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 一日目のテストが終わり、思ったよりは出来たんじゃないかと少しだけ気が楽になりながら家に戻ると、わたしの帰りを待っていたお母さんに台所に引きとめられた。


「遥。あなた昨日、自転車にぶつかって転んだんですって?」


 なんで知ってるの。驚くわたしの膝に貼ってある絆創膏をまじまじと見ながら呆れたように本当だわ、と言うお母さん。


「お昼過ぎにコロが散歩に行きたがったから、今日はパート休みだし少し連れて出たのよ。銀行にも用があったし。そうしたら駅前で、コロが急に女の人に寄って行ってね」


 コロが誰かに自分から近寄るなんて初めてでどうしたらいいか困ったと、お母さんは頬に片手を当てた……もしかしなくとも、この流れは。


「そうしたら向こうも『あら、コロちゃん?』ってこっちを知ってるじゃない。もう、びっくりしたわ」


 ああ、やっぱり。絢子さんだ。ダイニングテーブルの上のお菓子の箱に目を向けてお母さんは続ける。


「すっごく謝られちゃって、でも、遥から何も聞いてないじゃない」

「だってぶつかってないの、自分で躓いただけ。それに飛び出したわたしの方が悪かったし」

「それでも気にしてらしたわ、十和田さん。それ、お詫びですって。昨日のうちにその絆創膏に気付かなかったお母さんも悪いけど、そういうことは教えてほしかったわ」

「うん、そうだね。ごめんなさい」


 素直に謝ると、お母さんは私の手のひらを持って眺めた。


「こっちも平気そうね。とても心配されてたから、テスト終わったら週末にでも一度ご挨拶に行きましょうね」

「うん」


 せっかくだから頂いたお菓子でお茶にしましょうと解放されて、着替えてダイニングに戻ると紅茶がはいったところだった。

 言われて開ければ、箱から出てきたのは焼き菓子の詰め合わせ。マドレーヌ、ダコワーズ、小さいタルト……どれも美味しそうだけど、絢子さん。そこまで気にしないで欲しかった。これ、この前のマカロンと同じ人気パティシエの超有名店の品じゃないですか。わたしの膝はそこまでお高価たかくありません。うう、この大箱いったいいくらするんだろう。わたしのお小遣いでは絶対足りない。


「お母さん、どうしよう。このお菓子……」

「そうなのよ。十和田さんのお勤め先のところのですって」


 え?

 きょとんとする私に、カップを渡しながらお母さんは楽しそうに言う。あれ、料理教室のアシスタントだって聞いてたけど? 違ったかな、確か名刺には『ENDO クッキングサロン』……。


「すごいわよね、円堂タカノリの教室のアシスタントなんて」


 まさか、テレビでも雑誌でも引っ張りだこのイケメンパティシエがここで出るとは思わなかったよ。地味なくせにキラキラしい焼き菓子を前にしばし黙り込む。ほろりと口の中で溶けるようになくなるフィナンシェは、こっくりしたバターとアーモンドの香りが紅茶によく合った。


「お母さん……これ、お兄ちゃんにはもったいないよ」

「そうねぇ、お父さんには少しあげるとしても、お兄ちゃんにはいいわよね」


 甘いものも美味いものも一瞬で飲み込む残念な兄を思い浮かべて、北沢家の女二人はふふふと微笑むのだった。



  **




「ああ、たか君が先生をするのは月に1、2回よ。他の日は普通のお料理教室なの。お父さんの方もね、少し有名な料理人さんで」

円堂えんどうただしさんですよね、フレンチの」


 評判の良いフレンチレストランのご主人だったそうだが、数年前に怪我をしたことから長時間現場に立つのが難しくなって現役は引退。娘夫婦に店を任せて、今はレシピ本の執筆や教室の方に力を入れているそう。それで息子は売れっ子のパティシエと。お母さん、どこからそんな情報持ってくるの? あ、パート先ね。おばちゃ…いえ、ご婦人方の情報網はさすがですねぇ。

 そうなのよと簡単に言う絢子さん。すごく気安そうな言い方にあれ、と思って聞いてみた。


「あの、もしかして親戚とか」

「ううん、違うわ。でも、そうねえ、そんな感じかしら。隆君なんか小学生の頃から知っているから、気分は親戚のおばちゃんといっしょね」


 テストが終わった週末。わたしはお母さんとコロと一緒に絢子さんの家を訪れた。十和田君は図書館に行っていて留守だそうで、お母さんはこっそり拍子抜けしていた……お母さんってば。同級生の男の子、というのに興味があったらしい。出かけた十和田君、ナイスタイミングだ。

 すっかりカサブタになった膝にようやく少し安心してくれたようで、お詫びの言い合いはこれにて終了になってほっとした。今日はあの日に気になったポーチの大窓の内側、リビングにお邪魔している。


 絢子さんの家の中はもう、想像通りだった。きっとわたしと同じ感想を持っただろうお母さんと二人で、お行儀が悪いと思いながらもついキョロキョロとあたりを眺めてしまう。

 少し張り出した玄関は天窓の光が差し込み、靴箱の上に生けられた庭のコスモスを暖かく照らしていた。小さな額がリズム良く飾られる廊下を抜ければ、この家で一番広い部屋だというダイニングキッチン。


 壁に向かって設置された流しと調理台は、ちょうど洗い物をしながら外が見えるように横長に窓が切り取ってある。お料理を仕事にしている人のキッチンだから、もっとプロっぽい道具やなんかがたくさんあるかと思ったのに、絢子さんの台所は洗いカゴとヤカンが置いてあるだけですっきりとしていて、おたまもフライ返しも出ていなかった。

 艶のある木目のダイニングテーブルは、出ている椅子は四脚だけど六人は余裕で座れそうな大きさ。同じような木でできている食器棚。どれもずっとここにあるようにとても馴染んでいる。


 ガラスの嵌った大きな格子戸の向こうが、ポーチに繋がるリビングだった。確かにこぢんまりとして、ダイニングの方がずっと広い。隣室というよりは、ダイニングの一部を仕切ってリビングにした感じだけれど居心地が良く、なんだか落ち着く狭さだった。勧められるままソファーに座ると暖かいお茶を用意してくれる絢子さん。


「外も素敵でしたけれど。お家の中もとっても素敵ですね」

「あら、ありがとうございます。と言っても、全部主人の趣味なんですよ。もう築年も古いから手入れも結構大変で」

「なんだか、外国のお家みたい……」


 リビングの濃い色のフローリングには赤いキリムやギャッベ。ゆったりとした大きさのツイード張りのソファー。読書灯のついたフロアランプ、数冊の本が積まれたサイドテーブル。圧巻だったのは、本。一面の壁が全部本棚だった。しかもなんだか難しそうな本や外国語の背表紙が多い。まるで読書をするための部屋のよう。ここで、このソファーにゆったりと腰掛けてお茶を飲みながら本を読む絢子さんが想像できすぎる。

 そして、見回して違和感に気付く。


「テレビがない……」


 普通、テレビが置いていると思われるところにあるのはガラスの蓋がかかった四角い箱。透けて見える中には黒い円盤。おばあちゃんの家の納戸の奥に似たようなものを見たことがある、これは、レコードプレーヤー? ふと見れば部屋の両隅にスピーカーもあった。


「寝室の方に小さいテレビはあるのよ。でも、毎日あれこれしているとあっという間に夜で、テレビまで見ている時間が取れなくて。それに今はパソコンの方が色々便利ね」


 だから壊れてから買い換えていないの、とレコードの隣にあるノートパソコンを指差しながら絢子さんは笑った。確かにわたしも、楽しみにしているドラマや幾つかのバラエティくらいしか見ていないけれど、それでもリビングに大きなテレビは欠かせない。それが無いのが、外国っぽく見える理由の一つなんだろうか。

 本棚は所々、本でなく写真や置物が飾ってある。一番目につく場所にある写真がきっと、絢子さんの亡くなった旦那さんのなんだろう。小さいコーヒーカップとキャンドルが手前に置かれていた。


 今日は大窓のレースカーテンも引かれ、ポーチの向こうに庭の大きな木も見える。あの金色の鈴が陽を受けてキラキラしていた。今日もまあまあ風は吹いているけれど、枝を揺らすほどではないから鳴らないかな。すごく綺麗な音だった……遠くで鳴っているのに耳元で響く、というか。あの澄んだ音色をまた聴きたい気もするけれど、毎日リンリンなっていたら流石にこの辺でも近所迷惑だろうから、よっぽどの強風でないと鳴らないんだろう。

 お母さんと絢子さんは思った通り歳が近かったみたいで、なにやら意気投合してきゃいきゃいと盛り上がっている。お母さんの人見知りを全くしないですぐ友達になってしまうところ、本当に羨ましいと思う。わたしの方が先に絢子さんと会ったのに……なんだかモヤっとする。


「……でね、遥。遥?」

「っえ、あ、ごめん、なに」


 外も綺麗で見惚れていたと誤魔化せば、あなたはまたと少し呆れられたけれどテーブルの上を見ればそれどころじゃない。お母さん、それはやめてとあれだけ言ったのにっ。にこやかな絢子さんに合わせる顔がない。


「これ、遥ちゃんの手作りなんですって? とってもおいしそう」

「あああ、お母さん、なんで持って来ちゃうの。恥ずかしい……」

「あら、せっかく作ったんだし。置いているとお兄ちゃんにまた一口で飲み込まれて終わりでしょう」


 いいじゃないの、とさらっと言うけれど。テーブルの上に出されたのは、昨夜焼いたブラウニー。料理もお菓子作りも大してできないけれど、クッキーとブラウニーだけは小学生の時からよく作ってる。よく作るだけで別に特別上手でもない、本当に普通の出来。とても、料理を仕事にしている人に食べさせられるようなものではないとわかっている。

 テストが終わって、結果はともかくほっとして、何か気分転換したかったんだ。絢子さんへの手土産にしようだなんて、お母さんのいつもの冗談だと思ったのに。


 ああ、いそいそとお皿とフォークが用意されてしまって……かわいいな、このお皿。ぽったりとした白磁の真ん中に、小さいピンクのバラが描かれている。あ、よく見ると一枚一枚絵柄が違うんだ。あっちは鈴蘭と、なんだろう、キンセンカ? ポピーもある。あれ、ここにいるのはわたしとお母さんと絢子さん。うん、三人。なのに四枚用意されているって言うことは、


「拓海にもいただくわね。喜ぶわ」


 えええ、そんな。嫌な予感が当たりましたよ。あの子結構、甘いもの好きなのよって絢子さん、内緒ねって言うけど聞いちゃったよ。男子中学生、実は甘いもの好きって知っちゃったよ……ごめん、十和田くん。誰にも言わないから許して。

 美味しいわって喜んでくれているけれど、ちょっとだけ安心したけれど、やっぱり恥ずかしい。こんなことなら、もっと丁寧に作ればよかった。1グラム単位で計量するとか、粉も一回じゃなく二回ふるうとか、板チョコじゃなくてクーベルチュール使うとかっ。


 そんなことを思いながらまた目線を外にやれば、あの樹の根元に何かが動いている……茶色い毛? コロはポーチの下に繋がせてもらっているから、あそこまでは行けないはずだし、そもそもコロの毛はもっと薄い茶色。あれはどっちかというと焦げ茶色。

 猫、にしては少し大きめな気がする。コロが静かだから大丈夫なんだろうな、気付いていないだけかもしれないけど。あの子警戒心強いし……絢子さんや十和田くんには初対面から全然だけど。このお家にも慣れてるみたいだけどっ、不思議だね。うちに来た頃のあの尻尾のだだ下がりようと言ったら! あの臆病さはどこに行っちゃったのかなあ。


「食べないの、遥?」

「あ、うん、食べるけど。あそこにいるの猫かなって思って。コロ怖がっていないかな?」


 膝の上に乗せたままのお皿を見て、お母さんが聞いてきた。わたしの返事に絢子さんが驚いている。


「猫?」

「飼ってませんか? じゃあ、野良猫かな」


 わたしが指差した先を見る二人。でも大きいしな、見たことないけれど、もしや狸ではないだろうか。雑木林も近いし、いてもおかしくはない……この辺そこまで自然豊かとも思わないけれど。いちおう、都内までも電車で一本だし。


「何もいないみたいよ?」

「え」


 樹の陰に半分隠れているけれど、今もいるよ。お母さん、目が悪かったかな……は! もしや?


「……まだ老眼じゃないわよ」

「あ、あはは、そっか、じゃあ逃げたかな」


 思わず顔を見れば顔色を読まれて睨まれる。絢子さんも不思議そうにしているし、角度的に見えないのかもしれない。うん、まだもぞもぞ動いているけれどこれ以上は藪蛇だ。ブラウニーを食べようと逃げれば、




 手に持っていたはずのお皿の上には何もなかった。


 ……んん? わたし、いつの間に食べた?



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『Ayakashi and the Fairy Tales We Tell Ourselves』
イラスト/ Meij 先生
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