惑があった。
すなわち、自分さえ無事ならどうにでもなる、だ。
ゴブリンロードには未練はない。森南部に覇権を打ち立て、遂にはトロウルをも平らげる。巨大な野望を抱いていた彼は、そんなものよりも自分自身をこそ優先させる。
『お、王さま゛……っ』
『ええい、離さんか!』
縋りついてくるベートを蹴り飛ばす。ベートの呻き声が耳に届くより早く、ゴブリンロードは広間を飛び出した。こんなところにはもう一秒だっていたくない。ゴブリンロードをここまで生き延びさせた最大の武器に、遺憾なく働いてもらう。
『クソがぁっ』
ゴブリン種の逃げ足は総じて速い。もちろん速力に優れた他の魔物に比べれば劣るが、一般に雑魚とされる魔物の中ではかなり速い部類に入る。
中でもゴブリンロードは群を抜いていた。かつて属していた群れが他の魔物との競争に負けたときも、自分が作った群れが冒険者たちに潰されたときも、群れの仲間たちを見捨て、置き去りにして、囮にして、自分だけは生き延びてきたのだ。
今回だって同じ。群れは崩壊する。部下たちを失う。
その代わりに生き延びる。
『王よ、どちらへ!?』『に、逃げるんですか!』『俺たちは!?』『どうして!』
『やかましいっ! どけぇっ!』
部下たちを突き飛ばし、殴りつけ、ゴブリンロードは己だけで走る。山砦の段差のきつい階段け下り、
『こんなところで! こんなところで死んでたまかぺ!?』
二階に降りると同時、今度は自分が、前後に斬り分けられた。装飾の施された剣も、年季の入ったハードレザーアーマーも、魔力の込められた腕輪も、綺麗に二つに分かれ、血や臓物と一緒に床に散らばった。
「これがゴブリンロードってやつかしら?」
余程に退屈なのだろう、ルージュの声には欠伸が混じっている。薄っぺらくなって床に屍を晒す山砦のかつての主には、心底から興味を持っていない。
「……どうでしょう。雑魚は雑魚です」
斬って捨てたアーニャも似たようなものだ。
森の覇権がどうの戦争がどうのと騒いでいるのが馬鹿らしくなる、圧倒的な力の差がある。
このことを如実に物語るのが、床を埋め尽くすかのような魔物の死体である。逃げ出したのか抵抗したのか降伏したのか、確かなのは、息をしている個体が一つもないことだ。
「冒険者って魔物の骨とか皮を剥いで、素材ってことで売ってお金にしてたわね。こいつらの素材はどうなの? ゴブリンロードはまだレアな部類の魔物なんでしょ?」
「……私は冒険者じゃないからわかりません。まあ、竜に比べれば珍しいものではありませんし、いくらレアでも所詮はゴブリンです。そう大した価値はないと思いますけど」
実際は中の上といったところのランクだ。一年は無理でも半年くらいなら十分に生活できる、というのがゴブリンロードの素材価値である。上級冒険者ならまだしも、中級以下の冒険者なら喉から手が出るほど欲しがるものだ。
権力と富を兼ね備えるアウグスト家の人間には、価値がわからないようである。
「……なんなら剥ぎますか?」
「剥いでくれるの?」
「……自分でして下さい」
「いやよ。そこまでして欲しくないわ。むしろ素材よりもここの魔物たちの始末のほうね。ソウベエってのが近付いてきてるんでしょ? そいつに任せたらいいじゃない。騎士候補としての力も見れるし、一石二鳥よ」
「……私がさっさと終わらせたいのです」
たくさん斬りたい、というのが本音だとルージュは考えていた。
「それで? この汚い砦にはあとどれくらいの魔物が残ってるのよ? 斬っても斬ってもきりがないじゃない」
「……ルージュも少しは自分で感知をしてはどうですか」
「あたしの感知なんか、あんたと比べたら無能もいいとこよ」
「……もぉ。いいですけど……感知する限りでは、まだかなりの数が残っていますね。どれもこれも逃げ出していますけど」
「まさか全部斬るなんて言わないでしょうね?」
「……」
ルージュの問いかけに黙り込むアーニャ。
「ちょっと」
「……だって、やっぱり斬っておきたいじゃないですか」
「仮にも『五剣』が連続殺人犯みたいなセリフはやめてちょうだい」
「……三軍王と交流している教皇よりマシだと思いますけど」
どっちもどっちである。姉妹で言い合いをしている間にも、アーニャの剣閃が縦横に走り、魔物たちを片っ端から斬り倒していく。
「……ですが、そうですね。距離的にソウベエも到着する頃ですし、そろそろ終わらせておいてもいいでしょう。ルージュ、もう少し私の傍に」
「はーい」
このときのアーニャの頭の中には、魔物たちをまとめて斬り裂くという考え以外もあった。
もし自分が山砦を真っ二つにして見せたら、ソウベエは果たして驚くだろうか。骨の顔が驚いたときにはどんな風になるのだろうか。
そんな年相応ともいうべき、悪戯を楽しむような考えも芽生えたのである。
幼く秀麗な顔に浮かぶのは、素晴らしく魅力的な笑顔だ。やろうとしていることには可愛らしさの欠片もないのだが。
「……少し、強くいきます」
「本当に少しなんでしょうね?」
こと剣術において、妹の言動が一般常識の遥か外側に位置していることをルージュはよく知っている。剣の理とやらいうものがあるのかどうかも知らないルージュだが、普通の斬撃は船や城や竜を斬ることなどできはしないのだから。
「……もちろんです」
心外な、とでも言わんばかり。
アーニャはルージュの僅かに細められた視線を受け止めながら、確かにこれまでよりも少しだけ強めに斬撃を放つ。
ルージュの真眼は確かに捉えていた。
アーニャの斬撃が山砦を、それこそ熱したナイフでバターでも切ったかのように、易々と斬り裂いたのを。




