18
玉子とバターは冷蔵庫から取り出して常温にしてある。オーブン用の四角いブリキの型にクッキングペーパーを敷いていると、インターホンが来客を告げた。
「真央ちゃん、いらっしゃい」
「おじゃまします……なんか、いろいろごめん」
「え、なんで? わたし楽しみにしてたよ、真央ちゃんとお菓子作るの」
バレンタインにチョコが欲しいと境くんに頼まれた真央ちゃん。渋りながらも結局あげることにしたけれど、お菓子なんて作ったことがないと電話で相談された。わたしも作る予定だったから、それならと一緒にブラウニーを作ることになった。
ほのかちゃんには内緒、ということでわたしの家に来てもらったんだけど、なんだか真央ちゃんは落ち着かなさそう……何度か遊びに来てくれていたけど、わたしの部屋ばっかりだったから台所は慣れなくて緊張するのかな。お母さんは火の元に注意するように言うと、二階の部屋に引っ込んでくれたから、誰かに気を使う必要はないのだけれど。
「違う違う、遥がどうこうじゃなくって。もう、こんなのガラじゃなくってやだ」
「大丈夫だよ、難しくないから」
「そうじゃないよ……それにしても、遥の家は仲がいいね」
天井を見上げながら真央ちゃんが言うから、それがお母さんとのことだと分かった。
「え、そうかな」
「親子ゲンカとかなさそう」
「うーん、確かに今まではほとんどないかな……でも」
「でしょー、そんな感じだもん。私なんか、別になんでもないのにどうもイラつくんだよね」
あ、分かる。そう言ったらものすごく意外な顔をされた。
「ええっ、嘘でしょー」
「最近、ちょっとうざいって時がある?」
「あはは、疑問形? しかも最近かあ……私はだいぶ前から常にだな」
肩をすくめたわたしにニヤリと挑むような笑顔の真央ちゃん。そう、今まではなんとも思っていなかったのだけど、ちょっとモヤモヤするようなことがある……記憶が戻ってから。
そんなわたしが自分の気持ちに戸惑っているのを見て、お母さんは嬉しそうにするから余計にイラっとしてしまう。なんでだろう。
「遥も反抗期あるんだ。やっぱり人の子だったねぇ」
「え、何それどういうこと」
「遥みたいにあんまりいい子だと、自分だけが悪い子みたいじゃん」
「真央ちゃんはいい子だよ。わたしは大好きだよ」
「うん、ありがと遥。私も大好きだ!」
真央ちゃんに背中をばんばんと叩かれて二人で笑いながら、支度を始める。
反抗期……そうなんだろうか。あの事件の記憶を失くしていたわたしと、思い出した後の今のわたしは同じようで違うようにも感じる。どちらもわたしではあるけれど。
今になって考えれば、確かに前はお母さんやお父さんにあまり負の感情は持たなかった。かといって、すごく大好きって言う風にも思わなくて「家族として大事」だけど、割と平坦な気持ちで接していたように思う。
だから、何か言われてもそんなもんかとあまり気にしなかったし。ただ、どうしてか心配されているのは分かっていたから、あまり気を遣わせないようにとは思っていた、多分。
最近は帰り時間とか気にされると、平気なのにって不満になったりする……こんな風に思うこと、前はなかったのに。
真央ちゃんの言うように、反抗期ってやつなのかな。それとも、記憶って人の性質や人格も変えるのかな。
なんとも言えない気分になったけれど、自分のお母さんの愚痴を言う真央ちゃんは楽しそうだから、まあいいかと思うことにした。
テキパキと持って来た材料を並べる真央ちゃん。手際の良さはやっぱりしっかり者のそれだ。エプロンをつけて手洗いをして、まずは計量から。前もって作り方を書いた紙は渡しておいたからかすごくスムーズ。わたしの手助けなんかいらなかったみたいだけど、真央ちゃんは一緒がいいと言ってくれた。
「書いてあることは読めばわかるけど、実際にこれで合ってるのかどうかってわかんないじゃない」
「お菓子は分量さえしっかり計れば大体、大丈夫だけど……」
「これだってさ、どのくらいまで混ぜたらいいかとか。玉子を入れるタイミングとか」
「あ、なるほど」
ボウルの中で泡立て器を回す手を休めずに真央ちゃんは言った。今日のブラウニーはいつもと違う。タカノリ先生がチョコレートやココアじゃなくて、カカオマスを使ったレシピを教えてくれたのだ。ちょっと本格派っぽい味になるよ、と言われて一度試してみたら本当に美味しかったから、こっちに変えてみた。
湯煎で溶かしたカカオマスとバターに砂糖を混ぜて、玉子を少しずつ加えていく。分離しないように様子を見て入れていくこの工程、うん、確かにここは少し気をつかう作業かもしれない。でも、ブラウニーはあまりこみ入った手順でもないし、これくらいだけどな。
「それにウチ、ガスオーブンないし。トースターと、レンジについてるオーブン機能だけ」
「そっか。そうだったね」
「そういえば遥は、料理教室のにも行ったんでしょ。そっちのはどうしたの?」
「あ、あれはね、お酒使ったからお父さん用にしたんだ」
ついこの間行って来た、タカノリ先生の特別教室は今回も大盛況だった。メニューはガトーショコラフォンデュと、リキュールたっぷりガナッシュのチョコレートトリュフ。なんとも甘い甘いバレンタイン料理教室だった。
相変わらずのタカノリ先生と、今回講師はもう一人のスペシャルゲストのお友だち。海外のお店での修行から帰国したばかり、というショコラティエールのお姉さんは綺麗な人で……少しだけ雰囲気が絢子さんに似ていた。
「その教えてくれたショコラティエールの人のチョコはね、タカノリ先生のお店で出すんだって」
「へえ。美味しそうだけど高価そう」
「うん、高価いと思う」
チョコレートショップやケーキ屋さんで売っているチョコは高価いなあって思ってたけれど、教室で教わってみてその理由が分かった。材料費もあるだろうけれど、作るときの温度管理から何からすっごい手間がかかってる。お菓子を専門で作るのがパティシエだけど、チョコレートだけはさらに特別な人がいるわけだ。あれ、すごく職人技。
宝石みたいな小さな一粒が、ケーキと同じくらいの値段がしても今なら納得する。
「チョコレートが大好きっていうのがもう、すっごく伝わってくる人でね。作るのは難しかったけど楽しかったよ」
玉子が全部混ざったところに、薄力粉をもう一度ふるいながら加えていく。クルミも入れてさっくり混ぜたら、後は焼くだけ。
「……これでお終い?」
「簡単でびっくりしたでしょ」
「いやいやいや、これ以上は。手に負える範囲でよかったよ」
笑いながら待てば家の中は甘い匂いでいっぱい。ブラウニーの焼き上がりは上々で嬉しくなる。上からかけるチョコレートのアイシングの説明をしていたら、真央ちゃんが少し声を落とした。
「ね、遥。遥はさ、その……十和田が好きなんだよね」
「え、ま、真央ちゃん」
「ああ、いい、答えなくていいから。なーんかねぇ、よくわっかんないよあいつ」
「……境くん?」
眉間にシワを寄せながら難しい顔で頷く真央ちゃん。アイシング用の小さい袋入りのチョコレートを手の中でぐるぐるといじりながら、ぽつぽつ独り言のように口にする。
「本当、わかんない。急にチョコよこせとか。今までだってずっと一緒だったのに」
「真央ちゃん」
「なんだろね、どうしたいっていうんだろ……境も、私も」
別に何か変わるわけじゃないのに、そう言って真央ちゃんは粗熱の取れたブラウニーを切らずに持って帰っていった。
今年のバレンタインデーは平日。もちろん学校もある。そして当然ながら学校にはお菓子は持ち込み禁止で、特にこの日は先生たちのチェックも厳しい。見つかると没収の上、保護者に返却という決まりなので普通の子は学校へは持ってこない。だから友チョコは週末からバレンタイン前日にかけて、放課後なんかに約束して渡すことになる。まあ、遊ぶついでなんだけど、みんな塾や習い事で忙しいからなかなか予定が合わなくて、渡す数が多い子は結構大変そうだった。
わたしは友チョコは真央ちゃんとほのかちゃん、あとは校外学習で同じ班になった女の子たちだけだからそこまでじゃなかった。友チョコ用に作ったのはチョコチップマフィン……ここ二週間はずっとチョコレートばっかりで、さすがにもう、しばらくの間チョコレートはいいかもって気分になった。
そんなわけで十四日の今日も、わたしはまた図書室でテニス部が終わるのを待って、いつものように一緒に帰る。家に着いたところでちょっと待っててもらって、十和田くんに包みを渡すと少し驚いた顔をされた。
「え、なんでびっくりするの?」
「あ……いや、もらえると思ってなかった」
「そう?」
へんなの。十和田くんにあげないで他の誰にあげるっていうんだろう。
「それでね、こっちの袋のは絢子さんと、おーちゃんたちに渡してくれる?」
「いいけど……直接渡さないの?」
「あ、うん。行きたいんだけどね」
「用事?」
頷いて話を続ける。
「真央ちゃんの従姉妹の子がね、バレエやってるんだって。それでわたしの話を聞いたみたいで、一緒にレッスンしたいってずっと誘われてて……」
確かに、引っ越してくる前に習っていたバレエ教室はコンクールに入賞したり留学したりする子も多く出てるところだったけど、わたしはただ習ってるだけだったから。そう言ったんだけど『週三回のレッスンについていってるだけすごい』って返されて。
「そこの先生はベテランでこっちで長く教えている方だし、向こうの先生たちとも繋がりがあるんだろうけど。どれくらい雰囲気とかレッスン内容とかが違うのか見て欲しいって言われて」
割と有名な教室だったから、妙な憧れを持たれているような気がする。コンクールのアドバイスなんて出来ない、そう思って一度は断ったんだけど……お正月明けに家の大掃除をした時に、自分の部屋も片付けたら、クローゼットの奥からぐるぐるに包まれたトウシューズが出てきた。
「もう、すっごいボロボロだったのに、捨てないでとってあったの。自分で辞めるって決めたのに」
バレエは正直なところ、その人の体形がかなりの比重を占める。背の低いわたしはどれだけフェッテを練習しても黒鳥にはなれないし、相手役との身長差からパ・ド・ドゥだって釣り合わない。それでも好きだったから続けて、でも一緒に習っていた子はどんどん遠くに行って。
気にしないと口では言いながら、広がる一方の差を見せつけられ続けて……自分の心の底に溜まっていく靄を認めるのが嫌で、そんな時に引越しの話が出たから、それを言い訳にしてわたしは逃げたんだ。
月謝だって結構かかる。トウシューズなんて消耗品のように履きつぶして放課後のほとんどを踊ってきた。それを全部捨てて、身軽になったつもりだった。それなのに、結局、捨てられなかった。
「だからね、今日行ってくる」
また始めるかどうかは分からない。しかももうすぐ受験生になるっていうのに。それでも、記憶をなくす前から “わたし” が好きだったバレエに、もう一度ちゃんと向き合ってみようって思った。
相変わらず上手くは説明も出来なくて、決して分かりやすいとは言えない。そんなわたしの話を、十和田くんはほんの少しの相づちだけで黙って聞いてくれた。
「何時に行くの」
また一人で歩くのを心配しているその声に、慌てて手を振った。
「遠くはないんだけど、住宅街の中で少しわかりにくい場所にあるからって、今日はその従姉妹ちゃんが迎えにきてくれるんだ。まだ小学生だから、その子のお母さんも一緒に」
帰りも一人じゃないからと言えば、目に見えて安心したようだった。
「そっか、それなら」
「ちゃんと気をつけるよ。十和田くん、ちょっと過保護じゃない? わたし一応、同じ歳なんだけど」
「……それは、仕方ないと思って諦めて」
「だって迷惑かけるじゃない」
「迷惑じゃない」
本当に? そう言って見上げれば、眼鏡の向こうで眼が細まる。頭をぽんぽんと撫でられて――やっぱり、子ども扱いだと思うんだ。
真央ちゃんと境くんのバレンタインの様子は、
『小話の部屋(N0928DT)』の中の
「隣のバレンタイン」「隣のバレンタイン・当日編」に置いてあります。
よろしければ合わせてお楽しみください。




