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戻って来た養護の先生はわたしの頬を確認すると軽くガーゼを貼ってくれた。冷やしたおかげでほとんど赤みは引いたし、腫れもないので病院は行かなくて大丈夫そう。ボールを飛ばしてしまった一年生もすっごく気まずそうに謝りに来てくれて、わたしが大した怪我でないと言うとほっとしていた。
テニス部顧問の美香先生は英語の担当で、お子さんが二人いる三十代の先生。同じ名字の数学の佐々木先生がいるので下の名前で呼ばれている。わたしも美香先生に教わっているが、教科書だけでなく映画や音楽なんかと絡めて話してくれるので授業も楽しく、少しだけ成績も上がった。
先生は職員室でわたしの家に電話をかけてきたと言う。
「北沢さん、お家の方お留守だったわ」
「あ、あの、母は今日はパートなので。多分そろそろ帰る頃だとは思いますが」
「それじゃあ、後で電話で説明するって伝えてね。でも……そうね、本当は先生が送ってあげられればいいのだけれど」
まだ学校から離れられないと言う先生が、部長の境くんと十和田くんの二人で北沢さんを送るように、なんて言うから全力で辞退した。それでも心配だったらしく、じゃあ知り合いの十和田くんが代表して、ということになった。なってしまった。
この前の絢子さんといい、今日の先生といい、なんだか皆さんわたしに対して過保護じゃないですかね。なんでだろう、背が低いから子ども扱いなのだろうか……147センチですが何か。小学生のときからずっと背の順では先頭争いしか経験がありません。お母さんも150そこそこしかないので諦めていますが。お父さんは大きいのだけどな。真央ちゃんには「遥はさ、なーんか小動物っぽくて構いたくなるんだよね」なんてよく頭を撫でられたりするけれど、もしやそれなのか。
どうも釈然としないけれど、結局こうしてまた十和田くんと二人で歩いている。リュックまで持とうとするから死守するのが大変だった。手は怪我していません、持てます。そこまでしなくても、と言うわたしに十和田くんはでも、と返す。
「女子が顔に傷つけたら大怪我なんだろ」
「わたし、小さい頃からよく転んで顔も何回も怪我したよ?」
それもあってバレエ習ったんだけど。確かにバランス感覚は養われたのか、転ぶことはなくなった……どんくさいのは変わらないけれど。実はおでこの生え際のところ、さっくり切って今も少しハゲているところまである。おでこ側の傷跡はほんの数ミリだし、ほとんど目立たない。そう言って前髪を上げて見せれば十和田くんはまた眉間にシワを寄せた。でも、ちっちゃい頃のことは仕方ないと思うよ。だって子どもって頭の方が重いじゃない、そりゃあ転ぶって。
そうこうするうちに家の前まで来た……っていうか、近くまででよかったのに、先生からの伝言もあって頑なに送られてしまった。偶然にもご近所さんに会わなくてほっとした。コロの散歩なんかでこの辺の皆さんとはすっかり顔見知りだから、男の子と歩いてるのなんて見られたら、恥ずかしくって布団から出られなくなりそう。
「あ、あの、本当にお母さんに言うの?」
「そう言ってる」
「うう……はい」
揺るがないなあ。普通、あまり親しくない女子の家なんて嫌じゃないのかな。でも、ここで揉めても仕方がないので諦めて玄関に入ってもらった。奥の和室から音がするから、お母さんはそこだろう。ただいま、と呼べば取り込んだ洗濯物のタオルを片手にのんびりと出てくる。
「はあい、お帰り。お母さんもちょうど今帰ったとこで……あらら?」
「お母さん、あの、こちら十和田拓海くん。ええと、絢子さんの」
「十和田拓海です。初めまして」
わたしの頬の白いガーゼと十和田くんを忙しく見比べるお母さんに簡潔に説明すると、十和田くんはすみませんでしたと頭を下げた。
「え、え、あの十和田くん?」
「あらあら、顔を上げてちょうだい。家までこの子を送ってくれてお礼を言わなきゃないくらいなのに」
わたしとお母さんは慌ててしまう。そう、だって、ボールを飛ばしたのは他の子だったし、十和田くんは保健室に連れて行ってくれたり、家まで送ってくれたりと謝られることなんて一つもない。
それでも、自分の部活のことだからと言う十和田くんはさっき知ったけれど副部長だった。責任感強いんだな。お母さんはわたしをちらりと見ると、にこりと笑顔になった。
「うん、分かりました。謝罪はしっかりいただきました。先生ともきちんとお話しするわね」
「はい、ありがとうございます」
ようやく頭を上げた十和田くんはもう少し何か言いたそうだったけれど……というか、何かを気にしていた感じだったけれど、それじゃあと帰って行った。それでようやく、わたしは玄関から中に上がったのだった。
「へえ、あの子が拓海くんね……しっかりした子ねぇ」
「うん」
「なんていうか、分かる気がするわ、うん。で、どう、痛いの?」
お母さんは一人で納得すると急に話題を変えた。頬のことだろう。保健室でしっかり冷やしたから赤みも腫れもないことを言えば安心したようだ。
「幾つになってもどこかかしら怪我してるわねえ」
「……わたしってそんなに心配な感じ?」
「何もないところで転びそうだわね」
ひどい。むくれるわたしに、まあ、大きな怪我だけは気をつけなさいと笑った。それは普通、男の子に向かって言うセリフじゃないかと思うんだけれど反論できないのがもどかしい。一応塗っておくようにと渡された傷薬を持って洗面所に向かう。ガーゼを外して鏡で見れば、ほんのり赤っぽいだけで言われなければ分からないくらいだった。こんな傷とも言えないような傷に付き合わせてしまって、十和田くんに申し訳なかったなと思う……部活、ほとんどできなかったよね。そういえば、保健室で何か言いかけた続きも聞きそびれてしまったなあ。
二階へ上がり自分の部屋に入ると、ベッドの上に洗濯物が置いてあった。今まで洗濯物は一階の和室でお母さんがたたんでおいてくれたのを自分で上に運んでたんだけれど、最近はこうして持ってきてくれている。なんか前と少したたみ方が変わったみたいだけど。
その中にお母さんの靴下が混じっていたので、制服から着替えるとそれを持って下に降りた。
「お母さん、靴下混じってた」
「あら。もう片付けてくれたの? ありがとうね」
お母さん? 何言ってるんだろう。
「最近は遥が洗濯物たたんで部屋まで運んでくれてるでしょう。お母さん、取り込むだけでいいから助かるわ」
「え?」
「あ、やだわ、お醤油買うの忘れてた。お母さん、ちょっと行ってくるわね」
「え、あ、うん」
わたしの疑問は置き去りに、お母さんは慌てて外に行ってしまった……なんだろう。洗濯物、お母さんがしているんじゃないの? お母さんはわたしがやったと思ってる?
モヤモヤした気持ちを落ち付けようと、甘いスティックコーヒーをカップにいれて、棚からおやつを出そうとして……無い。今朝あった赤い箱のビスケットが、無い。おかしい、朝見たのはお兄ちゃんが出て行ってからだし今日はまだ帰ってきていない。お父さんは甘いの食べないし、お母さんだって昼間はパートに行っていたはず。
誰かの声が頭に蘇る。
『何か変わったことはなかった?』
そう言ったのは。
『食べ物が……お菓子がなくなるとか、物の場所が変わってるとか』
なくなったお菓子。誰もやっていないのに片付く洗濯物。そういえば、この頃は部屋のゴミ箱も溜まることがない。お母さんがやってるんだと思っていたけれど……勘違いや気のせいではないの。
……十和田くん、このこと?
台所で立ち尽くすわたしの目の端を何か黒っぽいものがしゅ、と横切った、気がした。
「お母さん食べてないわよ。お兄ちゃんでしょ」
お菓子の件は帰宅したお母さんにあっさり却下されたわたしは夕食後の今、クッキーを焼いている。あのビスケットがお菓子ストックの最後だった。何もなければ焼くしか無い。ちなみに、帰宅したお兄ちゃんには俺食べてないといつもの返事をもらった。
その言葉を信じる気はないけれど、信じなくちゃいけないかもしれないと思いながらオーブンから取り出したクッキーを網に移す。伸びてくるお兄ちゃんの手を追い払いながら冷まし、そのうちの三枚を小皿に乗せると残りはきつい蓋つきの容器に入れて棚の奥にしっかりとしまった。
そして、小皿はわたしの部屋の机の上。わたしの部屋の扉は内側から鍵がかけられるようになっている。釘を曲げたような形をしていて短いチェーンが付いている、引っ掛けるだけの小さい鍵。開けるのに少し時間がかかる、という程度の物なのだけど。実際、鍵がついたままでも数センチは開いちゃうし。
一応お年頃っていうことで着替えの時なんかに、とお母さんがつけてくれたのだった。ちっちゃい従兄弟が遊びに来た時とか、大雑把なお兄ちゃんがノックもなしに開けるからね。普段は使わないそれをかちりとかける。
星と花と鳥の形のクッキーは焼き色も綺麗で、仕上げに塗った溶き玉子がツヤツヤと美味しそうに光っている。ゴミ箱に紙屑が入っているのを確認してベッドに入り、電気を消して……起きていようと思ったけれど、思いの外疲れていたらしくあっという間に夢の中。
眠りに落ちる最後の最後に何か聞こえた気がしたけれど、目は開けられなかった。
目覚まし時計に起こされたとき、ドアの鍵はかかったまま。でも、ゴミ箱は空で、机の上のお皿には何も残っていなかった。
「十和田〜、呼んでる」
初めて来た五組の教室。思わず来てしまってから大胆なことをしていると我にかえり、戻ろうかと迷っているうちに声をかけられて、あっさり呼び出すことになってしまった……どう見ても、注目浴びてるよね。あああ、失敗した、もっと考えれば良かった。ごめんね、十和田くんもとんだとばっちりだ。どれだけ混乱してるんだ、わたし。ああ、教室の中からちらちらとこちらを気にする視線が痛い。
待っていたのはほんの十秒くらいのはずなのに、果てしないくらいに長く思えた。そんなわたしの前に十和田くんは意外そうな顔を隠さずにやって来た。
「北沢さん。あ、ここ治ったんだ」
「あ、ほっぺね、うん、全然平気。あの、ごめんね、急に呼び出して」
あ、どうしよう、すっごくドキドキしてきた。もうガーゼも貼っていない頬が赤くなっているだろうことは自分でもわかる。ちらりと見上げれば十和田くんも困った顔をしている……ええい、ここまで来たら女は度胸だよね、ほのかちゃん真央ちゃんっ。周りの視線が痛いけれども、それは気付いていないことに! 顔があげられないのは勘弁してくださいっ。
「あ、あのね、昨日十和田くん言ってたでしょ『お菓子がなくなったり』とかって。うんと、それでね、きのう」
「北沢さん、今日の放課後、いい?」
もうここまで来たらと、意を決して話し始めたのに途中でぶった切られた……腕を掴まれて。なんか、急に変わった必死な表情に断るなんてできない。下校するときに昇降口で待っててと言うのに人形のようにカクカクと頷く。
「わ、わかった。放課後、ね」
そう言って掴まれたままの腕を凝視すれば、慌ててパッと手を離した。
「あ、ごめ「あの、それじゃ、ごめんねっ」
くるりと向きを変えて走る背後で、十和田くんがクラスの男子にからかわれているのが聞こえる。
「ええ、十和田なになに?」
「こいつめ〜」
ああ、もうっ、ごめん、本当ごめんなさい!
駆け込んで戻った一組の教室で息を切らしていると、ほのかちゃんと真央ちゃんに目ざとく見つけられる。
「遥、どうしたの」
「顔真っ赤だよ、はるちゃん?」
うう、と顔を隠してうずくまるわたしの背中を、二人はポンポンと撫でてくれる。どうした、何があった、とかけてくれる声は興味もあるけれども、それ以上に本当に心配してくれているのが分かるから無碍にもできないししたくない。でもごめんね、今は無理。本当、無理。
そんなことをしている間に先生が教室に来て、ホームルームが始まってしまった。
掴まれた腕はまだ、十和田くんの手の感触が残っている。お兄ちゃんやお父さんとは違う、男の子の手。けっこう大きくて、硬かったのはやっぱりテニスしてるからかな、ラケットで手に豆できるっていうし。
机の下で左腕をなんとなくさすっていると、少し離れた席のほのかちゃんと目があった。慌てて笑ってごまかしたけれど、ほのかちゃんはにやりと楽しそうだ……うん、顔まだ赤いよね、自分でも分かる。この後を思い、そっとため息を吐いた。
「ああ、そういえばテニス部なんか騒いでると思った。遥だったのかあ、もっとちゃんと見ればよかったよ」
「怖かったよねえ、大丈夫だった、はるちゃん?」
ようやく落ち着いて話ができたのは給食の時。お菓子がなくなる、なんていうことはさすがに言えなかったから、昨日のテニスボールがかすったことを話した。ほのかちゃんに頬をさわさわと撫でられる。
「うん、もうなんともないの」
「そっか、よかった。もう、やっぱり遥は目が離せないなあ」
わたしの頭を撫でながら、真央ちゃんが眉を下げる。すみません、ご心配をおかけして。
「でもわざわざお礼に行くなんて、やっぱり十和田君のこと……」
「そういうのじゃないからっ」
ほのかちゃんはどうしてもそっちに持って行きたいようだ。違うと言うのにキラキラした目で一人うんうんと頷いている。二人にもちゃもちゃといじられるわたしたちの机には、クラスのみんなの温い視線が向けられていた。
……五時間目。絢子さんにメールしてお家に遊びに行かせてもらえばよかったんだ、ということに気付いて、また突っ伏してしまうのだった。