第四章:二十六話 森の騒乱 ~その九~
ブルーシートがこんな間近に。
天気予報に耳を傾ける時間が増えました。
森の中を全速力で移動する影があった。一応、断っておくと、端から見る分にはまったくもって全速には見えない。全力移動の分野における新境地を開拓したのかと勘違いしかねないほど、影の移動速度は遅い。
ギシギシギシ。ガタガタガタ。ミシミシミシ。
漫画ならこんな擬音が表現として描写されるだろう。
『もっと早く走れないんですか、宗兵衛さん?』
「これが、今の全力疾走です」
《疾走?》
小児が三輪車を漕ぐ方が早いくらいだ。本人にとっての全速で移動している宗兵衛は、恨み言をブツブツと並べている。
杖に縋るようにして歩く足取りは怪しく、中等度から重度のフラツキが見られ、木の根に何度も引っ掻かっては転倒しそうになり、目の前の枝を払おうとするだけでバランスを崩す。
介護施設にでもいようものなら「勝手に立ったら危ないでしょ」と注意されて車椅子に座らされそうだ。
当人にとってもかなり予想外の体たらくで、宗兵衛は森の中を移動していた。全身の骨体はひび割れていたり、あるいは欠けていたりで、無事な部位を見つけることはできない。
原因は宗兵衛の魔力を用いての一騎の『進化』であることは言うまでもない。
頭蓋骨だけになっていない分だけマシだろう。大地から魔力を吸い上げることができるのだから大丈夫だろう。宗兵衛も最初はそう思っていた。
甘い目論みだったと言わざるを得ない。
ここまで消耗した場合、如何な不死の魔法使いであろうと、回復には時間を要する。大地からの魔力吸収にしても、それこそ穴に埋められた死体のように地面に埋まっていなければ急速回復――急速であっても、丸一日以上を要するというのがリディルの見解だ――はできない。
そんな悠長なことだと、ゴブリンロードを取り逃がしてしまうではないか。
せっかく常盤平一騎が正体不明の転生者を倒したというのに、ボスを取り逃がしたとあっては画竜点睛を欠く。
『宗兵衛さんの見通しの甘さが理由ですよねー?』
《ラビニアに同意します》
「効果的な反論を思いつかない人生経験の浅さが恨めしい」
『反論できると思ってるんですかー?』
《余地はありません》
ラビニアとリディル、二人からぴしゃりと言われては、宗兵衛も黙り込むしかない。
元々、宗兵衛は敵陣営に転生者がいる可能性は低いと見ていた。敵の大将がゴブリンロードでしかないからだ。
ゴブリンロードがゴブリン種の中では統率力に優れているとはいえ、戦闘面において考えると、ここまで生き残っている転生者よりも強力であるとは思えない。魔族への反発が根底あるだろうことも踏まえると、ゴブリンロードの下につく転生者がいるとは思えなかったのだ。
群れの中に転生者がいる場合でも、自分たちにようにボスになっているものと予想した。「ゴブリンロード率いる群れ」と聞いたとき、知らず、宗兵衛の心には油断が生まれたのである。
「いつから油断できるほど偉くなったのですかねぇ」
足取りの怪しい高齢者のような速度で森を歩きながら、宗兵衛は自身に呆れていた。転生者出現の報に、慌ててゴブ吉たちに鎧を与えて救援に向かわせたのも、窮余の一手に過ぎない。
『一騎さんのことをバカにできませんねー』
「面目次第もありません」
高が高校生に、どんな面目があるのやら。
だが作戦の大きな流れには変更はない。数で劣るこちらとしては、奇襲や暗殺で決着をつける。最大戦力と目される転生者を倒した今こそが好機。
間違いなくゴブリンロードの側は混乱の只中にいるであろうし、群れの統率は著しく乱れているはず。この隙に、ゴブリンロードを討つ。
作戦としては決して間違っていない。少数が多数を打倒する場合の、手本にもなりうる。
立ちはだかる最大の問題は、宗兵衛の消耗が予想以上だったことか。巨大骨矢の連発は、宗兵衛にも楽なものではなかった。
一騎らは「大地から魔力を吸い上げているから」と簡単に言ってくれたが、あれだけの規模の破壊を行う攻撃は、宗兵衛の見通しを嘲笑うかのように消耗を強いた。
作戦を立てたときに考えていた魔力消費量よりも、桁が一つは大きい。公共事業における役所の見通し並みに甘かった。
そこに常盤平一騎の『進化』である。
宗兵衛は意識を失うのではないかと思うくらいに魔力を失ったのだ。こうして辛うじてとは言え、骨体を維持できているのはありがたい。
暗殺はハーピーを使って上空からの狙撃が望ましいのだが、一騎側は決定的に人員不足であり、貴重な飛行戦力は戦域の情報収集だけで手いっぱい。一騎やエストといった主戦力は最前線。敵陣深くまで潜り込んで、敵首魁を討ち取れるのは宗兵衛ぐらいしかいないのである。
「こんなことなら偵察の時点で暗殺許可を出しておくべきでした」
ハーピーを山砦の偵察に出したときのことの話だ。早期に暗殺を決断していたら、今日のこの苦労はなかったに違いない。後悔先に立たず。宗兵衛は戦闘で被害を受けたわけでもないのに、ボロボロになった体を引きずって歩く。
『わたくしが運んでもいいですけどー?』
《拒否を推奨。運ぶ、ではなく、風で吹き飛ばす、になります》
「今の僕だと風が当たった衝撃でもバラバラになりそうでぁっっ」
石に躓いて、幹に衝突する宗兵衛。ぶつかった衝撃で、左肩の鎖骨が乾いた音を立てて折れた。なんて脆い骨だ。この状態で敵の本拠地である山砦に侵入し、ゴブリンロードを殺す。無茶ではなかろうか、と宗兵衛は今更ながらに思う。
《主》
注意を促すリディルの声。
「どうしました?」
《山砦にある魔力反応が凄まじい速度で減少しています》
「え?」
『逃げ出してる気配も感じますよ。ゴブリンロードを見限ったとかですかねー』
嫌な予感を覚えつつ、宗兵衛は今の最高速度で移動を続ける。
なにより恐ろしいのは、離れた位置で消失する魔力反応をすら捉えることのできるリディルが、消失する原因――恐らくは加害者――の反応を察知できないことだ。
辿り着いた先、宗兵衛が見たものは、地面を埋め尽くすほどに夥しい数の死体だった。
「こ、れは……」
言葉を失う宗兵衛。ラビニアは感嘆の息を吐き出す。
尋常ならざる事態が起きたことは確実。ならばどうする? この場に留まるか、なにを置いてもこの場を離れるか。結論を出す前に、恐ろしいほど静かに、事態が動く。
山砦に細い光が斜めに輝き、巨大な建造物がゆっくりと崩れ始めたのだ。
少し時間は遡る。
幾筋もの閃光が走る。
これが雷ならあるいは、高位の魔物には回避が可能な種族がいてもおかしくない。事実、上位悪魔や竜種の中には雷光よりも早く移動できる個体がある。
だが雷よりも早いとなればどうだろうか。回避はおろか視認すら困難を極める速度。
そんなものを前にして、ましてや「決して逃がさない」なんて意思を乗せているような閃光である以上、魔物たちに生き延びる目など皆無に等しい。
古びた山砦の中を悠然とすらある足取りで人影が二つ、歩く。
一方が先頭を、他方が後ろをついて歩いている。いずれも体躯は小柄で、灯りの乏しい山砦内の通路ではゴブリンに間違うかもしれない。
だが人影がゴブリンなどであるはずがない。
先頭を歩く影はまさに殺戮の権化。
振るわれる暴力はあまりにも圧倒的で、ゴブリンはおろか巨人に例えて尚、足りないほど。山砦にいる魔物の数はどれだけか。正確な数はわからず、また人影の側も興味を持っていない。
確かなのは、山砦の内部も外も、夥しい数の魔物が死体となって転がっていることだ。
「相っ変わらず、容赦ないわね、あんた」
後ろを歩く影の声からは、見事なまでに緊張感が欠如している。あるのは、ピクニックにでも出かけているような、ビスケットを口にしながら中庭を歩いているような、場にそぐわない気軽さ。
両目に真眼を宿す少女、教皇ルージュはやや呆れ気味だ。
「……少し、イラついていますから」
言いながら、剣を振るう腕の動きが止まる。
いや、止まっているように見えるだけだ。その実、視認も知覚も許さぬ速度で、依然として猛威を振るっている。
教会最高戦力の一、『剣鬼』アーニャの持つ真っ白い刀は、明らかに刀の間合いの外にいる魔物も逃がさない。目にも見えぬ速度で斬撃を飛ばし、片っ端から魔物たちを斬って捨てる。
単独で戦場の趨勢を決める、教会が誇る武力の極み。ひとたび『五剣』が降り立てば、そこに敗北の二字は存在しえず、ただただ敵対者でもって屍山血河を成すのみ。
間違っても、冗談でも、ゴブリン退治などに投入される戦力ではない。
「あら、文句を言われる筋合いはないわよ? その刀に自分の魔力や戦い方を覚えさせたいから、どんなものでも斬ってくる、て言ったのはあんたじゃない」
「……それは、そうですけど」
手応えがなさ過ぎて退屈です、とアーニャは続ける。アーニャの声は淡々としたものだが、『五剣』が手応えを感じるような敵が出てきたら、教会上層部の顔は引きつってしまうこと疑いない。
教会軍部の人間なら、兵力を掻き集めてでも早急に叩き潰すべきだ、とヒステリックに騒ぎ立てるだろう。
国家の危機、あるいは世界の危機。『五剣』が手応えを感じるとなると、それほどに強大な敵なのだと受け止められてしまう。『剣帝』ダスティンと陸王カヴェリエの四度に亘る死闘では、舞台となった山岳地帯がきれいな更地になってしまったほどだ。弁えている二人ですらこうなるのだから、下手をするとより大規模な地図の書き換えが必要な事態になる。
「勇者……もあまり期待できそうにないわね」
「……ええ」
魔の森に入るに先立って、アーニャはいくつもの戦いを経験している。
戦いと表現してはいても、実際は一方的な蹂躙でしかない。複数の盗賊団や魔物の群れを、息も乱さずに片付けているのだ。
宗兵衛にもらった骨刀に戦い方を覚えさせるため、誰でもなんでもどこでも斬ってくると鼻息荒く宣言したアーニャは、ルージュから大量の仕事――すべて討伐系だ――を引き受けていた。
その中の一つに、新種と思しき強力な魔物の討伐があった。
詳しい経緯には興味がなかったアーニャは足取りも軽く出発し、出会う。人語を解し、こちらに怒りと憎しみを向けて来る魔物に。
真っ黒な巨大狼のような魔物は叫ぶ。どうしてこんな目に遭うんだ。お前らも同じ目に遭わせてやる。何度も何度も、悲痛な声で叫ぶ。言動から相手が魔族の勇者だと判断したアーニャは、相手の事情など斟酌することなく斬って捨てる。
抱いた感情は、憐憫や同情ではなかった。
只々失望だ。
魔王ペリアルドと渡り合ったソウベエとイッキを想定していたので、ここまで簡単に決着がつくとは思ってもいなかったのである。
もう一つが人間側の勇者だ。
道を踏み外すものはどこの世界にいもいる。人間側の勇者の中にも、力に溺れ、驕り、人の形をした災いに成り下がったものがいた。
逮捕される前に逃走したその勇者は、追っ手として放たれた兵たちを殺し、逃げた先の村で盗みと強姦と殺人を犯す。他の勇者たちの追撃をも躱し、困り果てたレメディオス王国が、クルト枢機卿を通じて頼み込んできたのだ。
十把一絡げの魔物たちを斬るよりも有意義だろう、とアーニャが引き受け、一太刀のもと、左右に斬り分けた。
仮にも宝装を持つ勇者がこの程度なのか、とアーニャは失望し、勇者の――アーニャは勇者の固有名詞など覚えていない――宝装を苛立ち紛れに真っ二つにしたのだった。
「……魔族の勇者といい、この群れといい、正直、酷く落胆です」
「あのね。なら、あたしが片付けようか?」
「……ダメです」
姉の提案を、妹は冷たく拒絶した。骨刀のために砦中の魔物はすべて自分で斬る、との考えとは別に、決してアーニャは意地悪で拒絶したわけではない。
教皇ルージュを直接、戦いに参加させるなど、少なくとも教会上層部は一切、想定していない事態である。もちろん、『五剣』であるアーニャも同様だ。
「……そもそも、どうしてついてくるのですか? 教皇聖下には仕事がいくつもあるでしょう」
「聖騎士候補をこの目で確かめる、ていうのも立派な仕事の一つよ。頼むから聖騎士を着けてくれって枢機卿たちがうるさいんだもの」
聖騎士。常に教皇の近くに寄り添い、あらゆる危難から教皇を守り、支える存在。
現教皇ルージュ・アウグストは一人も持っておらず、故に政争の材料にもされていた。
日夜、権力争いを繰り広げている有力者たちは、自分の息子や孫を次々と聖騎士としてどうかと送り込んでくるのである。狙いはもちろん、人界において絶大な権力を持つルージュとの婚姻だ。
「最悪、あんたを指名するけど」
「……最悪の場合は仕方ないですね…………おや?」
不意に、アーニャが顔を上げ、次いで小首を傾げる。
「どうしたのよ?」
「……ソウベエが近付いてきているようなのですが」
「ソウベエって、あたしの騎士候補の? アンデッドだっけ?」
聖騎士候補のアンデッド。違和感しかない言霊を気にするのは止めて、ルージュは妹の言葉を待つ。
「……随分と、弱っている?」
「あたしに聞かないでくれるかしら」




