最終話
黒猫のリューちゃんとの再会は案外早くにやってきた。
新学期を翌週に控えた春休み、わたしは相変わらずコロを連れて絢子さんの家にいた。一緒に植えたチューリップが咲き始めたからと誘われて、いつものポーチでお茶を頂いている。
ドサっと無造作に植えたはずのチューリップは不思議なことに窮屈すぎもせず、ちょうどいい群生具合で色とりどりのぷっくりとした蕾をつけていた。
この近辺の目印になる公営のホールはコンサートもよく開催される為、ギフト用の花束や胡蝶蘭を専門に扱っている花屋さんがすぐ近所にある。絢子さんと仲良しのそこの奥さんが、自宅用に特別に仕入れる球根を分けてもらっているのだそう。だから、色や種類は選べないのだけど、綺麗だからいいわよねと笑っていた。
ムスカリはバランスよくチューリップの足元におさまって、青紫色のポコポコした花を咲かせている。門から玄関までのアプローチ、少しカーブを描く飛び石の周りに無造作に作られた花壇。薄緑色のクリスマスローズはさすがに盛りを過ぎたけれども、まだまだ綺麗だし、白と薄紫のハナニラはきりりとして、深い赤色が目をひくアネモネも気持ちよさそうに風に揺れている。
意外なことに、パンジーやビオラは玄関脇に丸い素焼き鉢の寄せ植えがひとつあるだけだった。絢子さんは多年草の方が好きらしい。でも、去年何処かで見た箒草は可愛かったから植えてみようかしら、なんて楽しそうに園芸雑誌をパラパラめくっていた。
庭の梅の花は終わったけれど、隣の林には小振りな枝垂桜が一本あって、ぽつぽつと蕾が膨らんでいるのが見える。満開になるとポーチを隠すくらいに咲き零れるバラも新しい葉が増えてきて、気の早い花芽が顔を出している。クレマチスの芽もギュンギュン伸びるから、この時期は誘引が大変と聞いた。
実はおーちゃんたちがお庭の手入れを結構手伝っているらしい。ただ、実際にやっているところは残念ながら見たことがないそうだ。
いろんな種類の花木がそれぞれ好きなように咲く、絢子さんの庭が大好き。きちんと計画して植えたのでないのに感じられる柔らかい統一感は、ここに住む人によく似ていると思う。おおらかで、あたたかくて。
ポットから温かいお茶を注いでくれる絢子さんをぼんやり見ていたら、パチリと目があった。
「ん? 何かついてる?」
「あ、ううん、あの、違くて。髪型変えたから」
今までより少し明るめのブラウンカラーに、ゆったりとしたウェーブはとても絢子さんの雰囲気に合っている。
「春だしね、気分転換」
似合ってると言えば、嬉しそうに髪に手をやって笑う絢子さんは、ふとわたしの周りに目をやった。
「それにしても……遥ちゃん、重くない?」
「普段ならお菓子の後はいなくなるのに、どうしたのかな。おかげであったかいけど」
今日は膝の上にいつものおーちゃん、肩の上にもう一匹、足元に二匹、ベンチの横にも一匹と、どうしてか囲まれている。みんなにぴったりくっつかれてぬくぬくホカホカで、用意してもらっていた膝掛けの出番はなさそうだ。
「今朝は普通通りだったのだけど」
「十和田くんが帰ってくるのを待ってるのかな」
十和田くんは郵便局。もうすぐ誕生日の妹さんに、バースデーカードを出しに行った。実はこの前、十和田くんのご両親から絢子さんに連絡が来たときにちょうど一緒にいて、何故かわたしまでスカイプでお話しさせてもらってしまうという事件、いや、事態になって。
妹の明梨ちゃんが “お姉ちゃん” の存在に憧れているらしく、すごく懐いてくれて。わたしも妹が欲しかったから、嬉しくなっておしゃべりしてたら今月誕生日だって聞いて。
わたしが選んだのは開くとアリスのウサギが飛び出すポップアップのカード。あなたも送ったら、と絢子さんに促されて、十和田くんが用意したカードは日本の春らしい桜模様。聞けば、今まで兄妹で何かをやりとりしたことはなかったというから、これが初めての “お兄ちゃんからの贈り物” になるみたい。
絢子さんからの小さいプレゼントとそれらを一緒に出しに行ってくれている。
「気に入ってくれるといいけど」
「絶対に喜ぶに決まってるわ」
ミルクティーの入ったマグカップをテーブルに戻すと、ちょうどカシャンと閂の音がした。途端、わたしが振り向くより速く、おーちゃんたちが一斉にそちらに向かってダッシュする。
「あら」
「え? っええ?」
こんなに素早い動きをするおーちゃんは初めてで、突然のことに驚く。おーちゃんたちは帰って来た十和田くんの少し手前でものすごく警戒心を露わに威嚇までしている。今まで見たこともないこの状況に慌てて庭に下りた。駆け寄りながら呼んでみたけど、わたしの声なんてちっとも聞こえていないみたい。
「おーちゃんっ、どうしたの? 十和田くんだよ」
「……あー、多分コイツかな」
声が聞こえるならすっごく唸っているんだろうなあ、っていう感じに歯をむき出して毛を逆立ててるおーちゃんたちに囲まれて、十和田くんは戸惑いながらも心当たりがありそうだ。持っていた斜めがけのカバンの蓋を開けると、ひょこりと顔を出したのは黒い猫。そして飛びかかるおーちゃん。
「え、リューちゃん!? ちょ、おーちゃんっ!」
「そこにいたから連れて来たんだけど。こうなったか」
「と、十和田くんってばそんな呑気に」
軽やかにカバンから飛び出したリューちゃんと取っ組み合ってもちゃもちゃしてたけど、わたしがあわあわしているうちに決着はついていた。
わたしたちの目の前には、かっぷりとリューちゃんの喉元を咥え込んで、勝ち誇った顔のおーちゃんが。
「あ、今、くち……」
「へえ」
っていうか、今一瞬ありえないくらいおーちゃんの口がぱっくりと大きく開いた気がしたんだけど。明らかに元の頭より大きくなったんだけど……そうか。もともと「オコジョに見えてる」だけだった――うん、大丈夫、だっておーちゃんだし。
そのまま、親猫が子猫を口で運ぶようにトテトテと近づいてきたのでよく見れば、リューちゃんも痛みとかはなさそうにゆるく尻尾を振っている。そっと手を伸ばして両方を撫でれば、おーちゃんはようやくリューちゃんを離した。よかった、怪我はないみたい。
「もう、びっくりしたよう。どうしたの、急に?」
驚いたのと気が抜けたので、へたり込むわたしの上からはいつも通りの二人の会話。
「ナワバリ争いみたいなものかしらね」
「多分」
猫と一緒ね、と納得する絢子さん。こっちは大勢いたけど実際やるのは一対一なんだって、なに感心してるの十和田くんは。膝に上がってきたおーちゃんと、負けてしょんぼりしているリューちゃんを両方抱っこする。
「できれば、あとはもう喧嘩しないで仲良くしてくれると嬉しいな」
一度やったからいいよね、と言えばお互いに頭を傾げた後おーちゃんの口からキラキラが出て、リューちゃんも何か喋って。しばらくヒートアップしてたけど、結局両方が一緒にポンっと地面に降りると庭の大きな鈴の木に登って行ってしまった。
柔らかそうな新緑の葉の陰に見え隠れするおーちゃんたちとリューちゃんは、一緒に遊ぶことにしたようだ。木の下にいるコロも、のんびりあくびなんかしちゃって全然平気みたい。
「あ、よかった」
「遥ちゃんには誰も勝てないわねぇ。拓海もお茶飲む?」
「……そうする」
絢子さんに面白そうに言われてしまう……そんなことないと思うけど。さっきから腕を組んで何か考えている十和田くんは先に戻っていてとわたしたちに言うと、おーちゃんたちの方へ歩いて行った。
一度台所に入ってお湯を沸かして。そういえばもらったお菓子があったわと絢子さんが月餅を出してきたので、それならとジャスミン茶を淹れる。湯気の立つお揃いのマグカップを庭が見えるリビングに運ぶ頃には十和田くんも戻ってきた。
「蓋碗でいただくのもいいけれど、大きめのマグカップは気軽でいいわね」
「あ、これ松の実入ってる」
「こっち胡麻餡」
しっとりと甘い中国のお菓子は中華街のお土産だそう。家でも作れるかと尋ねたら、型がないからこんなに綺麗には無理ねと笑う絢子さん……作れるんだ。すごいなあ。
「やっぱりお菓子作るのとか興味あるのね、遥ちゃんは。その方面に進むのなら多少の伝手はあるわよ」
「うーん、好きは好きなんだけど」
ずっと考えていた。わたしは何がしたいのか、わたしに何が出来るのか。
「でも、まだ決められないっていうか……お菓子作りとかバレエとか確かに好きだけれど、それだけに固まるんじゃなくて、もっと色々やってみたいって思うようになって。わたし今まで、あまり外に関心持たなかったから」
「そう」
「バレエしかやってなかったし。割と友達づきあいも表面的で……なんとなく、自信がなくって」
「……今も?」
問いかける絢子さんの声はどこまでも優しい。考え考え話すわたしをゆっくり待ってくれている。
「少し、頑張ってみたいなって思ったの。わたし、自分が何が好きなのかも多分よくわかっていないから、最初から決めつけないで、やれることを試してみようって」
「……いんじゃない」
「そうしたら、十和田くんみたいになりたいものが見つかるかもしれないよね」
肯定してくれたのが嬉しくて、十和田くんに向かって言えば少し気まずげな顔をする。
「いや、俺は……まあ、そう、かな」
「獣医さん、合ってると思うよ。だって、あのコロが十和田くんには最初っから怖がらなかったもん」
「昔っから動物好きよね、拓海は。覚えてる? 小学校の頃、動物園に行った時にふれあいコーナーでモルモットに……」
「ちょ、絢子さん、いいからその話は」
「え、聞きたいっ」
「ダメ」
慌てて遮られて続きは聞けなかったけど、絢子さんがこっそり『後でね』って口パクしてくれたから楽しみにしておこうと思う。
そのあとは家の中に戻ってきたおーちゃんとリューちゃんが膝と肩に乗って離れないまま、行き始めたバレエ教室のことやタカノリ先生の新しいレシピ本の話をして、お茶の時間を過ごした。
陽はだいぶ長くなったけれど、夕方になると風はまだ冷たい。絢子さんに見送られて、十和田くんとおーちゃんとコロで歩くこの道も、本当にすっかり馴染んだ。今日の十和田くんは自転車に乗らずコロのリードを持ってくれている。
吹きつけた風に慌てて上着の前を閉めれば、あのクローバーの話をした駐車場の隅が目に入る。そこもまだほんのり草がある程度で、クローバーも親指くらいの背丈だ。
「クローバー、無いね」
赤信号の間そんなことを思い出しながら地面を眺めていたら、急に言われて驚く。
「……わたしも同じこと思ってた」
覚えていてくれたんだ。なんだか、嬉しい。
「もう少し暖かくなったら、きっとまたたくさん生えてくるよ。ここは風が当たって寒いから、少し遅いかもだけど」
「そっか」
「日当たりのいいところだったら、もう伸びてるかもね」
思い描くのは白い建物に囲まれた、緑の空間。あの時の。
「……中庭とか?」
「そう、病院の」
ふふ、と自然と笑顔になる。青信号に変わったのを教えてくれる代わりに出された手を取った。
「これからなんだけど」
「うん」
横断歩道を渡っても手はまだゆるく繋がれたまま。今が夕焼けの時間でよかった。
「そいつ、北沢さん専属にするから」
「えっ、おーちゃんを?」
きっと顔も赤いだろうけど、そんなことも忘れて見上げる。もう決めたって言いそうな顔の十和田くんと、楽しげに歌っているおーちゃん。
「前から思ってたけど、今日ので分かった。こいつ、実は結構強い」
向こうの世界から出てくるモノを家では一度も見たことがなかったのは、おーちゃんがいるせいだったらしい。たまたま、ではなく、どうやら追い返したりしていたと。さっき、リューちゃんをやっつけたのを見てそうじゃないかと思って、わたしたちが家でお茶の支度をしている時に確認していたそうだ。
リューちゃんのことは “こっちに棲んでいるモノ同士” ってことでお互いだいぶ手加減して、純粋に力くらべしてたんだって。本当ならあのままぱっくりと……そうなんだ。へえ。ちょっと見る目変わるかも。あ、でもやっぱりかわいい。うん、大丈夫、おーちゃんだ。
「『自分の家を守る』っていう本能みたいなやつかな、侵入者には厳しいんだ。一緒にいれば、少なくとも向こうから接触されることはないはず」
「でも、いいの?」
「こいつも一緒にいたがっているから。ただ、北沢さん家のおやつなんかが狙われると思うけど」
「じゃあ、いっぱい作らなきゃね」
作ってすぐに渡せるならふわふわの蒸しパンとか、アイスなんかもいいかもしれない。大学芋も食べるかな。
またお手伝いもしてくれるとお母さんが喜ぶな、と首元のおーちゃんを撫でれば満足そうにすり寄ってくれる。
「よろしくね、おーちゃん」
口から出るキラキラは相変わらず歌ってるみたい。冬の白い息のように溶けてなくなる小さいきらめきを、ガラス瓶に詰めて取っておけたらといつも思う。
「あれ、もしかして学校にも連れて行くの?」
「当然」
「……そうしたら、もう帰りは別々だね」
一緒に帰っていたのは、わたしを一人にしないためだったから、その必要はなくなるはず。図書室で待つのは照れ臭くて恥ずかしくもあったけど、ドキドキして嬉しかったのも本当。
でも、これからはバレエの日もできるし、十和田くんだって部活や塾もあるし、その方がいい……よね。
「部活終わったら図書室に行くから」
「え」
「待てる日は待ってて」
少し力の入った右手が、十和田くんのその言葉が。耳には聞こえてるのに、わたしの中に入ってくるのに時間がかかってしまった。
「……うん」
ようやくそれだけ返事をして足元に目を落とすと、街路樹の隙間に一本だけ高く伸びたクローバー。
次に四つ葉を見つけたら十和田くんにあげよう、もう一度。
いいことが、ありますように
これからも、その先も
――そうしてみんな、しあわせにくらしましたとさ――
そんな言葉がぴったりになるように
わたしにできることを、ひとつずつ
急に吹いた風に顔を上げれば、夕焼けに染まった空。
きらきらと、おーちゃんの声が小さく光りながら空にのぼっていった。
おとぎ話の時間です【完】
ここまでおつきあいくださいました皆さまに、心からの感謝を。
ありがとうございました!
2017/03/17 小鳩子鈴




