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結論からいうと、わたしはバレエをまた始めることにした。とはいえ以前みたいに週三回とかではなく、週一回のレッスンのみで、コンクールどころか当面は発表会にも不参加という若干イレギュラーなかたちだ。
真央ちゃんの従姉妹の美桜ちゃん……通称「さくら」ちゃんは真央ちゃんによく似た雰囲気の可愛い子だった。今度小六で、わたしより背が高かったけど。少し天パなところも似ていて、初めて会うのに初めてという気がしなくておかげであまり緊張しないで済んだ。
いとこ同士とても仲がいいけれど、なまえが真央と美桜で似ているので、二人を両方知っている人たちの間では美桜ちゃんは「さくら」ちゃんと呼ばれているそう。わたしにもそうしてほしいと美桜ちゃん自身から頼まれた。
そして行ってみた教室は、わたしの通っていたところと大分イメージが違った。なんというか、教室の空気がとても和やかで……レッスン中は真面目だし、先生の言うこともよく聞いて動いているけれど、それは「やらなくちゃ」ではなくて「楽しいから」「好きだから」そうしてる、という子がほとんどだった。
休憩中はバレエの話よりも学校やアイドルの話題で盛り上がってるし、少しお姉さんチームは恋バナとかしていてと、驚くことばかり。
講師はお母さんよりずっと歳上の真理子先生と、教え子の一人だという三十歳くらいの優衣先生。レッスン時間より少し早めに行ってお話をさせてもらったけれど、バレエが好きで、自分が踊っていたいから教えているんだって笑っていた。だから、コンクールに出たい子にはそのように教えるし、それで足りなければ違う教室を勧める。逆に、他のシビアな教室から移ってくる子も結構いるという。
ここの教室に入る条件はただひとつ『バレエが好きなこと』
だから、経験も実力も問わない。通うのだって毎日でも週一でもいい。学校や塾や仕事で忙しくってなかなか来られなくて、月に一、二度ふらっと来てはレッスンを受けていく人もいるという。
プロのバレリーナになりたくて。留学して海外のバレエ団に入りたくて。そういう人たちから見たら随分と緩い、ただのお遊びだって笑われると思う。馬鹿にしてるって怒られるかもしれない。でも「先生、こんにちは!」って次々教室に入ってくる生徒さんたちはみんないい表情をしていた。
「習うからには真摯に向き合って、っていうのはその通りだと思うのよ。でもねえ、バレエに全てを捧げるのでなければ踊ってはいけない、っていうのはちょっと違わないかしらね」
そんなことを言う人もいるけれど、それぞれ事情もあることだし、と真理子先生は言う。
「それを言ったら、もともとが西洋の踊りじゃない。向いている体格も振り付けも歴史も何もかも、向こうが基準だわ。実際に向こうでは選び抜かれた『踊るべき人』が小さい頃から徹底的に鍛え上げられてバレリーナになるのよ、日本の歌舞伎役者やなんかのようにね。じゃあ、生まれた瞬間から骨格的にもアウェイな日本人がわざわざバレエを踊る意味は何? 好きだからじゃ、ダメなの?」
先生の言葉はすとんすとんと胸に落ちる。
「いろんな考え方ややり方があっていいと思うわ。でもね、根っこのところはシンプルでいい。ストイックと排他を取り違えたら、自分が苦しいだけと思わない?」
真理子先生は教え方も丁寧で、指導も的確。実際に手や足を直してくれるのは優衣先生が多いけど、そのサポートも「矯正」じゃなくて「修正」という感じの触り方。優衣先生は国内のコンクールで上位に入って、留学もして、という人だった。多分、この二人で本気で取り組めばそれこそもっと上のレベルなんて簡単に目指せるだろう。
そんな先生たちが、住宅街の中で自宅に併設されたスタジオで、趣味の範疇にとどまるようなバレエをニコニコ楽しそうに教えている。その意味を考えた時に、胸のあたりが軽く、あたたかくなった。
帰宅して、台所のテーブルでお母さんに相談した。これから受験生なのに、今更なんだけど、そう切り出すわたしの話を一通り聞くと、あっさりと「いいんじゃない」と肯定されて気が抜ける。
「反対しないの?」
「うーん、別に反対する理由がねえ。学校と受験勉強はおろそかにしないってあなた言うし。それに遥は自分で決めたんでしょう」
「それはそうだけど」
美桜ちゃんには何かキラキラした目で、いつから習いますかって聞かれたけど、先生たちはゆっくり考えていらっしゃいと送ってくれた。わたしの元の教室でのことも、今の迷いもお見通しな感じだった……そりゃあそうだよね、何年もいろんな生徒さんに教えているんだから、わたしより小柄な人だって当然いただろう。進学との両立で悩む時期も。
だからきっと、前の教室でだってちゃんと相談すればよかったんだ。一緒に解決の方法を探してくれたはずだった。
それすらしないで勝手に諦めて、逃げたのは自分。
「月謝がかかるから高校は公立で出来る限り上のとこ……ってことまで考えてるし」
「だって、趣味の習い事にしてはお金かかるから」
発表会に出ないとはいえ、月謝の他にもトウシューズやなんやで結構かかる。しかも履き潰すし。なんていったって、社宅を出てマイホームにいるのだ。高校生のお兄ちゃんだってこれから大学にもいくだろうし、そんなにぽんぽん使えるお金があるはずもないということは、中学生のわたしにだって分かる。
そんなわたしを見てお母さんは不思議そうに首をかしげる。
「お母さんの茶道だって長い長い趣味で、しかもそれで稼いでいるわけじゃないけど。それなら、娘の好きなことをひとつくらいさせてあげたいと思うのはおかしい?」
「おかし……くない、のかな」
でしょう、と胸を張られた。そしてすっと真面目な顔になる。
「遥があの日、病院でも目を覚まさなくて……このまま意識が戻らないんじゃないかって、本気で思ったわ」
「お母さん」
「死んでしまうんじゃないかって」
テーブルの上に置いたお母さんの手が小さく震えて指がキュッと丸まった。
「月並みだけどね、生きていてくれたらそれでいいって思ったのよ。別にいい子じゃなくていい、勉強だって運動だってどうでもいい。ただ、目を覚ましてくれたらって……だからね、こう言ったら変かしら。遥にそういう期待はしていないの。あ、お兄ちゃんにもだけど」
言われてみれば、必要以上に勉強や塾について言われたことはなかった。時々、学校の様子を聞くくらいだったのは興味がないのではなく、それで満足だったからか。
「生きていく上で幸せになってほしいと、それは本当に思っているわ。でもそれはあくまで、遥にとっての幸せね。いい学校に入って、いい会社に就職して、いいお相手と結婚して……って、その『いい』は世間的にってことじゃないわ。あなたにとっての『いい』よ」
そりゃあ、所謂いい学校に入っていい会社にっていうのが、この国で経済的に幸せという形を得るための一大勢力であることは認めるけど、とお母さんは斜め上を見て言う。
「それにお金が解決してくれることって結構……かなり……ううん、ものすごく多いけど。お金は大事よね、やっぱり実際」
「お母さん……」
せっかく今、いい話っぽかったのに。胡乱げなわたしの方に顔を戻すと、ふと微笑んで真っ直ぐに見つめられた。
「あなたたちがまだお腹にいるときね。産まれるまではただ『無事で、元気に産まれてくれたら』って願っていたのに。いざ産まれてしまえば、そんな風に思っていたことなんかすっかり忘れて不満ばっかりでね。立つことも歩くことも、話すのも書くのも『誰かより早く、上手に』とか思っちゃうのよ。学校に行けばテストの点数だって気になるわ」
「まあ、それは普通、そうなんじゃない」
「でもね、もう一度機会を得てしまったでしょう……生きていてくれたら、それだけでよかったんだって再確認する機会をね」
「……」
「生きてほしいと思う。幸せでいてほしいと思う。そして、お金ではどうしようもないことが確かにある。そのことだけは忘れちゃいけないと思い知らされたのよ。だから、遥がよく考えて決めたことなら反対なんてしないわ」
それにね、とお母さんは懐かしそうな目をした。実はこっちの方の理由が大きいんだけど、と。
「遥が踊るの見るの、好きだったのよ」
辞めたいと言った時も反対されなかった。その裏でこんな風に考えてくれていたと、わたしは少しも知らなかった。
口に出さない思いがある、たったそれだけのことに今まで気付けなかった……それはもしかして、十和田くんのお父さんたちにも。
「……しばらくは、発表会も出ないよ」
「こっそりレッスン見学に行くからいいのよ」
「えっ、恥ずかしい」
だけど『来ないで』とは言えなかったわたしに、お母さんは満足そうに笑っていた。
卒業式の日は朝からよく晴れていた。午前中の風はまだ冷たいけれど、日差しはだいぶ春に近づいている。それにしても、こんなに人がいても体育館は冷えているのはなんでだろう。短いようで長い式が終わる頃には指先まですっかり冷たくなっていた。
短いホームルームのあと、ほのかちゃんや真央ちゃんは先輩の見送りにそれぞれの部活ごとに集まっていった。卒業生は校門から続く坂道を、後輩たちがアーチを作ったり花吹雪をかけたりする中を通って帰って行くのだそう。わたしが所属している家庭科部なんかは、普段の活動が無いのでこういう日も特に何もしない。楽しそうに準備をしている人たちを見ると、少しさみしいというか手持ち無沙汰な気もするけれど、正直なところ家庭科部の先輩の顔も知らないのでやりようもない。
特に仲の良い三年生もいないのでもう帰っていいのだけれど、ほのかちゃんからは「待っててね、絶対!」と言われ、頷いた。
朝から白い顔をして緊張していたほのかちゃん。それもそうだろう、これからとうとう先輩に告白するというのだから。吹奏楽部は昇降口にほど近いところで集まっていた……え、例のあの花束をここで渡すのだろうか。ということは、こんな衆人環視の中での告白になるのだろうか。ほのかちゃん、すごい。そりゃあ、朝から緊張もする。吹奏楽部は人数が多いから、ほのかちゃんの姿は確認できなかった。
卒業生と在校生と保護者と先生と、つまりたくさんの人でごった返す昇降口前をすり抜けて、待ち合わせ場所にしている駐輪場の方へ回った。フェンス越しに見える坂道の途中では、真央ちゃんたちの陸上部や、サッカー部なんかが盛り上がっているのが見える。わたしに気づいた真央ちゃんと手を振りあったりしていると、その向こうによく知った姿があった。
「あ、十和田くんだ」
テニス部も発見。隣にいる境くんも背が高いから、そこだけ目立っている。あちこちから聞こえる「卒業おめでとうございます」の合唱や、大きな拍手、響く運動部の掛け声。音楽部のアカペラ二重奏。
朝よりは温くなった風にさわさわと吹かれてぼんやりと見ているうちに、坂道を下る卒業生はだいぶ少なくなった。振り返ると昇降口の方はあんなにいた人もかなり減って、二、三の部活が残るだけ。と、その中の一団から一人、こっちへ向かってポニーテールを揺らしながら走ってくる女の子がいた――ほのかちゃんだ。
「は、はるちゃんっ」
息を切らしながら抱きつかれて、思わず倒れそうになる。たたらを踏んでどうにか堪えると、ほのかちゃんが顔を上げる前に後ろから声をかけられた。
「ほのか、遥。お待たせ」
「真央ちゃん」
陸上部も見送りが終わったらしい。わたしの肩口に顔を埋めてプルプルしている背中をぽんぽん叩いて促すと、ほのかちゃんはようやく顔を上げた。その表情は朝とは真逆にすごくすっきりしていて、頬は真っ赤に染まっていて。潤んだ瞳に思わずドキっとするくらいだった。
真央ちゃんと顔を見合わせてこっくり頷き合う。
「あ、あ、あのっ、あのね、」
「うん」
「あー、いいよ言わなくて。その顔見れば分かる」
真央ちゃんが少しだけ面倒そうに言うけれど、聞きたくないと思っていないのは明らかで、ほのかちゃんだって止める気はなさそう。仲良いなあ。
「う、嬉しいって、ありがとうって!」
「よかったねえ」
「うんっ!」
よかった、緊張したと、とうとう涙がこぼれたほのかちゃんはまた、わたしの肩に顔を隠してしまった。背の低いわたしに抱きついて随分丸まった背中を、今度は真央ちゃんがぽんぽんと軽く叩く。わたしの耳元ではほのかちゃんが軽く鼻をすすりながら何度もうれしいよう、と呟いていた。
もうじきラストです。最後までお付き合いいただけたら幸せです。




