第四章:十三話 いざ
目の覚めたマルチナは、視界から飛び込んでくる情報に軽い混乱をきたしていた。冒険者として生活する以上、朝、覚醒したときの天井が自分の知らないものであることは日常茶飯事だ。今回も見知らぬ天井であることまでは同じ。
けれど決定的に違ったのは、マルチナ自身に抱く認識のせいだった。
なにが起きた?
どうしてここにいる?
大きく分けてこの二つの疑問が、まだ覚醒不良気味のマルチナの脳に満ちる。意識がはっきりしたのは、何気なく動かした、否、動かそうとした右腕に感覚がなかったことと、次いで全身に襲いかかってきた強弱鋭鈍様々な痛みのためだ。
「――――っぐ、ペ……イ、ジ……」
痛みが発した電気信号がマルチナの脳細胞と口を刺激する。思わず漏れた言葉には、覆しようのない後悔が滲んでいた。
油断、していたのだろうか。浮かび上がった思いをマルチナは否定する。依頼を引き受けた際、提示された情報から考えられるリスクには対処できるだけの警戒を続けていた。積み上げてきた実戦経験を考えると、依頼で出現する魔物のどれにも後れなど取るはずがなかった。
唯一、そして最大の誤算だったのが、敵の数だ。こちらがどれだけ倒しても、すぐに倍する数が襲いかかってくる。剣の切れ味は落ち、四肢は痛み、魔力は尽き、弓は折れた。
避けようのない、どうしようもない結末が目の前に迫り、マルチナたちは飲み込まれる。
最後にペイジが、マルチナと魔物たちの間に立ちふさがったところまでは覚えていた。必死の形相のペイジが逃げろと叫ぶところも、ペイジの手がマルチナを思い切り突き飛ばしたところも、覚えていた。
マルチナの記憶に克明さが残っているのはここまでだ。以後の記憶は混濁して明瞭な形を成していない。襲い来る魔物の群れが真っ黒な津波となって押し寄せてくる。津波には異形の手が無数に生えていて、捕まった仲間たちは飲み込まれ、引き千切られ、瞬く間に消え去った。
最後に見たのはなんだったのか。人の原形を失うほどバラバラにされたペイジの肉片、上顎と下顎を力任せに裂かれるザック、泣き叫びながら頭から食われたメーガン。
はっきりと見たわけではない。だがそんな悲惨な情景が脳内で結実されるくらい、絶望的な現実だった。凄惨な現実に思わず両目を固く閉じ、奥歯にすべての恐怖を持っていき、せり上がってくる嘔気にこらえ、全身を細かく振るわせる。
このときになってようやく、マルチナは己の体の違和感に気付いた。恐怖に震える体を抱きしめようとしたのに、腕が動かないのだ。
腕だけではない。体を起こそうとしてもできず、足も動かず、声を出すことにも多大な労力を強いられる。筋肉が固まっているのか、痛みに耐えながら首を動かすと、視界には残酷な現実が飛び込んできた。
マルチナの全身には包帯が巻かれている。形はどうあれ、あの戦闘から生き延びたことを踏まえると、包帯の面積が全身の八割を超えても仕方がない。
だがそれ以外、視界の半分を失っていることから顔の左側が包帯に撒かれているとわかる。思わず顔に触れようと左手を上げると、左手の肘から先が失われていた。
武道家として短くない時間を共にしてきた左腕の喪失は、マルチナに精神的衝撃を与え、精神の痛みは肉体の痛みを飲み込んだ。同時に、仲間たちの喪失が左腕のダメージを遥かに上回って押し寄せてきた。
「ぁ、ぁあ、ぁぁぁあああ……っ!」
恐慌が、ほんの少し前までは確かにあった温もりと繋がりを失った事実、そして、現実のもたらした衝撃がマルチナの精神に恐慌を引き起こそうとするまさに寸前、
「あー、気付いたのね?」
「!」
かけられた声にマルチナは顔を上げる。そこにいたのは一人の女性。
一瞬、この世のものとは思えない、なんて古臭い表現を連想してしまうほどの美少女、エストだ。
マルチナは気付かなかったが、エストがかけた声は単なる声ではない。魔力を乗せた、相手の精神へと働きかける効果を持っている。本来は、威圧や恐怖を与えるための技術を、落ち着かせるために用いたのだ。
人型の大精霊であるエストが、わざわざ人間の冒険者程度を看病するなど、ありえないことであり、つまりこれは一騎の采配だ。
まあ、采配というほど大したものではないのだが、マルチナを重症に追い込み、マルチナの仲間を奪ったゴブリンたちと同種である自分が対応するよりはいいだろうとの判断だった。
消去法の結果でもある。
スケルトンの宗兵衛が対応しても、傷ついた人間を落ち着かせることができるとは誰も思わない。むしろパニックを引き起こしかねない。
ラビニアは宗兵衛の頭の上から動かず、クレアは年齢的に話し相手には不向き。白取くるみは集落に常にいるわけではなく、嫉妬仮面が女性の相手を行うのは論外。
「あん、た……は?」
「エスト。わたしの仲間が森で魔物たちに襲われている貴女を助けたんだけど、覚えてる?」
大きく歪んだ表情が質問への返答だ。
マルチナの包帯だらけの全身は、後悔、怒り、恐怖、悲しみなどの複数の感情が混ざり合って震える。空気に触れている右の瞳からは大粒の涙が溢れていた。
エストはマルチナの肩に軽く手を置く。
他人の手を振り払うだけの気力もないのか、マルチナはエストの手を受け入れ、エストはゆっくりとした動作で、マルチナを抱きしめた。
途端、マルチナの感情という感情が決壊する。なんとかコントロールしていた。溢れ出すタイミングがここしかなかったのだ。
エストがマルチナから話を聞くことができたのは、実に七時間後のことだった。
「士気の高さにムラがあるようだな。いや、それ以前の問題もあるけどさ」
一騎の指摘にエストは首肯で返す。
マルチナたちを襲撃したのはゴブリンを中心とした魔物の集団だが、ゴブリン以外の魔物も多数が確認された。いずれも攻撃に参加こそすれ、ゴブリン種ほどには積極性がなかったという。
これは一騎たちも感じていたことだ。マンドラゴラやハーピーを使って敵の切り崩しを試みたところ、これが予想外の成果を上げていたからである。
食人花のような植物系の魔物、ウルフのような獣型の魔物のみならず、ゴブリン種の中からすらも、一騎たちの揺さぶりに応じて離反するものがいるのだ。
ゴブリンロードというのは、ゴブリン種の中では統率力があるはずだが、なかなかどうして組織運営に難があるらしい。
ハーピーの空からの目視、マンドラゴラからゴブリンロードの支配地域の魔物の生息状況や、偵察や支配地域内の巡回頻度などを確認する。離反した魔物たちは、むしろ嬉々として内部情報を流してくれるのだからありがたい限りだ。
水を求めてくることから、もっとも多くの戦いをこなすことになったギルマンからの情報で、敵の戦術の癖を読んでいく。
わかったことは当然というべきか、あまり頭を使っていないという残念な事実だ。
一万にもなる戦力を抱えながら、組織だった運用ができていない。ギルマンから水場を奪おうとしているのは確かだが、戦力の逐次投入を繰り返して徒に消耗を招いている。
それでも尚、現状は不利なままだ。
保有する戦力に大きな差があるのだから、ゴブリンロードが全戦力を率いて出てくるような事態になれば一飲みにされてしまう。
このまま持久戦を展開する場合、相手にも多少の出血を強いることができようが、こちらは出血どころでは済まない。
逃げる、という選択肢はない。
教会を中心とした住環境も少しずつ整ってきたところだ。外部との商取引にもこぎつけることができた。まだまだ勢力は小さいものの、自分たちに付き従うことを選んだ部下たちもいる。すべてをかなぐり捨てて逃げ出すなど、人間時代に根性なしと罵られた一騎とて、とてもできようはずもない。
そもそも、エストの好意からようやく手に入れることができた居場所を放って、どこに行けるというのか。
「向こうの数的有利は、僕がスケルトンを大量召喚すればなんとか出来るでしょう。ですが、決戦を決断されると困るのは事実ですね」
「困るどころの話じゃねえからな? 木っ端微塵に粉砕されちまうからな?」
ゴブリンロードが決断する前に、決断する隙を与えないように迅速に、完全に勝利する。
結構な無茶振りだと思いつつ、一騎は腹を決めた。決めるしかないとも言う。
今までのように一騎や宗兵衛だけで戦うのではない、これは戦争だ。
政府は弱腰だ、国防軍の創設を、周辺国に舐められない力を持つべきだ、などのネット上の勇ましい意見に、全面賛成とまではいかないまでも、好意的な受け止めをしていたのだが、いざ自身が戦争に直面するとなると、どうしても躊躇してしまう。
一騎自らが矢面に放り込まれるだけならば、まだいい。異世界転生からこっち、何度も経験して、そんなつもりはまったくないのに慣れてしまっている。
部下たちを巻き込むことが逡巡の原因だ。
日本にいたときには――仮に出したとしても、誰も従ってくれなかっただろうことが想像に難くないことはさておいて――誰かに指示や命令を出した経験はない。ゴブリンになって以後も、変化がないのが事実だ。
赤木や菫の戦いの際は、道案内止まり。
砦での戦いのときは一騎の意識はなかった。
エストを失うかもしれない恐怖を味わった。
クレアを一度は失った。
ゴブ吉たち部下を復活させることは今もってできていない。
勢力において自分たちを大きく凌ぐ相手との戦いだ。生じる被害、犠牲はより大きなものとなるだろう。
逃げ出しても未来の展望は描けない。降伏は論外。立ち向かうしか方法がなく、しかも一騎たちだけでは手が回らないときてる。
異世界転生してすぐに軍師無双の夢が破れた一騎だ。戦術家としての自分に欠片の期待もしていないが、だからといって悩んでいる時間も立ち止まっている時間も与えてくれないのが現実というものであり、一騎はどうにかして作戦を捻り出す必要がある。
ややあって閃いたものは、独創性のあるものではなく、世界史から抜き取ったものだった。




