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何かあったら協力するからって言っておいて。そう十和田くんへの伝言をわたしに託して、タカノリ先生は家の前で手を振ると駅に向かって戻って行った。
今までの話から、待ち望んだ再会ではないらしいことはよくわかった。わたしでも多分、積極的に会いたいとは言えない気がする……でも、絢子さんは『ちょっとすれ違ってるだけ』って言うし。それに第一、十和田くんのお父さんなんだよね。本当にひどい人だったら、十和田くんみたいな男の子になるかなあ。
自分からはあまり話さないし、少しぶっきらぼうだけど、優しくて。
「……何やってるの、遥?」
「お、お母さんっ」
コロを繋いで玄関に回り、ポケットから出したキーホルダーを見つめたまま固まっていたら、ガチャリとドアが開いてお母さんが顔を出した。
「帰って来た音がしたのに、さっぱり中に入らないから。具合でも悪いの?」
「え、違うよ、ちょっとぼーっとしちゃってただけ」
「そう?」
こくこくと頷くわたしにまだ少し怪訝そう。慌てて言葉を探した。
「絢子さんにお土産渡して来たよ。そしたら、お家でタカノリ先生と一緒になってね、バレンタインの講座も受けにおいでって席とっててくれたの」
「あらホント? よかったわね、美味しいのが作れそうじゃない」
「そうなの。今度のはタカノリ先生の知り合いのショコラティエの人もサプライズで来てくれるんだって」
へええ、と目を丸くするお母さん。うん、わたしも聞いて驚いた。内容はお楽しみにね、と内緒にされたけど、なんだかとても豪華になりそうでワクワクしている。
「すごい。楽しそうね」
「お母さんが行く? クリスマスケーキのにわたしが行ったから、今度は」
「うーん、いいわ、お父さんチョコレートはすごく好きってわけでもでないから。愛娘が作ったのなら喜んで食べるでしょうから、遥に任せる」
愛娘、なんて言われるとなんだかこそばゆい……心配ばかりかけているのに。もう一度促されて家の中に入り、天気予報が見たくてテレビをつけるとちょうどニュースの時間だった。
アナウンサーが堅い声で読み上げる記事は、今日の昼間に起こったという地方の駅前での通り魔事件。歩いていた女性と小学生が被害に遭ったと告げる画面を眺めるわたしの後ろで、お母さんが息を呑むのがわかった。
「……嫌な事件ね」
こういうのは見たくないわ、と平気そうに言いながら、リモコンを探す手が小さく震えている。お母さんはこの手のニュースになると必ずテレビを消すか局を変える。いつもそうだった。喜んで観るようなものでもないから、そんなものだと思っていた……この間までは。
わたしは思い切って口を開く。
「ねえ、お母さん。あんまり心配しなくても大丈夫だよ」
「え、遥?」
「あれはお母さんのせいじゃないんだし」
立ち尽くすお母さんの手から、リモコンが音を立てて床に落ちる。消しそこなったテレビからは街の人のインタビューが流れている。『信じられない』『突然で』『悲鳴が』……ソファーから立ち上がるとリモコンを拾って、電源を切った。
「わたしの時も同じだった?」
「遥、あなた、思い出したの……?」
「全部じゃないけど、多分」
……クリスマスに。十和田くんと向かいあった、あの時に。ふと見えた病院の中庭の映像ををきっかけに、少しずつ戻ってきた記憶。
「さすがに小さい頃のことだから『思い出した』って言ったって、そんなにたくさんは覚えていないよ。でもね、失くしたんじゃなくて、普通に忘れたっていう風に感じるんだ」
「あ、あの時の、事は……?」
仲良しだった女の子と大きな山を作って砂場で遊んでいたら、急に影がかかって。お母さんかと思って振り向いて見上げたら違った。逆光で顔は見えない。分かったのは黒い服、振り上げた腕、その先の棒についた小枝。よく分からないままに、怖くて首をすくめて目をかたく閉じた。
次に目を開けたら、知らない天井で、お母さんがすごく泣いていて。頭に巻かれた布で片目が塞がってて。まだ明るいのにお父さんがなんでいるんだろうって不思議に思った。
「怖かったのは何となく。痛かったかどうかはわかんないな。入院してたんでしょ? それもあんまり。中庭に行ったのと、包帯を巻いてもらったのは覚えてる」
「そう……そうなの……」
「おばあちゃんに聞いたよ……ごめんね、今まで」
思い出したこと、最初にお母さんに言うべきだったかもしれないけれど、何故かそうできなくて、最初に話したのはおばあちゃんだった。お母さんはおばあちゃんにわたしのことをよく相談していた……おばあちゃんとお父さんの他に話せる人がいなかったから。
年末に、おばあちゃんの犬の散歩をしながらいっぱいお喋りした。事件のこと、わたしの記憶のこと、お母さんのこと。お母さんにはわたしが自分で言うからと、おばあちゃんには黙っていてもらった。思い出してみれば、いろいろわかる。お母さんがぎこちない時や無駄に自信たっぷりの時に、少し妙だなと感じることがあった。あれは私のことをこっそり心配していたんだろう。
多分、わたしが記憶を失くさなければ、お母さんはこんなに長く苦しまなかった。酷いことがあったよねって、もっと早くに言い合えて、それで終わりに出来ていたはずなんだ。
「……何となく、おばあちゃんの所にいる時から……遥の雰囲気が少し変わった気がしていたの。そうだったの……」
「うん」
「もう、怖くないの?」
男の人のことだろう。犯人と結びつくものを特に怖がったと、おばあちゃんから聞いた。だからお父さんも拒否されて、すごくショック受けてたって聞いた。ごめんね、覚えていないけど。
「うーん、どうだろう。でも、お父さんも、学校の先生も、タカノリ先生も大丈夫みたいだったから。あ、でも、黒いスーツは一瞬だけギョッとしちゃうかも」
セレモニー会場は苦手かもね。冗談っぽくそう言えば、お母さんはようやく泣き笑いの顔を見せた。
怖いはずの思い出がそうでないのは、きっと、一緒に思い出した中庭の……十和田くんのおかげなんじゃないかなって思う。
「あ、遥ちゃんっ」
ほのかちゃんと真央ちゃんにさよならして昇降口で靴を履き替えていたら、後ろから声を掛けられた。驚いて顔をあげれば、真央ちゃんと仲の良いテニス部の。
「帰るとこ?」
「うん、そう。境くんは部活……だよね」
ジャージに着替えて運動靴を手に持ったまま、境くんはにこりと笑って肯定する。
「三学期は短いからね、やれるときにやっとかないと」
言いながらわたしのすぐ脇にとさりと靴を落とすと、トントンと足を入れ靴紐に手を掛けた。それじゃあ、と言う前にまた話しかけられる。
「ねえ、遥ちゃんはバレンタインもう決めてる?」
「え?」
バレンタイン? なんで? そして、境くんわたしのこと「北沢さん」じゃなくて名前になってる? いくつものハテナが頭に浮かぶ。
にこにことこちらを見上げる屈託の無いその問いにどう答えたらいいか困っていると、黒いノートがいい音を立てて境くんの頭に落ちた。
「いって、びっくりしたぁ」
「何言ってんの、お前」
「あ、十和田くん」
面白くなさそうな顔で立っている十和田くんと目があった……ら、逸らされた。
「いやいや、そういう意味ではなくてですね、純粋にこう、どうなのかなーって」
「チョコのこと? お父さんとお兄ちゃんには毎年あげてるけど……?」
「あ、そうなんだ。じゃあさ、今年はオレらにも、ってハイ、ゴメンナサイ」
なんか境くんが急に怯えてる風になったけれど、十和田くんがどうかしたのかは立ち上がった境くんの影になってよく見えない。呆れたような声だけが聞こえた。
「お前なあ」
「えー、いいじゃん、欲しいんだから」
「え、チョコ欲しいの?」
「北沢さん、こんな奴の言うことなんか気にしないでいいよ」
軽くため息まじりに言うと、十和田くんも靴を履き替える。なんか期待している表情でこちらを見ている境くんに向かってわたしは言った。
「いいよ。境くんがチョコ欲しいって言ってたって、真央ちゃんに伝えておくね」
「ああ、そうだな。それがいい」
ええっ、とかなり驚いた境くんは、いやそれはとかゴニョゴニョ言いながら慌てて校庭の方へ走って行ってしまった。あっという間に小さくなる背中を見ながら十和田くんと二人、昇降口で立ち尽くす。
「あれ、そういうことだよね。違ったのかな?」
「いや、間違ってないと思う……北沢さん、ごめん」
「え、なに? なんかわたしが謝られることってあった?」
「……マフラー、借りっぱなしで」
見上げれば申し訳なさそうに目線を下にずらされた。あ、良かった、そんなこと。
「大丈夫、ほらわたし違うのもあるし」
これ、と首に巻いた赤いタータンチェックのマフラーを触りながら言えば、あの夜のことを急に思い出して顔が熱くなる。そういえば、ちゃんと会うのはあれ以来で……どうしよう、顔が上げられない。
下を向いたわたしの目に入ったのは、ノートとは別の手に持った濃紺色のタオル。
「あ、使ってくれてるんだ。よかった」
「え……ああ、うん」
思わず口に出てしまった。使うくらいには気に入ってくれたのだろう、嬉しくて顔を上げたらバッチリ目が合って慌ててまた目を逸らす……もう、なにやってるんだろう、わたし。心臓がうるさい。
首元のマフラーから手を下げて、バレエの発表会でだってこんなに鳴らなかった胸元を押さえる。
十和田くんが何か言いかけた、そのとき。
……ざわり
校内の階段の方から背中にかかる黒い気配にピクリと肩が震えた。
急に変わった空気にさっきまで聞こえていたすべての音が消される。
あんなにうるさかった心臓の音さえも聞こえない。何かいる。
なにか、いる。
おばあちゃんの家の近くの森や、夏に家族で行った海の夜。近くにお兄ちゃんが、お母さんがいるのに一人ぼっちのような。普段と変わるはずがないのに、景色の色まで違って見えるような。そんなのとは比べものにならないくらい、異質な空気。きこえない、なにも。
見えないくせに背後に感じるのは、まるで穴が空いているような……黒い、黒い靄。こんなの知らない。わたしの知っている全てと違う。これは、違う。
自分の意思とは関係なく思わず振り向こうとしたわたしの腕を、十和田くんに引っ張られた。二歩よろけるだけでぴったりと近づく。目の前に見えるジャージの胸の名札が、近いのに遠く感じた。
「……後ろ向かないで。静かにそのまま」
見上げた十和田くんの口の動きと声とが、微妙にずれている気がした。
頷くことも出来ないでいるわたしの肩に手を回して庇うようにして後退りながら、後ろからは目を離さずにゆっくり自然な動作で外へと向かわせる。
体全部が昇降口の外に出て、傾きかけた日差しにさらされて、ようやく凍るような気配が離れた。校庭に響くかけ声、野球部のキャッチボールの音、二階の教室から聞こえる吹奏楽部のパート練習……音が、聞こえる。自分の鼓動も聞こえる。わたしは大きく息を吐いた。
「あ……いま、今のは」
気が抜けて、そう言いながらへたり込んだわたしを引き上げてくれた十和田くんは、最高に不機嫌な顔をしていた。
「……ごめん。俺といたからだ……怖かったろ」
「あ、怖くは、なかった。けど、すごく変な感じ」
「怖くなかった?」
「うん。ええとね、怖いっていうより、普通じゃないって感じで。うーんと、ものすごい違和感! な感じだったって言えばいいのかな」
知らない気配がものすごくしたけど、それは恐怖というものではなく、ただひたすらに『違う』と感じるものだった。
わたしの話を眉を寄せながら聞いていた十和田くんは、黙って少し考え込むようにしていたけれど、やがて口を開いた。
「帰りは一人?」
「うん。真央ちゃんもほのかちゃんも部活だし」
「そうだよな……少しここで待ってて。 境に休むって言ってくる」
「えっ? いいよ、大丈夫、一人で帰れるよ。もう、いないでしょ?」
さっきまでの気配は跡形もない。昇降口の奥を覗き込んでも、いつもの校内だ。
「閉じたからそれは大丈夫だけど」
「平気だよ。もう何回も部活休ませちゃってるし」
「……やっぱり駄目。ここにいて、すぐ戻るから」
「でも、」
「いいから」
手すりにもたれかかるようにさせられて、まっすぐに言われたらもう、断れなかった。わかったと、小さく頷くとほっとした顔をして校庭に走っていく十和田くん……その後ろ姿に、『十和田の男は頑固なのよ』そう言って笑った絢子さんの声が聞こえた気がした。




