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春餅を作りましょう、と絢子さんからメールが来たのは一月の終わりの週末。中国の料理で、小さめのクレープみたいな生地を作って野菜やお肉を挟んで食べるのだという。
特に、春一番に採れた野菜を使って冬の終わりをお祝いするというのが向こうの立春のお祝い食と聞いて、七草がゆや恵方巻みたいな季節食なのかなと思った。
「葱やひき肉を最初から包み焼きにする餅もあるけど。皮だけ焼いて、包んで食べるのも楽しいわよ」
「手巻き寿司みたい」
「どっちかっていうと北京ダックかしら」
普段は平日パートのお母さんだけど、急に辞めた人が出たとかで土曜日も時々行くようになった。今日もそうで、昨夜遅かったお父さんはまだ寝ているし、お兄ちゃんは朝から出かけている。
放課後、図書室に行くようになって、宿題もそこで済ませてしまうようになった。特にすることもなく家にいたわたしは、絢子さんのお誘いに速攻で頷いた。
薄力粉と強力粉を合わせ、熱湯を加えて生地を作る。手のひらの付け根を上手に使って返しながら捏ねられていく生地が、どんどんなめらかになってツヤッとしていくのに見とれてしまった。やってごらん、と言われて手を入れれば、張りがあるのにどこかふわんとする不思議な感触で、お湯を使ったせいかほかほかと温かい。
「赤ちゃんの肌みたいになったら、ひとまとめにしてね」
いつまでも触っていたいような気持ちよさだったけど、丸く形を整えてボウルに戻した。濡れ布巾をかけてしばらく寝かせたら、薄く丸く伸ばしてフライパンで焼いていくのだ。
中に包むのはモヤシと春雨、エビを薄味の中華サラダみたいにしたものと、北京ダック風に焼いた鴨肉。スーパーで売っているのは見たことあるけど、家で生の鴨肉なんて買ったことなかった。お惣菜コーナーで、お父さんがおつまみ用にスモークしたのなんかをたまに買うくらい。
蜂蜜で下味をつけた鴨のかたまり肉をフライパンで焼いていく。じゅうじゅうと、お肉から出る脂と蜂蜜の混ざって焼ける匂いがすでに美味しそう。
十和田くんは、わたしが今日も連れて来たコロとおーちゃんと庭で遊んでいる。いや、正確には遊んでくれている。コロは他の犬を怖がるのに、おーちゃんたちは平気らしい。
窓越しに覗いたら、今日は持って来た犬のおもちゃ用のボールを十和田くんに投げてもらって『取ってこい』をみんなでやっているようだ。ほのぼの風景に和む。
「十和田くん、もうじき出来るって」
リビング続きのポーチからそう言えば、一番先にわたしに気づいたおーちゃんが走って来てぽん、と肩に乗っかる。ああもう、可愛い。今日もふわふわの手触りを楽しんでいるうちに、他のおーちゃんたちはみんな家の中に戻ったようだった。
───カシャン。
コロが十和田くんにおとなしく繋がれるのをぼんやり見ていると、庭の向こうで閂を外す音がした。郵便屋さんか何かと思って顔を上げれば、見えたのはスーツにコートの大人の男の人。同じく振り返った十和田くんの表情が固まる。
男の人は真っ直ぐにこちらを向いて、迷いなく近づいて来た。高い背、きちんと整えた髪、きつく閉じられた口元に涼しげな目。よく似てる、けれど少しも似ていない。
……父さん、と、十和田くんの口から声にならない音が聞こえた。
「何をそんなに驚くことがある。親の顔も忘れたか」
帰国は来週と聞いていた、十和田くんのお父さんだった。
どうしよう、すごく居心地がわるい。挨拶もそこそこに庭先で無言で睨みあ……見つめ合う? えと、顔を付き合わせる? いや、なんて言えばいいんだろう。とりあえず「父さんっ」「息子よっ」みたいな感動の再会とかいう雰囲気ではなくて沈黙が重い。
助けを求めておーちゃんを首から下ろして抱きしめると、くりっとした黒目で不思議そうな顔をされた……こんな時でもかわいい。
「二人とも? もう出来るわよ……あら」
「あ、絢子さんっ」
助かった! なかなか戻ってこないわたしを気にしたのだろう、絢子さんがガラスドアから顔を出した。その声に十和田くんのお父さんはようやくこっちを見た。
「いらっしゃい。来週じゃなかった?」
「急に予定が変わりましてね」
「それはお疲れさま。お昼は済んだのかしら」
絢子さんはさすがに驚きを隠せていないが、さほど意外という感じでもなさそうだった。それで結局十和田くんのお父さんも、一緒に春餅を食べることになった。
「ちょうどよかったわ、昨日だったらお茶漬けだったもの」
「それはそれで問題ない」
「やっぱり日本食が恋しい?」
「食べ物にそこまで関心はないな」
大人二人がぽんぽんと話をする中、十和田くんは黙々と食べ続けている。なんとも言えない雰囲気の中での食事がどうなるかと心配したけれど、美味しいものはこんな時でも美味しかった。自分の神経が案外太かったみたいで、それはそれでちょっと落ち込む。
食べられれば何でもいいと興味なさそうにしながら、わたしの真正面に座った十和田くんのお父さんは実は結構な量を食べている。春餅を取る手も、追加で握ったおむすびを取る手も迷いがない。
「それじゃあ今朝着いて、会社の近くのホテルに荷物預けてそのまままっすぐここへ? メールに気づかなくてごめんなさいね」
「いつもの事だ。君にそちら方面の期待はしていない」
料理していたものだからPCも携帯もチェックしていないと軽く謝る絢子さんも、本気で悪いとは思っていなさそうだ。連絡はくれていたんだな。
そして今、私は視線をどこに向けたらいいか困っている。私の膝の上に、いつものおーちゃんがいる。これはいい。
でもどうして、十和田くんのお父さんにおーちゃんたちが登っているんだろう。
膝の上に二匹、肩の上に一匹。足元に四、五匹。さっきから頭の上にも登ろうとしては失敗してメンバーチェンジを繰り返している。見えない人には質量や体温ももちろん感じられないから、お父さんはほぼ無表情で平然としている。真面目な顔のおじさんに群がって遊ぶおーちゃんたち……そのギャップにうっかりすると吹き出してしまいそうで非常につらい。
絢子さんに目で訴えたら、無言で頷いた後にっこりと微笑まれた。堪え切れなくて隣に座る十和田くんに助けを求めるとそっと目を逸らされた……いや、そこ同意してほしい。
鴨肉と長ねぎをのせ、甜麺醤をちょこっとつけて巻いた春餅に意識を集中して口に運べば、図ったかのように頭の上から顔の前にずり落ちるおーちゃん。耐えきれず、ぐ、とも、ふ、ともつかない声が出る。
「……北沢さんといったか。これらが見えるとは、大概非常識なお嬢さんだ」
「父さん、」
「見えなくていいものに、しかもわざわざ会いに来るとは理解に苦しむ」
「初対面の相手に向かって言うことじゃない」
ああ、ダメだ。声音も言葉もキツイけれど、とてもそうは思えない。だって、おーちゃんたちが二匹がかりでお父さんの頬を両側からみょーんって引っ張ってるし、ようやく登頂に成功した子は『オレ、やったぜ!』って顔で、つむじのあたりをパシパシ叩きながら歌ってる。腹筋も口元も抑えるのがつらい。きっと私は今、すごく妙な顔をしていると思う。ダメだ、これでは相づちひとつ打てやしない。
十和田くんが何かお父さんに反論してるけど、かなり動揺しているよね、だって声に勢いがないし語尾が揺れているもの。絢子さんなんか向こう向いて声出さずに笑ってるし。
わたしは膝の上のおーちゃんを下ろすと、ちょっと失礼と断りを入れて席を立った。お父さんの脇に立って、とりあえず頭に登っていた子を抱き上げる。残念そうにしゅんってしてもダメ、もう。
「ご飯中は遊ばないでね、いい?」
目の高さに持ち上げて顔を合わせて言えば、ちょっと不服そう。せっかく遊んでたのにって顔をしている。お願いね、と重ねて頼めば顔を触っていた子たちも手を離して大人しく両肩の上に収まった。
「あの、お話の途中でごめんなさい。どうしても気になって」
「構わない。どうせまた遊ばれていたんだろう。だからこの家に来るのは気が進まないんだ」
「また?」
相変わらず無表情のお父さんの返事に、十和田くんは驚いている。なんだ言っていなかったのか、と聞かれた絢子さんは笑いすぎて目尻にたまった涙を指先でぬぐいながら頷いた。
「貴方が『余計なことを話すな』って言ったのよ」
「これを『余計な事』だと言う君の判断基準はどうなっているんだ」
「私の裁量に任せてくれるのなら、一切合切公開するわ」
「相変わらず考えが足りないようだな」
お父さんの声は平坦で冷たいし、言ってる言葉も怒られていると思ってしまいそう……でも絢子さんは気にした風もなく笑顔だし、おーちゃんたちがわさわさといるせいか怖い感じはしない。
ようやく笑いがおさまった絢子さんは、体の向きを戻すとお茶を一口飲んで十和田くんに向かって言った。
「あなたのお父さんはねえ、見えないけれどやたら好かれるの。好かれるって言うか、まあ、イジられるタイプなのね。うちの子たちに限って、みたいだけど」
「見えないのをいいことに勝手をされるのは非常に不愉快だ」
お父さんは絢子さんの言葉を否定せず、ムッとしながらも食事を進める。十和田くんは全く予想外だったみたいで手が止まったままだ。
「な、そんなこと、今まで……」
「言ってどうなるものでもないだろう。話す意味がない。意思疎通ができるお前とは違って私には見えないし、感じられもしない。それが全てだ」
「相変わらずねえ」
絢子さんは少し困ったように息を吐いた。だから誤解されるのよ、との小さな呟きを耳ざとく拾って反論する。
「誤解のないように端的に説明しているのに不満か」
「事実だけじゃなく感情を言葉にする必要もあるのよ、ご存知?」
「無駄なこと。感情の共有など不可能だし不要だろう」
「理解と共感よ。不器用なんだから、ねえ、遥ちゃん」
「っえ、ええ?」
急に振らないでっ、絢子さん!? あわわと困っていたら、十和田くんのお父さんは大きくため息をついた……膝と両肩に、おーちゃんを山盛り乗せたままで。
「君にだって迷惑な話だろう。だいたい、誰に話したところで馬鹿にされるか、正気を疑われるのが落ちだ。実際、常識的な神経を持っていたら客観的に考えて、とてもまともとは言えまい」
「あ、あの、そうですね、見えない人にはなかなか話しづらいと、おもいます」
私の中途半端な応えも気にせず、お父さんはこっちを見たまま箸を置いた。ぎ、と椅子の背にもたれ、胸の前あたりで組んだ長い指先の形が、十和田くんのに似ていると思って……ふと、この前の公園で触れた手の感触が蘇って、慌てて気持ちを今に戻す。
「実際、どう思っているんだ? これらについて」
これら……おーちゃんたちや、時々見える “ナニカ” 。現れては消えていく、普段は見えないものたち。
絢子さんも十和田くんもわたしの返事を待っているようだった。
「……わたし、海みたいだなって、思いました」
「海?」
「あ、うん。そう」
十和田くんに見上げられて、立ったままだったことに気づいた。席に戻るとおーちゃんが膝に登ってそのまま肩まで上がって来る。頬ずりしてくる毛玉を撫でながら、思ったままに話す。
「あの、海って広くて深くて……解明されていないこともたくさんあるって聞いたことがあります。深海は宇宙に行くのと同じくらい難しいって。だから、似てるなあと」
地球上の大部分を占める海。誰もが皆、海を知っているけれど、海の全てを知ることはできない。
わたしが実際に知っているのは小さいころに海水浴で行った浜辺と遊泳区内の狭い範囲。遠い沖合も深い水底も、そこにすむ生き物も、実際には知らないし知り得ない。
お母さんと手を繋いで歩いた波打ち際。指さされた先の空と海が溶ける境は近くて遠い。
引き波に足元の砂を攫われながら、今触れているこの海が、夜の空と同じくらい遠く感じた。
誰も知らない深海魚がいるように。決して行き着けない光も届かない海底が、それでもそこに確かにあるように。
「見えないだけで、いるものなら、運が良ければ会うこともあるのかなあ、って……」
あれ、変なこと言ったかな。やっぱりわたしは自分の気持ちや考えを説明するのが上手くない。しばしの沈黙を破ったのは、十和田くんのお父さんだった。
「……なるほど。やはり非常識なお嬢さんだ」
言葉だけを書き出せば、わたしを責めるような冷たい相づちだけど。
組んだ長い指先の陰で愉しそうに上がった口角と、少し細められた目尻。それに、いい子いい子とお父さんの短い髪を撫でるおーちゃんたち。
わたしの耳元で小さくきらめく、おーちゃんの声が何かを伝えてくる……お父さんの言葉に込められた意味が、わたしの感じた通りなら。
自分の顔が赤くなるのが分かる。
「そうなら……嬉しい、です」
照れるわたしと、満足そうに喉の奥で笑うお父さんを、目を丸くして交互に見つめる十和田くん。
首に巻き付いたおーちゃんに顔を埋めて、ふわふわの毛越しに見えた絢子さんは、お母さんのような顔をして笑っていた。




