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後半部 他者視点
急に鳴り出したスマホを見て顔をしかめた近藤さんは、ちょっとごめんねと断りを入れてベンチから離れた。さっきまでうとうとしていたリューはその音で起き上がったけど、わたしに抱っこされたまま。近藤さんの声はこっちまでは聞こえてこないものの、額に手を当ててウロウロしながら話している様子はいかにも困っているよう。
そのまま二、三分話して諦めたようにスマホを切ると何かブツブツ言いながら戻って来る。それを見てわたしたちもベンチから離れた。
「ごめんね、急に戻らなきゃいけなくなっちゃった」
「そうですか」
本当に残念そうな近藤さんに対して十和田くんはあっさりだ。ポケットをゴソゴソしていた近藤さんは、焦げ茶色の革のカードケースから四角い紙を差し出す。一枚ずつ渡されたのは、名刺。
「普通は最初に渡すんだよね、うっかりしてた」
「……美容師さんだったんですね」
お店では会計の時に渡すことが多いからなあ、と少し気まずそうな近藤さん。言われてみれば、この初対面での距離の近さは確かに美容師さんだと納得する。平日にここにいることも。
美容院の名前が金茶色の文字で書かれ、日本語と英語で両面に印刷された上品なクリーム色の名刺には、いつ書いたのか携帯の番号が添えてあった。
「接客中とかですぐに出られないことも多いけど、必ず折り返すから。何かあったらいつでも電話して。それから、よかったら一度お店に来てくれると嬉しいな。サービスするよ」
僕、実は結構人気あるんだと、髪を切るジェスチャーをしてにこやかに営業スマイルを見せる。帰るよ、とリューに手を伸ばすけど、黒猫はわたしの肩に両手を乗せてぴったりくっついたまま動かない。尻尾でまで必死にしがみつかれて、こんなに懐いてくれて嬉しいんだけど、近藤さんの眉毛が情けなく下がってしまった。
「あ、あれ、まだ抱っこがいいのかな」
「リュー、お前……僕より遥ちゃんがいいの」
す、と伸びてきた十和田くんの手がわたしとリューの間に入る。リューの爪が少しだけ残ったけれど、バイバイと言って撫でれば素直に離れた。会った時の再現のようにまたがっくり項垂れている近藤さんに渡されたリューに手を振ると、尻尾を大きく揺らしてご挨拶してくれるから嬉しくなる。
気を取り直した近藤さんは、また鳴り出したスマホに急かされてじゃあ、またねと言いながら後ろ向きに歩いて行く。公園の入り口でいつもの小学生たちとぶつかりそうになって、最後にぶんぶんと手を振って慌てて走り去る後ろ姿を何となく見ていた。
「帰ろうか」
「うん、そうだね」
十和田くんに促されて飲みかけのペットボトルをしまう。公園の外に出たところで通り過ぎた車の中に、近藤さんっぽい男の人がちらりと見えた気がした。似てたけど違うかな、一瞬だったし。そんなことを思っていると十和田くんに話しかけられる。
「美容院、行く?」
「え? うーん……近藤さん、店長さんなんだね。せっかくだけどお店ちょっと遠いなあ。それに今行ってる美容院、ほのかちゃんに教えてもらったとこなんだけど気に入ってるから」
行かないよ、と言えば安心したようだった。肩にかかる程度の自分の髪は、まだバレエの時にお団子にできる長さではない。ひと束摘んで毛先を見る……うん、大丈夫、傷んでない。
ふと、さっきまで腕の中にいた黒猫を思い出す。
「もう少し伸ばそうと思ってるし。リューちゃんにはまた会いたいけど」
「あいつはそのうち勝手に来ると思うよ」
「あ、そうなの? おーちゃんやコロと仲良くなるといいね」
「……本当に、すぐ懐かれるんだから」
十和田くんは気づいてる。近藤さんがわたしの名前を知っていたこと。聞かれなかったから自己紹介もしなかったし、十和田くんもあえて名前を呼ばなかったのに。
わたしも気づいてる。近藤さんがわたしに向ける目は、何かを確かめようとしていたこと。わたしにくっつくリューと何かコンタクトを取り続けていたこと。
でも言わない。きっとそれは必要でないと思うから。
「何だか、おーちゃんに会いたくなっちゃった。このまま遊びに行ってもいい?」
「いいよ。あいつらも喜ぶし」
「よかった、じゃあ少しお邪魔させてもらうね」
十和田くんは最後まで完全には警戒を解かないで、わたしを庇うようにしていてくれた。きっと、近藤さんは嘘はついていない。“拓海くん” に会いたかったからと告げたその理由は本心からだとも思う。ただ、全部を言ったわけでもないんだろう。
あちらの世界との繋がりは、きっとわたしが思うより深くて重い。わたしに見えているのは表面のほんの一部分で、しかも綺麗なところばかりなんだと思う。それでも、十和田くんと見えているものは違っても、それがわたしにとっての本当。
だから今はこれでいい。
「……ありがとう」
少しだけ先を歩く背中に言えば、返事の代わりに後ろに差し出された右手。吸い寄せられるように、思わず小指を握った。そうしてから自分のしたことに驚いて、離そうとしたけれど指先を握り込まれて離れない。
「そ、そういえば、リューちゃんって十和田くんにはどう見えたの?」
普段ラケットを握る、少し硬い手は小指だってわたしのよりずっと長い。今さらドキドキしてきて、絶対に赤くなってるだろう頬が見えないように、横には並ばず下を向いて髪で顔を隠しながら話題を探す。
「内緒」
「ええ、“ドラゴンっぽい” ってどういうのか結構気になったのに」
「……そんなに酷くもなかったよ」
面白がっているような声音に我慢できなくて、ちらりと見上げた十和田くんは前を向いたまま楽しそうにしていたから――これもそのうち聞けたらいいなと、繋いだ指に目を落として歩き続けた。
* * *
通り過ぎる際に車中の自分と確実に目が合った。奥の方までも見通すような感情を乗せないそれは、どこまでも恩師を彷彿とさせて思わず背筋が伸びる……相手は、中学生だというのに。苦笑いがこぼれた僕に運転席から声がかかる。
「……如何でしたか」
「予想通りであり、予想以上だね」
「左様で」
教授が亡くなってから一時期増えた遭遇が緩やかに減り出したのは秋の頃。安定を取り戻しつつある状態に、拓海くんがあれだけ嫌っていた “向こう側” のモノを受け入れるようになったのだと嫌でも気付く。
何かあったかと接触を試みるも、多忙と保護者という二枚の大きな壁に阻まれてなかなか叶わず、せめて子細をと探れば一人の女の子の名前が上がった。
名残惜しそうにする相棒は今もリアガラスに張り付いている。
「随分、心残りのご様子ですね」
「拓海くんも目に入ってなかったし、僕に至っては足蹴にされた。ずうっと遥ちゃんにべったりで、まったく正直者だよ」
「よほどお側が心地よかったのでしょうね」
「分からないでもないけど、妬けるなあ」
多分近いうちに勝手に遊びに行きそうな勢いだと言えば、運転席からは小さく笑い声が返る。こんなに楽しそうなこの男も久し振りに見る。自分の孫と同じくらいの歳の拓海くんを、口にせずとも心配していたんだろう。
「……調整者は孤独になりがちだから。このタイミングであの子と出会えたのはよかったよ、本当に」
「十和田家に憑くものが引き合わせたのでしょう。あの者たちは間違えませんから」
能力に比例するように拒絶も高かった男の子。環境が変わっても傷は残ったまま教授が亡くなって、壊れかけの吊り橋を目隠しで渡るような不安定さが浮き彫りになった。あの状態が続けば遠からず向こうのモノが認証を求めて溢れ出していたことは想像に難くない……大きく開きっぱなしになるだろう、向こうとこちらを繋ぐ穴にはトラブルの予感しかない。
ほぼ確定していた危機を回避できたのは奇跡に近いだろう。
もしそうなっていたとしても、それは少数の個人に頼らざるを得ない現状の為であって、担い手の責任ではないと教授なら言うだろうけど、本当にほっとしたんだ。
「安定を通り越して同調が進むようだと、遥ちゃんが危ないかなと思ったんだけど。見る限り今の拓海くんならそれも大丈夫だろうね……本当に、教授とよく似てる」
「それはようございました」
観察はできても “見て、認める” 力の低い自分は、手をこまねいているしかなかったのが歯痒かった。隣にいたあの子は、きっと自分がどれだけの影響を彼に与えたかなんて自覚はないだろう。それでいいと思う。何も全てがあの子ひとりのためということはなく、彼女はきっかけであり、楔。そう、確かに “見える” 者に必要なものを、あの者たちは間違えない。
もっとも、僕がこんな事を考えていると彼の保護者が知ったら、大事なのは拓海くんと遥ちゃん個人であって、向こうとの問題は二の次だと怒るだろう。そうとだけ言っていられない自分の立場は厄介だとも思う。
「遥ちゃん、リューのことを可愛い黒猫だってさ」
「おや。それは言い得て妙ですね」
確かに性質は似ておりますなと、今度こそはっきり笑う。小さいながらも鱗も爪もしっかりとしたこのプライドの高い老ドラゴンを、猫とは。視認には個性が出るものだが、なんとまあ。
「きっと遥ちゃんの目には、素直に優しい世界なんだろうな」
その半分でも拓海くんに伝われば。いや、伝わったから今があるのか。
行儀良くはあったけれど、ガードが緩むことはなかった。急な来店予約で呼び戻されなければあるいは、と悔しくなる。
「もうちょっと時間あればなあ……ねえ、ほぼ一年ぶりの完全オフ日に無理やり予約ねじ込んだ強引なオキャクサマは誰? どうしてもお断り出来ないなんて、余程の方なんだろうねえ」
僕の嫌味にしれっと返された答えに驚愕する。
「ええ、十和田絢子様ですよ」
「は!?」
「シャンプーカット、パーマにカラートリートメントのフルコースで施術は全て店長お一人のみをご指命された、と聞いております」
「マジか」
ヤバい。背中に冷たい汗が伝った。なんでこんなに早くバレたんだ。笑顔で静かに怒りを滾らせる女性がありありと目に浮かぶ。今日ここに来るのを知っているのは誰もいないはずなのに……目の前でハンドルを握る、初老の男以外には。
「……滝口、僕を売ったな?」
「これは存外。私は近藤の家に仕えておりますが、それも小野木の刀自殿にお引き立ていただきましての由は周知の事実とばかり」
「つまり」
「刀自殿は生前、お孫様のひとりを目にかけていらっしゃいましてね……絢子お嬢様とは浅からぬご縁があるのですよ」
「滝口ぃ……」
「大人しく叱られておいでなさい、幸人坊っちゃま」
保護者の許可なく十和田の当代に突撃したのだからと、イイ笑顔で言い切られた。これだから旧家の繋がりは嫌になる。
「教授の奥さんは、可愛い顔して怒ると怖いんだよ……」
「さすがあの刀自殿のお血筋ですな。仕方ありませんね。そのうちに引き会わせるから時機を待てと、何度もお返事があったでしょう。待ちきれずに強引に押しかけたのはどなたですか」
「……僕です」
「拓海様が騒ぎにしないでくださって助かりました。さ、ではお約束の時間に間に合うように参りましょうか」
「え、いい、法定速度厳守で下道で回り道しながらのんびり行こうよ」
返事の代わりに高速道路に向かうレーンにハンドルを切られ、諦めて窓の外に目をやる。少なく見積もっても三時間に及ぶだろう施術時間をどうにか短縮できないかと無駄な算段をしていると、ついでのように滝口は言う。
「それから。お待ちしている間に、店の方へ坊っちゃま宛に電話があったと伺っております。後ほど携帯の方に掛け直して下さるとのことです」
「ああそう、誰?」
「男性だそうですが、お名前はスタッフにご確認ください。ですが、海外からのお電話だったと」
「……海外」
「ええ、国際電話で」
今のこのタイミングでわざわざ国際電話を掛けてくる相手なんか、どう考えたって拓海くんの父親以外に思いつかないんだけど。ああ、嫌な汗通り越して悪寒がしてきた。あの人もおっかないんだよ、言葉はキツイし容赦なくブリザード吹かすしっ。なまじ言ってることが正論なだけ迂闊に言い訳もできやしない。ウチのじっちゃんより怖え。
「ちょっと、どうなってるのこの連携の速さ! 時差とか距離とか現地時間とか超越してない!?」
「拓海様は愛されておいでですね。いや、遥様もでしょうな」
「少しフライングしただけじゃないかぁ。あ〜もう……はあ、分かったよ。会えて本望だった。素直に叱られるよ」
そうなさいませと、こともなげに言われズブズブとリアシートに沈む。その途端、鳴り響く着信音に思わず肩が跳ねる……バックミラーに映る滝口に促されて一つ息を吐くと、覚悟を決めて通話ボタンをタップした。




