胡蝶蘭の。
※長編「泡草日記店来客簿 http://ncode.syosetu.com/n4697dj/ 」の登場人物が出てきますが、この作品だけでも楽しめるよう、細かな部分の設定を短編用に改変してあります。
ただいま、と誰もいない部屋に帰宅を告げ、彩芽はクラッチバッグとカメラを二人掛けのソファの脇に置いてワンピース姿のままそこに倒れ込んだ。着替えなければ皺になる、それに化粧も落としていない。身を起こそうとしたが、結局羽織っていたボレロを床に投げ捨てるだけに終わり、元の姿勢に戻ってしまう。
普段はスニーカーなど底が平たい靴を好んで履いているが、今日は慣れないヒールに足を拘束されて窮屈だった。靴擦れが出来そうな部分にはあらかじめ絆創膏を貼っておけばいい、と助言してくれた同行者には感謝しなければいけない。今晩は湯船に浸かりながら入念にマッサージをしよう、と足の指先を動かした。
首元を彩る真珠のネックレスを外す事さえ億劫で、次に立ち上がったのは窓の外が青色から橙色へと変わり始めた頃だった。彩芽は凝り固まった首をぐるりと回し、大きく伸びをしながらベランダに出る。雨が降るかも、と心配していたが、どうやら昼間は快晴だったようだ。朝方に干しておいた二人分の洗濯物はからりと乾いていた。
すぐ近くを流れる川は太陽の光を反射して輝き、川辺では黄色い花が風に揺られている。何気ない光景に心を落ち着かせていると、ふとくぐもった音が聞こえた。どうやらクラッチバッグに入れたままになっている携帯が発信源らしい。音の短さから考えてメールか。洗濯物を取り込むのは動きやすい格好に着替えてからにしよう、と早速携帯を取り出してみた。
『もう家に着いたかな?』差出人はこの部屋の主だった。『母が沙羅の好物を作りすぎて余ったと言っているから、それを今日の夕飯のおかずにしようと思う』
今日は共に結婚式へと出向いていたのだが、一旦実家に戻ってから帰るから、と言っていた。恐らく、向こうも今しがた実家に着いたのだろう。
『隼馬と沙羅が、お土産を楽しみにしていてって言っていたよ。詳しいことはまた後で』
沙羅、というのは部屋の主の妹で、今日の結婚式の花嫁だ。彼女と共に明日から新婚旅行を満喫する予定の新郎は隼馬といい、こちらは部屋の主の同級生に当たる。
『それから、帰り際に渡したやつ。面倒くさいからって見ないまま捨てる、なんてことはしないでね。今日の夕飯担当はぼくだけど、もしお腹が空いて我慢が出来なければ、冷凍のオムライスがあるから、それを食べて』
「大丈夫だよ、ちょっとくらいは我慢できるし」気が付けば独り言を呟いていた。それをそのまま返信画面に打ち込んで送信すると、彩芽はバッグの中から白い封筒を取り出した。「沙羅さんからの手紙とか、かなあ」
式場を出る際、「これ、家に帰ったら読んで」と彼に渡されたものだ。深く聞かずに受け取ってしまったが、軽さからして入っているのは便箋が一、二枚と考えていいだろう。開けてみようと思ったが、それよりも着替えが先だ。
「……いや違うな、先に化粧落とさないと」
ネックレスを外しながら自室を覗くと、六畳ほどの広さのそこに強い西日が差し込んでいた。壁際のベッドには脱ぎっぱなしの半袖と短パンが乗っかり、その隣の机には化粧ポーチとヘアバンド、化粧鏡が置きっぱなしになっていた。我ながら大雑把、というよりもズボラ。よく彼は愛想を尽かさないものだと思う。
椅子に腰を下ろして、化粧ポーチのそばに置いておいたクレンジングシートで化粧を落としていく。今日は色々写真撮ったな、と思い返しているうち、結婚式での一幕が脳裏を過ぎった。
花嫁が手にしたブーケを受け取ろうと、そばに集まっていく女性たち。それを遠巻きに眺める自分と、「行かなくていいの?」と問いかけてくれた彼――この部屋の主。
ブーケトスとは花嫁の周囲に未婚女性が集まり、宙へ放られたブーケを手にした者は近々結婚できるという噂の、結婚披露宴では定番の催しだ。漫画やドラマで何度か目にして漠然とした憧れを抱いたことはあったが、いざ「やりましょう」という時になった途端、急に物怖じしてしまったのだ。多分、集まっていた女性たちの気迫に。
結婚かあ、と声にならない呟きが漏れる。沙羅と隼馬は十三年という交際期間を経て、彼女が三十歳になる前に式を挙げた。いつかは自分と彼もそうなるのだろうか。
彼と出会った時、彩芽はまだ大学一年生だった。初めは店員と客、次は店主と店員として接し、大人な彼に惹かれていると自覚したのは進級したころだ。しどろもどろになりながら告白した時の記憶は、正直に言ってあまりない。それほど緊張していたのだ。
彼が父から引き継いだ着物販売およびレンタル店は店舗併用住宅になっており、彩芽の大学卒業をきっかけに、住宅部分である二階で同棲が始まった。気が付けばそれから一年の歳月が流れている。
メイクを綺麗さっぱり落とし、ワンピースとストッキングを脱いで動きやすい服に着替える。時計を見ると夜の七時近くを示していたが、まだまだ外は明るい。空を行き交うコウモリを時々目で追いながら、手早く洗濯物を取り込んだ。
電気を付けてカーテンを閉め、さて、と彩芽は再びソファに腰を下ろし、今度こそ封筒を開いた。ご丁寧に糊付けされていたが、光に透かしながら中身が破れてしまわないように慎重に指でびりびりと破いていく。そのままひっくり返すと、ふわりと甘い花の香りと共に、二つ折りにされた便箋が二枚、ローテーブルに舞い落ちた。
どちらも何の変哲もない、真っ白な便箋だ。ひょいと拾い上げて片方を開き、思わず「なんだこれ」と首を傾げる。
どこからどう見ても、平仮名の五十音表だ。「あ」から始まり「ん」で終わる、小学生の頃以来まともに見ることも無かった表。それが真っ白な紙に、見覚えのある彼の字で綺麗に書かれている。
彼の意図を理解できないまま、もう一枚の紙を開く。こちらの筆跡も彼のものだ。先ほどとは違って文章がつらつらと綴られている。彩芽は「花の名を冠するあなたへ」から始まるそれを目で追った。
「花の名を冠するあなたへ。
思いやりと心遣いに溢れたあなたに、
素朴だけれど華やかな恋をした。
豊富な愛情は、
未来への期待を抱かせてくれる。
そんなあなただけに秘密を教えよう。
はじまりは全てを語る」
「……なんだろう、これ」彼から受け取った便箋への第一印象はそれだ。五十音表のことは一旦忘れて二枚目を再び読み返し、ぽ、と頬が熱くなる。「飛鳥さん、こんなこと想ってくれてたの」
彼の姿を想像し、頬どころか耳まで熱くなった。
素朴だけれど華やかな恋――彩芽が彼に恋をしたように、彼も彩芽に恋をしてくれたのだろう。短い文章ではあるが、初めて知った彼の想いに胸のうちが熱くなる。
「秘密を教えよう、か」頬の熱さを誤魔化す様に手で扇ぎ、大きくのけ反りながら文章の一部を声に出してみる。「何のことだろう」
単純に考えれば、この中に秘密が隠れているということだろう。しかしどこか特定の場所が書かれているわけでもないし、いまいち分からない。
最後の一文といい、どことなく暗号めいてるな――何気なく呟いた自分の一言にハッとした。
もしかして、本当に暗号だったりすんじゃ、と。
いつのことだったか、暗号を主題にした映画が公開された。彼はそれを高く評価し、何度も劇場に足を運び、彩芽にもその面白さを語ってくれた。もしや、その映画に影響されてこれを書いたのか。
わざわざ渡してきたのだから解けということなのだろう。彩芽は自室からシャープペン一本と小さなメモ帳を持ち出し、さて、と便箋に目を落とした。
「……ヒントは、これかな」声に出して進めた方が脳内での整理がつきやすい。傍から見れば怪しいが、ここには自分しかいないし、人目を気にする必要もない。唸りながら彩芽が真っ先にメモ帳に書きだしたのは、最後の一文だった。「はじまりは、全てを語る……」
はじまりが意味することとは何だろう。ここに書かれた文のはじめ、ということならば「花の名を冠するあなたへ」か。これは間違いなく彩芽のことだろう。
彩芽の名はとある花からとられている。名づけの際に姓名判断の画数の問題で今の文字に落ち着いたと両親から聞いた。確かその花を選んだ理由は――
「でも、何か関係があるとは思えないし」
必要のないことを考えそうになり、何度か頭を振る。くしゃ、と前髪をかき上げ、大きく息を吐き出した。
はじまり、はじまり。ペン先でメモ帳を小刻みに叩きながらうわ言のように繰り返す。やがて辿り着いたのは、
「一文字目を抜き取っていく、とか」
はじまりが意味しているのは最初の一文ではなく、各行の一文字目ではないか。そう仮定し、メモ帳に書きだしていく。
が、
「……おそほみそ……?」
ますます意味が分からなくなり、「あーもう」と彩芽は頭を抱えた。
これが答えではないのか。ひょっとするとこれは暗号の定番であるアナグラムになっているのかもしれない。我ながら名案だと思ったものの、それも違ったらしい。いくら並び替えても、単語らしい単語にはならない。
「みそ……味噌……」
抜き出した言葉の一部からいくつか料理を連想し、くう、と腹が鳴る。実家で長話でもしているのか、彼はなかなか帰ってこない。言われた通りオムライスを食べてしまおうかとも思ったが、今は目の前のこれを片付けてしまいたかった。
十分、二十分と時間が過ぎていく。どれだけ考えても答えは出ない。
何気なく五十音表を見遣るが、「日本語のはじめの言葉は、あ、だよなあ。あかさたな……が関係してる、とかでもないか」とアイディアが閃くことはなかった。
さすがに考えるのが面倒くさくなり、帰宅早々と同じようにソファに倒れ込む。だが、きっと彼は意味があってこれを渡してきた。それを放り出したと知ればきっと悲しむ。
そんな彼の顔は、見たくなかった。
姿勢を整え、だらけ始めていた気分を入れ替える。いつの間にかだいぶ長い間考え込んでいたらしく、時計の針は七時三十分を示していた。
彩芽は携帯を取り出し、メール画面を開いた。特に新しい連絡は入ってきていない。さすがに実家は出た頃だろうか。
「……よし」
このままでは埒が明かない。素直にヒントを求めてしまおう。彩芽は電話帳の画面から彼の電話番号を選択し、何度目かのコールのあとで『もしもし』と聞き慣れた優しい声がした。
「もしもし、飛鳥さん。今どこ?」
『ああ、ごめん。ちょっと家を出るのが遅くなっちゃって。今は駅で電車待ってるところ』
「分かった。あ、あのね、式場から帰る時に貰った手紙のことで聞きたいことがあって」
『ちゃんと読んでくれたんだ』彼の声には安堵が滲んでいるようだった。『ちょっと難しいかな、まだ解けてないんだよね』
うぐ、と言葉に詰まる。お見通しだったという訳か。
「だって難しいよ。味噌のことかなって思ったけど違うみたいだし」
『ミソ?』
「なんでもない気にしないで」なにやらとてつもなく馬鹿なことを言いかけた、というか言ってしまった気がする。「……とにかく、何かヒント欲しいなって思って」
そうだなあ、と何やら楽しそうに彼は言う。空腹のせいか、それとも彼の口ぶりのせいか多少イラつきを覚える。この怒りは彼が帰って来てからぶつけるとしよう。
「それに五十音表が入っていた意味もまだわかんないし」
『大丈夫。ちゃんと意味はあるから。けど、そうか……まだ辿り着けてないみたいだし、うん、じゃあ少しだけ』何かを思いついた時、彼には指を鳴らす癖がある。今もきっと、ぱちん、と指を滑らせていることだろう。『彩芽とぼくの名前、共通点があるって話したことがあったよね』
「共通点?」
『手がかりはぼくの部屋にも置いてあるから。はい、ヒント終わり』
それじゃあ、電車きたから。彼との電話はそこで途切れた。
共通点、と天井を仰ぐ。
彩芽の名と同じように、彼の名も同じく花からとられていると聞いたことがある。確かアスチルベだったか。何でも母親が大の植物好きらしく、実家の庭には様々な花が植えられていたことを思い出す。
しかし、他にも何か言っていた気がする。彩芽と彼の、暗号を解くうえで大事な共通点。
「……あ」
唐突に、十年以上も前に母と交わした会話を思い出す。気が付くと彩芽はベランダに飛び出し、帰宅早々に眺めていた場所を探した。川辺で風に揺られていた、広い花弁の黄色い花がある場所を。
――出産前に入院していた産婦人科から川が見えて、その近くに綺麗な黄色い花が咲いていて。花言葉を調べたら、とても素敵な意味だったからあなたの名前にしたのよ。
「……黄菖蒲」
ぽつり、と花の名を呟く。
信じる者の幸福、友情などの花言葉を持つその花を、母は大層気に入ったという。幸いというか、彩芽の苗字には「黄」の字が入っている。そこで両親はショウブの部分をアヤメに読み替え、文字も変えて娘に名付けたのだ。
いくつかある花言葉の中で、母が特に気に入っていたのは、
「幸せを掴む、だ」
室内に引き返した彩芽は、その足で真っ直ぐに彼の部屋へ向かった。性格を表すかのように整理整頓されたそこから求めるものを探し出し、リビングに戻って再び暗号と向かい合う。
彩芽は彼の部屋から持ち出してきたそれ――花言葉辞典を開き、アスチルベのページを開いた。目当てのものを見つけた瞬間、ぼんやりとしていた共通点が明確になる。
アスチルベの花言葉は「自由」。待望の第一子であり、両家の祖父母にとって初孫でもあった彼は「何かにとらわれることなく、自由に生きてほしい」と願われたそうだ。
そうだ、この話をしていた時に、「由来も名前も、ぼくたちは花から取られたんだね」と笑いあったことがある。もしかすると、と彩芽は暗号を確認しながらページをめくった。
冷静に考えれば違和感があるのだ。何故この文章は、句読点ごとに改行されているのだろう、と。句点で改行されているだけならばおかしくはないが、わざわざ読点でも同じことをしている意味が分からない。
いや、きっとこれにも理由があるはずだ。その疑問はやがて確信に変わる。
辞典には一ページごとに花の名前と写真、花言葉と簡単な説明が書かれている。破れそうな勢いで開いたページには、紅紫色の小花が密集し、まるで球体のようになっている写真が掲載されていた。
花の名は〈アルメリア〉。花言葉は心遣いや思いやり、可憐や共感などいくつかある。そのうちの二つが、暗号の一部と見事に一致していた。
「思いやりと心遣いに溢れたあなたに……これは」
ひょっとして、ひょっとしなくても。
改行されている文章と花言葉辞典を照らし合わせていけば、浮かび上がるのは花の名前ではないのか。我ながらいい線をいっている気がする。彩芽は無意識に拳を握り、「よっしゃ!」と天井に向かって突き上げていた。
考えが消えてしまわないうちに、黙々とメモ帳にペンを滑らせていく。
素朴、華やかな恋は〈シンビジウム〉。豊富な愛情は〈ノウゼンカズラ〉。未来への期待は〈シジミバナ〉。そして秘密、あなただけは〈タムラソウ〉。
ぴるる、と電話のコール音と共に携帯が振動する。「ひゃ」と上擦った情けない声を漏らした彩芽は――誰も見ていないのだから恥ずかしがる必要はないのだが――何となく取り繕うように姿勢を正した。
画面を操作し、「もしもし」と平静を装って一言目を発する。『もしもし、ぼく。ごめんね、電車が遅延してしまって』と返答してきた彼の声は、どことなく疲れているように聞こえた。
時計を見遣るとすでに八時を過ぎている。暗号に熱中しすぎて気が付かなかった。
『さっき駅に着いたところだから、あと十分もすれば着くと思う』
「オッケー」あ、そうだ、と彩芽はふふんと鼻を鳴らした。「暗号、解けたよ」
『本当?』もちろん、とうなずいて見せる。当然その様子は彼には見えていないのだが、何となく察してくれたのだろう。彼は穏やかに電話の向こうで笑った。『じゃあ、続きを聞かせてくれるかな』
「これ、文章が花言葉で形成されてるんだよね! で、花の名前が……名前、が……」
『ん、どうした?』
「えーっと」あれ、と首を傾げ、そのままがっくりとうなだれた。「……で、なんでしょうね……」
『彩芽、それは解けたって言えないかな』
デスヨネー、と自嘲気味に笑う。花言葉で文章が作られている? それがどうした。ロマンチックではあるが、最終的な答えになっているとは到底思えない。それに花言葉で組み立てられた文、ということは、ここに書いてあることは彼の本心ではないかも知れない、とまで考えてしまった。
『本心だよ』どうやら考えていたことが筒抜けになっていたらしい。『花言葉を引用してはいるけど、書いたことは間違いなくぼくの本心だ。嘘偽りない、ね』
「……本当に?」
もちろん、と彼がうなずいた気がした。
『さて、答えは近いよ。彩芽なら絶対に解けるから』
「……それじゃあ、もう少し頑張ってみる」
『うん。じゃあぼくは一階で待ってるから』
「へ?」
ぷち、と通話が切れる。
一階、つまり彼が店主を務める着物販売およびレンタル店だ。成人式用の着物も取り扱っているため、時期になると年頃の女の子たちが来店し、時には前撮りも行う。彼女たちの華やかな姿を写し取っていくのが彩芽の役割なのだが、それはまた別の話だ。
それにしても、なぜ真っ直ぐに居住スペースであるここに来ず、一階で待っているというのか。疑問が増えたが、そちらは後回しだ。まずは手元のこれを片付けねば。
冷静に考えろ、と深呼吸を繰り返す。焦るな落ち着け、じっくり考えるんだ自分。
熟考の末に、メモ帳に書き写してあった一文をペンでなぞった。
――はじまりは全てを語る。
数十分前の自分の行動を思い出す。花言葉や花の名前など考えもしていなかったとき、これを見てなんと考えていただろう。そうだ、一文字目を抜き出すのでは、と悩んでいたではないか。
試しに花言葉の一文字目を抜き出していこうとしたが、そもそもこの文章はそれで形成されているのだから意味がないと即座に気が付いた。ならば、と彩芽は書き写した花の一文字目を丸でくくり、花言葉が書かれていた順番に読み上げた。
「あ、し、の、し、た……足の下?」
ひょい、と足元に目を向ける。そこには彩芽と彼が日ごとに交代で掃除しているフローリングの床があるだけで、特に何かがあるわけでもない。
ようやく言葉らしい言葉になったと思ったのだが、これも誤りなのか。明確な答えも彼から提示されていないし、疑心暗鬼になっている。眉間に皺が寄っていそうな気がして何度も指で揉み、最初にそうしたようにアナグラムも試してみるが、やはり「足の下」が一番しっくりとくる、と思う。
足の下なのだから、足元に、つまり床に何かあるに違いない。彩芽はリビングだけでなく自室や彼の部屋、さらには浴室や物置の床などを見て回ったが、おかしなところは何もない。むしろ違和感を見つける方が困難な気さえした。
んむう、と何とも言えない唸り声が漏れる。
ヒントが欲しかったが、彼はこれ以上手がかりを教えてくれそうもない。それに、言っていたではないか。「答えは近い」と。あと少し考えればきっと辿り着くのだ。諦めるわけにはいかない。
息を吐き出し、便箋に目を落とす。と、指先が別の紙に触れた。
傍らに放置したままだった、あの五十音表だ。
「……あしのした……」
何気なく呟き、はっと目を見開く。彩芽はそれを引っ掴み、慌ててメモ帳に考え付いたことを記した。
単純なことだ。「あしのした」は答えではなく、そこへ至るための最後の問いだったというわけだ。
「あ」の下にあるのは「い」、「し」の下にあるのは「す」。二つ並べて読めば一つの単語になる。「いす」――きっと最終的な答えは椅子だ。恐らく椅子に何かがある。
書きこんだメモを破って立ち上がり、目につく限りの椅子を見て回る。が、何も見つからない。彩芽は一度息を整え、適当なサンダルを履き、階段を転げ落ちそうな勢いで下りながら一階へ向かった。
営業時間は朝の九時から夜の七時まで。それ以外の時間帯は当然消灯している。現時刻は夜の八時を過ぎているので営業時間外だし、そもそも今日は臨時休業した。電気がついているはずもないのだが、木の香りが漂うフロアには煌々とした明かりが灯っていた。
「やあ、解けた?」
声がした方に視線を向けると、着飾った女性たちを写したパネルを背景に、来客用の椅子に腰かけた彼――飛鳥の姿があった。式場を出た時の姿のまま、机にぶつけそうになりながら長い脚を組み、優雅に湯呑で茶を啜っている。なんともアンバランスな光景に、一瞬ぽかんと口を開けてしまった。
くしゃ、と手に持ったままのメモが掠れた音を立てる。無意識のうちに握りしめてしまっていたようだ。我に返った彩芽は「解けた、けど!」と早足で彼に近寄った。
「椅子ってどういうことなのか、全然分かんない! 何かあるのかと思ったけど見当たらないし」
彼の対面にある椅子の背もたれに手を置きながらメモをかざす。飛鳥は何やら微笑を浮かべつつ、細い指で彩芽を示した。
「視線」
「え?」
「そのまま視線を、そう、真っ直ぐに下に」
つ、と下がっていく彼の指と、彩芽の視線。
そこにあったのは、
「……箱?」
彩芽が手を置いた椅子の座面には、シンプルで手のひらほどの小ささの白い箱が置かれていた。それを手に取って椅子に腰を下ろした彩芽と反対に、彼は席を立つ。給湯室に引っ込んでいったかと思うと、丸い盆に急須と湯呑を乗せて現れた。
「多分、こういうのって男が蓋を開けながら言うのが理想的なんだろうけど」自分の湯呑と新たに持ってきた湯呑に茶を注ぎ、飛鳥は照れたように笑う。「こういう形があってもいいかなと思ってね」
開けてみて、と彼は箱を指した。それに従い、ゆっくりと蓋を開けていく。
中に入っていたそれは――
「……ゆび、わ」
「そう、指輪」
蔦のようなデザインの銀色のリングと、光を受け止めて眩い輝きを放つ花を象った宝石。箱から抜き取って確認してみたサイズは、ちょうど彩芽の指に嵌るくらい。
そう。左手の、薬指に。
呆然とする彩芽を前に、飛鳥はいたずらに成功した少年のような笑みを浮かべたまま何も言わない。しばらくそのまま時間が流れ、
「えーっと、これは……ナンデスカ?」
沈黙を破ったのは、思わず片言になってしまった彩芽の困惑だった。
「そのまま渡すのも悪くないと思ったんだけどね。どうせなら記憶に残る方がいいかと思って。かといって、最近流行りのフラッシュモブだっけ? あんなのをする勇気は無かったし。恥ずかしいし」
「まあ、あたしもされたくはない、けど」
「でしょう? で、じゃあどうすればいいかなと考え抜いて」
そうなった、と飛鳥は茶を啜った。
「いやいやいや」ちょっと待ってください、と彩芽は指輪を一旦箱に戻し、机を叩きながら身を乗り出す。「これって、あの、絶対、コンヤクユビワ、とかいうやつですよね」
「どうしてそこで片言になるかな」
「だって現実を受け止めきれてなくて!」
「よし、じゃあこうしよう」
ちょっとこっちおいで、と椅子の脇に導かれる。長身の彼と、同じ年ごろの女性の平均身長以下の彩芽では、必然的にこちらが見上げる形になる。はずだったのだが、彩芽は今、彼の頭頂部を目にしていた。つまり飛鳥が彩芽の前にひざまずいたのだ。
混乱しっぱなしの彩芽の手から箱を抜き取り、彼はこちらを見つめながら鳶色の目を細める。初めて見た時も、そして今も、その瞳の美しさには心臓が跳ねる。目にするものすべてを温かく包み込むかのような、綺麗な瞳。
「はっきり言って君もそんな格好だし、場所も場所だけにあんまりムードは無いけど」
「か、格好のことは放っておいてよ!」
「まあ、ともかく」彼は箱の蓋を開け、落ち着いたテノールボイスで言葉を紡いだ。「ぼくと結婚してくださいって言いたかったんだよ」
じわり、と、胸と目の奥が熱くなった。
普段はさほど大きく感じないはずの時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
あまりに反応のない彩芽にさすがの彼も心配になったのか、形のいい眉が少し下がった。
「ああ、えっと、ごめん。怒ってる?」
ふるふる、と首を横に振る。
本音を言えば、素直に嬉しい。今なら空も飛べるのではないかと言うほどに嬉しい。正直暗号だとか空腹だとか多少のイラつきはあったが、そんなことは最早どうでもいいとさえ思う。
ただ、そう。一つ許せない問題が。
「飛鳥さんはちゃんとした身なりなのに、私だけこんな格好でー!」
ようやく絞り出した言葉に、一瞬面喰ったかのように飛鳥は目を見開いたが、すぐにふっと吹き出した。
「さっきも言ったでしょ、ムードは無いけどって。ある意味記憶には残りやすかったからいいと思うけど」
やけに記憶に残ることを気にするなと思ったら、両親が「プロポーズした事とかされた時のことなんて忘れちゃって」と語っていた。じゃあ自分は記憶に残るようにしてやる、と決意したからだと後日聞かされた。
結婚かあ、自分もいつかは彼とそうなるのかな、と考えていた。
どうやらその機会は、思っていたよりもすぐ近くにきていたらしい。
返事は? と問われ、彩芽は小さくはいと答えて笑う。手を、と促され、彩芽は鼻をすすりながら左手を差し出した。薬指に、するりと指輪が嵌められる。
立ち上がった彼を見つめていると、頬を撫でられた。そのまま目を閉じた数秒後、唇に柔らかで温かな感触が重なる。
花言葉にこだわった彼のことだ。指輪の花にも何かしら意味がこもっているのだろう。そう尋ねると、「単純だけれど」とまた照れくさそうに笑い、彩芽を抱きしめながら至極幸福そうに続けた。
「あなたを愛しています」、と。