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「ご、ごめんね、送ってもらっちゃって」
「別に。ついでだから」
「だって明日テスト……」
「スーパーに行くくらい。何も変わらないし」
十和田くんは同じ中学の、しかも同級生だった。
この春、新しく造成された住宅地に引越してきた転入生のわたしは、二学期も半ばなのに六クラスある自分の学年の同級生をまだ覚えていない。女の子でさえクラスメイトや合同授業のある隣のクラスくらいしかはっきりしないのに、遠くのクラスの男子なんかよっぽど目立つ人でなければちっとも分からない。そもそも人の顔と名前を覚えるのが苦手なのだ。
そんなわたしに十和田くんは嫌な顔もせずに挨拶してくれた。自分も去年、入学に合わせてきた転校生だから同じようなものだと。
『親が仕事であっちこっち行って。何度も転校するのも面倒だから絢子さんのところに来たんだ』
親戚なのだという。十和田くんのお父さんのお兄さんが、絢子さんの旦那さん……うん、伯母さんってことでいいんだよね。共働きのご両親、今は海外だそうで。へええ。
伯父さんは、数年前に亡くなってるそう……なんて言っていいか分からず口ごもったわたしに、今は甥っ子と二人暮らしだから寂しくないのよと、絢子さんは庭に目をやりながら言ってくれた。きっとこの庭はその旦那さんの思い出がたくさんあるんだろう。絢子さんの優しそうな目を見てそう思った。
絢子さんの家は古い住宅街の奥にある。新興住宅地の私の家の方と違って一軒一軒の敷地は広いけれど、その分道が狭く、ちょっと……いや、かなり入り組んでいる。玉子を買い直すついでに分かりやすい所まで送ってあげて、と絢子さんは笑顔で手を振った。
男の子に送ってもらうなんて、と思ったけれど迷わずに行く自信がない。この辺は中学生は少ないというから誰かに見られることもないだろう、ちょっと恥ずかしいけれど申し出に甘えることにした。
「道なりなんだけど、その道自体が曲がっているから分かりにくいんだ。目印になるようなものもないし」
「うん。迷子になりそう」
「俺も最初は何度か迷った」
まあ、帰れたけど、そう言った後はお互いに口を閉じてしまった。どうしよう。男の子となんて、何を話したらいいか分からない。お兄ちゃんとだって小さい頃ならともかく、最近はおしゃべりなんか大してしない。お兄ちゃんが少し遠い高校に合格して、帰りが遅くなるようになってからはなおさら。
そういえば十和田くんが自分を “俺” と言ったのが少し意外だった。話し方自体は少しぶっきらぼうだけれど、柔らかい声がそう感じさせない。女子を揶揄うか無視するだけの学校の男子とは違った接し方に戸惑う……こんな男の子もいたんだ。それとも、学校の外で会えばみんなこうなんだろうか。
コロを引いているからそこまでではないけれど、二人しかいない状況でこの沈黙は結構辛い。話題を探して隣を歩く男の子を見上げ……背、高いなぁ。私が小さいのもあるんだろうけれど、お兄ちゃんと同じくらいかな。そう思っていたら、視線を感じたらしい十和田くんがこっちを見下ろしてばっちり目が合ってしまった。わわわ、どうしよう。
「あ、あの、すごく可愛いお家だったね。絵本に出てくるみたい」
「絵本」
「そ、そう。あの、小人とか魔法使いとか住んでそうな!」
「……」
ああっ、見事に引かれた。そんなに怪訝そうな顔でこっちを見ないでほしい。そうだよね、中学生の男の子が “小人がいそうな家に住んでるね” なんて言われたって嬉しくないよね……わたしはああいうお家、すごく好きだけど。なんなら住みたいくらい。
あ、お父さんが一生懸命働いて買ってくれた今の家に文句は無いっ、ないよっ? 自分の部屋もあるしっ。でも、なんていうのかな、小さい頃に絵本で見たそのまんまのお家なんだもん。ぐりやぐらが住んでそうなんだもん。憧れるのは、いいよね。
あわあわしながら言い訳のようにそんなことを話すわたしを、十和田くんは眉間にちょっとシワを寄せたまま黙って見ていた……はあぁ、またやってしまった。
わたしは話すのが苦手だ。言葉を探すのが遅くて、どう思う? って聞かれても、考えている間にみんなの話はどんどん流れていってしまう。それで何か喋らなきゃと焦って、つい思いついたままを口に出してしまうと今度は周りを困らせてしまう。
怒る人は居なかったから悪口とは取られていないとは思うけど『なんだコイツ』って顔で見られてしまうことが多い。きっと大分ずれたことを言ってしまっているんだろう。だから普段は聞き役になるんだけれど、沈黙はもっと苦手で頑張ったら結局こうだ……ダメだなあ、わたし。
それでも今の中学に転校してきてすぐ、こんなわたしと仲良くしてくれるお友だちが二人もできたのは本当にラッキーだった。前に住んでいたとこよりも田舎だから、のんびりした子が多いんじゃない? なんて、微妙に失礼なことをお母さんは言っていたけれど。でも、ちょっとそうかも、と思う。
前のところはどこかみんな忙しそうだった。ここは電車で三十分しか離れていないのに、すごく空も広く感じる。学校に行って、習い事や塾に通ってとやっていることは同じなのに、不思議。前の場所や人たちが嫌いなわけではないけれど、わたしはここの方が好き。
人見知りも、口下手なところも直したいと思うのに、どうも上手くいかない。大人になれば少しはよくなるのかな。
今も、もうそれ以上話す言葉が思いつかないまま諦めて足だけを動かしていると、十和田くんは曲がり角の向こうに見えたコンビニを指差した。
「あそこは知ってる? コンビニの前の道路をずっと行くと市のホールがあるんだけど」
「……あ、うん、分かる! そうか、ここに出るんだ。あっちこっちうろうろして全然違う道通ってた」
十和田くんの言う通り、コンビニの向こうにはよく知る建物の裏側が見える。この辺で一番大きな建物なんだけれども、二階建てで高さはないから遠くからだと見えなかったんだ。コンサートなんかをする大小のホールと、小さい図書館と市役所の出張所が併設されている。ここからなら十分も歩けば家に着く。
自分のいる場所がようやく分かってあからさまにほっとしたのが面白かったのだろう、大きな声を上げたわたしに十和田くんは眼鏡の奥の瞳を開いて一瞬遅れて少しだけ笑顔になった……笑った顔、初めて見た。
大人っぽい顔立ちが急に幼く見えて、ちょっと、びっくりした。でもそれを言ったらなんだかいけない気がして、気づかないふりで慌ててお礼を言うと、うん、と頷いて名残惜しそうにコロを優しい手つきで撫でる。
「じゃあな、コロ」
「……犬、好き?」
「生き物は好きだよ、犬でも猫でも鳥でも。絢子さんも日中は留守が多いし、居候だから飼えないけどね」
それじゃあ、ありがとう、とお互いにひとことずつ言って私たちは別れた。そのままわたしの家とは逆方向にあるスーパーに向かっていく後ろ姿をなんとなく見送ると、コロを連れて歩き出す。
保護犬のコロは引越しと同時期にお父さんが引き取ってきた犬だ。お母さんにも相談もなしで急に、本当に突然連れて来た。お母さんは驚いて、勝手なことをするとお父さんを怒っていたけどわたしは嬉しかった。社宅のアパートから出たら、犬か猫を飼うのが夢だったから。
柴犬がまじっているらしい毛の色は薄い茶色で、靴下を履いているように四本の足先だけ白い。家に来た時は既に成犬でとてもおとなしい子だった。どういう状況で保護されたのかは聞いていない。
最初は慣れない環境に戸惑っているみたいで犬小屋の奥でビクビクしてばかりいたコロ。名前を呼んで、近寄ってきたときだけそっと撫でて、ご飯をあげて少しずつ散歩して。毎日毎日、時間があれば犬小屋を覗いていたら、お母さんにもお兄ちゃんにも、連れてきたお父さんにも滅多に振らない尻尾をわたしにだけは振ってくれるようになった。だからますます可愛いって思う……最近はお母さんにも振るけど。いいんだ、一番はもらったんだから。
たとえ中間試験直前に結局二時間近くなった散歩に付き合わされたとしても、そのクリンとした目を見てしまうと許しちゃうくらいには大好きだ。
「さ、帰ろうコロ。遅くなっちゃったけど、なんか……連れてきてくれて、ありがとうね」
聞いているのかいないのか。楽しげに揺れる巻き上がった尻尾をぷるりと振って、帰り道を急ぐ……そういえば。家族以外をまだ怖がるコロが、絢子さんと十和田くんにはおとなしく撫でられていた。他人に少しは慣れたのかな。そうならいいな。
家に帰るとお母さんは既にパートから戻って夕飯の支度をしていた。手元を覗き込むと、ひき肉を捏ねている。やった、ハンバーグだ。うちはいつも煮込みハンバーグ、コロンと厚みのあるタイプ、今日はゆで玉子入るかな。
「おかえり、随分遅かったのね」
「コロが帰りたがらなくて」
そう、とそれだけで心配している様子はない。防犯ブザーと小さいライトがコロのお散歩バッグには入っているし、散歩が長くなるのはまあ、よくあるので慣れているのだ。まだ明るいし。
「手伝う?」
「そうね、それじゃ……あら、そういえば中間試験っていつからだった? 」
「あ、やっぱりわたし部屋に行くねっ。勉強しなきゃ」
「こら、ちょっと遥」
お母さんが気付かなくていいことをこれ以上思い出す前に、慌てて二階の自分の部屋へと戻った。
机に向かい教科書とノートを広げようとしてさっきまでのことを思い出す。
先生や親戚以外の大人とあんなに話したのは、ほとんど初めてかもしれない。確かに初対面のはずなのにそうは思えなかったのはなんでだろう。怪我の具合も気になるしまた今度遊びに来て、と約束させられた……させられた、と言うけれどわたしもまた会いたいと思った。あの絵本やおとぎ話みたいなお家にもまた行きたいと。
絢子さんは電車で少し行った先の料理教室で働いているそう。先生かと聞いたら、気楽なアシスタントよと笑った。エプロン姿の絢子さんを想像して、あまりのはまり具合につい小さく笑ってしまった……三角巾や割烹着も似合いそう。
『アシスタントなんて言うと格好いいけれど、まあ、雑用のお手伝いさんね。四時過ぎには毎日帰っているわ。あと、火曜日と週末もお休み。いつでも遊びに来てね』
朗らかに言う絢子さんと、あまり表情の変わらない十和田くん。十和田くんは絢子さんの前でも静かな男の子だった。初対面だからかもしれないけれど、クラスの男子みたいにガヤガヤしたところが無い。でも、暗いとか無表情っていうのとはちょっと違くて……「落ち着いている」うん、そういうのが一番合う。
さらっとしているけれど腰の強そうな少し長めの髪、賢そうな細い黒フレームの眼鏡。話していない時はきちんと閉じられている口元。中二なのに、同じ年なのに。やけに大人っぽい感じがして、十和田くんみたいな人はつまんないことでいちいち悩んだり落ち込むこともなさそうで、少し羨ましく思った。
ポケットから絢子さんが渡してくれた名刺を取り出す。裏には手書きで自宅の住所と携帯番号と、アドレス。教科書を脇によけてノートパソコンを開くとメール画面を出した。
『北沢遥です。帰宅しました。今日はありがとうございました』
悩んで何度も書き直して、結局つまらない一言を送信する。話すのもだけど、書くのも苦手。こういう時に十和田くんだったら、考えなくてもさっと文章を打ちそうな気がする。数分もたたずに届いた返信は絢子さんの柔らかい笑顔を思い出させた。
『無事にお家へ到着、安心しました。帰りも遅くなってご両親に心配かけてしまったわね、ごめんなさい。次に会えるのを楽しみにしています。本当にいつでも来てね、拓海の学校での様子も聞きたいし(これは内緒ね!)』
学校のこと、ちっとも話してくれないのよ、と帰り際にこっそりわたしに耳打ちした絢子さん。わたしは一組、十和田くんは五組……多分、廊下ですれ違うくらいはしていただろうけれど、今日初めて認識しました。ごめんなさい、十和田くんの学校の様子は分かりません。
ほのかちゃんや真央ちゃんなら知っているかな。仲良くしている友達に聞いてみたい気がするけれど……陸上一筋の真央ちゃんはともかく、ほのかちゃんは片思いの先輩のことで頭が一杯だから、男の子の名前なんて出したらすぐ片思い仲間にされちゃう。そんなんじゃないって言っても聞かないんだろうなあ。
ぼんやりと地図アプリを立ち上げて、絢子さんの家の場所を確認する。市のホールからの道順をディスプレイの上から指でなぞると、道の曲がり具合がよく分かった。本当に、うねうねしてる。絢子さんの家の裏の雑木林は、隣の市との境にもなっていた。
ご飯よ、と階下からかかる母の声に気がついた時、教科書はまだ閉じられたままだった……食べたら、頑張ろう。うん。
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「……いただきます」
「はい、どうぞ」
たっぷりの大根おろしが添えられた西京焼き、きんぴらごぼう、かぼちゃサラダ。豆腐とワカメの味噌汁。使い込まれ磨かれて飴色になった広いダイニングテーブルには随分渋いメニューが並ぶ。
「なあに、ご不満?」
「別に」
面白いものを見るように絢子は拓海を眺めた。
「テスト前で夜更かしするんでしょう。夕飯はこれくらいの方がいいわよ。お夜食にあとでカニ雑炊作ってあげるわね」
言いたいことを先回りで解決されて。よっぽどこの人の方が本当の母親らしい。ふふ、と思い出し笑いをする絢子は楽しそうだ。その口が次に何を言うのか、拓海には手に取るように分かった。
「なに」
「可愛い子ね、遥ちゃん。コロちゃんも」
ほろりとほぐれる白身の魚は脂がのっていて肉に負けない食べ応えがある。味噌だれも焦がさずに綺麗に焼き色をつける伯母は実に料理上手と言えるだろう。あれもこれも、買った惣菜をパックのまま一人で食べていた時には知らなかった味。
「関係ないよ」
「そう?」
「……絢子さんは楽天的すぎる」
「それが私の役目だもの。また来てくれたら嬉しいわね」
送って行った帰り道。小人が住むような可愛い家だと目を輝かせた笑顔が頭をよぎる。風に揺すられた樹が鳴らした鈴の音を聞いたのは、何年振りだったろう。
何か言おうとした口は魚を押し込んで閉じた。テレビが用をなさないこの家で、ダイニングには伯父の遺したレコードがゆったりと流れている。語るように歌う声はつかみどころのない風のようだ。
「……和食にシャンソンは合わないよ」
「いいのよ、フランスも日本もご飯がおいしい国だもの。ねえ?」
台所の隅ではいくつかの小さなきらめきが音楽に合わせて揺れていた。