閑話
絢子視点
住宅街の細い路地に消えていく二人の背中を見送ると、遥ちゃんから受け取ったうちの子達を両手に家の中に戻る。先ほどまでの光と音がまだ、目の前にあるようだ。
「……あなたたち、実は色々持ってるのねえ」
馨さんがビスクドールと言ったこの子達はきょとりとした顔でこちらを見上げると、緩めた腕から軽く飛び降りて部屋の陰に消えていってしまった。相変わらずマイペースだこと。綺麗に片付いた台所でマグカップに白湯を入れると椅子を引き寄せて座る。
急に静かになった家の中は先ほどまでの賑やかさが嘘のようにしんとして、でも確かに何かに満たされていて寂しいとは思わなかった。
「楽しいクリスマスイブだわ。ねえ、馨さん」
いつも彼が座っていた椅子に向かって話しかける。返事を期待するわけはないけれど、どうしたってこの癖がやめられない。
「遥ちゃんは、いい子ね。もう少し自分に自信持ってもいいと思うけれど……まだ、難しいかしらね」
心の傷は見えないほど深い。本人に自覚がなければ、なおさら。私は遥ちゃんのお母さん……沙希子さんとの話を思い出していた。
「あの子は、小さい時に事件に巻き込まれているんです」
沙希子さんと遥ちゃんが初めて一緒にこの家に来た後、何日かして、聞いて欲しいことがあると沙希子さんはひとり私のもとを訪れた。
娘一人にあれこれと出しゃばって過保護だと思うでしょうと軽く自嘲気味に笑んだあと、ふっと目線を落として手の中のカップを見つめた沙希子さん。そんなことは、と言いかけた私に、ごく親しい人には話しているとゆっくりと口にする。
「……それを、私が聞いてもいいの? もちろん口外なんてしないけど」
「ええ、絢子さんには知っていて欲しくて。あの子が……遥が自分から誰かに近づくのは本当に珍しいから。それに私だって、多少は人を見る目があると思うのよ」
わざといたずらっぽく言う沙希子さんに少しだけ肩の力が抜ける。そんなに長い話ではない、というが痛々しい話ではあった。言葉を選びつつも迷いのない口振りに、母親としての姿勢が見える気がした。
幼稚園を卒園したばかりの遥ちゃんと小学生のお兄ちゃんを連れて、少し遠くの大きな公園に行ったそう。小学校が別れてしまう幼稚園の仲良しさんとの、お別れ会のようなお出かけ。早咲きの桜が咲く暖かい日で、一緒に行った何組かの親子と遊具で遊んだりお弁当を食べたりと、楽しい休日になるはずだった。
平日にもかかわらず春休みの公園は人が多く、営業中の休憩かサラリーマンらしき人の姿もちらほら見られたという。
「お兄ちゃんが、蹴飛ばしたボールを追いかけて道路に出そうになって。砂場にいた遥はお友達と一緒だったし近くに他のお母さんもいたから、私は慌ててお兄ちゃんを追いかけたの」
危うく車道に飛び出すところだった兄を捕まえて叱ろうとしたところで、背後で悲鳴が上がった。振り返った目に飛び込んで来たのは、手に木の棒を持って幽鬼のように砂場に立つ黒いスーツの男と、その足元にうつ伏せて倒れている女の子……それが自分の娘だと理解するのに数瞬かかって、その後のことはあまりはっきりしない。
一緒にいた友人たちや、あとから警察に聞いた話によれば、それまで近くのベンチに座って休んでいたらしい男が、突然ふらりと近寄って躊躇いもなく棒を振り下ろしたという。広く樹木が植えられている公園にはいくらでも落ちている枝が凶器となった。
近くで子どもたちにサッカーを教えていたスクールのコーチたちが中心になって男を取り押さえ通報したが、男は抵抗らしい抵抗もせずにされるがままだったという。
意識不明のまま救急車で運ばれた遥が目覚めたのは翌日になってから。検査の結果、幸いにも脳に損傷は認められなかったが、感情の波が激しく上下するようになっていた。普段通りに笑っていたかと思えば、ふとした折にぽろぽろと泣き出したり。
休まらない神経は幻覚や幻聴も引き起こすようで、過敏になっている時には異様に他人を怖がった。その時を思い出すのか特に大人の男性には顕著で、医師も父親でも近づくと泣き叫び過呼吸になったり大変だったという。
「それでも、退院する頃には随分落ち着いたんです。その代わり、事件のことを忘れていきました」
専門家の話によれば、記憶に蓋をすることで自分の心を守っているのであろうと。無理に思い出させずに、ゆっくりと時間をかけて、普通の生活の中で自然に癒していくのが負担がないだろうという見解に同意した。
しばらく感情と記憶の混乱は続いたが、事件前後の数週間を失くすことで徐々に落ち着いたようだった。それに伴い、それまで人懐っこくておしゃまさんだった小さな女の子は、引っ込み思案の大人しい子になった。大好きだったバレエをするときだけは、少し以前の様子に戻ったためその後も通い続けることにしたという。
「どっちの遥も遥です。性格なんてどうだっていいんです。でも、本人が覚えていないのにその事実があることが可哀想で……私があの子のそばを離れなければと何度思ったか」
犯人の男は犯行を否認せず、大人しく処された。まるでそれを望んでいたように。もちろん面識も恨みもなく、誰でもよかった、そう言っていたという。
ただ、遥に引き寄せられたと言っていた。隣にも手前にも子どもはたくさんいたのに、なんとなく気になったのだという。
話を聞いた私は、馨さんのことを思い出していた。馨さんや拓海が認識できる「なにか」は、人によっては見えることはなくても感じることはできる。この家に棲む子達は悪さと言えるようなことはしないが、存在そのものが人間で言うところの悪意を引き起こすきっかけになるモノもいると聞く。その加害者の男は、それに惑わされたのではないだろうか。
みえること、感じること、それは生まれつきの個性みたいなものだ。その人の魂に刻まれた欠片がそうさせる……そうでないとやっていられないと苦笑した、大事なひと。たくさん教えてはもらったけれど、当事者でないと感じられないことも多いから、こんなとき話を聞けないのはもどかしい。
それに、「みえる」素質を持つヒト全てがナニカを見られるとは限らない。あのものたちにも好みがある。
私は馨さんと出会って見えるようになったけど、遥ちゃんの好かれっぷりを見ていると、彼女は元からあのものたちにとって好ましい欠片を持っているのだろう。それに惹かれるモノが害の無いものだけであるとは、きっと限らない。
「親が過剰に反応するのはよくないからと、なるべく以前と同じように過ごすようにしてきたの。でも本当は、学校だって一人で行かせたくない。通り魔に二度も遭うことはないって、そう、何回も自分に言い聞かせてもやっぱり不安で不安で……」
それは当然だろう。でも、行動を制限しても得られるものは多くない……親として辛い決断だろうと思う。犬の散歩に一人で行かせるのは、母親の訓練のようなものだ、と寂しげに呟いた。
この家に来た時は決して一人では帰さないと約束すると、沙希子さんは明らかにほっとした顔をして、散りかけた金木犀の香りの中を帰っていった。
そんなことを思い返してぼんやりしていたら、膝上に重さがかかった。目線を下げれば、いつの間にか遥ちゃんが言うところの「おーちゃん」がひとり乗っていた。
「あら、珍しいわね。遥ちゃんが帰って寂しいの?」
馨さんにはビスクドール。遥ちゃんにはオコジョで、拓海に至ってはゴブリン。私にとっては、簡単な着物を着た小さい子ども……見え方の違いは受け止め方の違いだと聞いたが、ビスクドールとゴブリンでは笑ってしまうほどの距離だ。あの子の気持ちも分かるけれど、厭うばかりでは先には進めない。聡い子ゆえの葛藤だろうとは思う。
長い髪の毛を撫でると、こてんと頭を傾ける。今まではこんなに寄ってくることもなかった。何気なく時計を見れば、いつもならもうとっくに戻ってきているはずの拓海がまだ帰っていない。
「おしゃべりでもしてるのかしらね。風邪引かないといいんだけど……まあ、でも。いい傾向だわ」
玄関に置き忘れていた手袋は、海外にいる拓海の両親から届いた荷物にこっそり入っていた。カードもなく、間違って紛れたかのように。長い時間をかけて掛け違えたボタンは、離れてようやく少しずつ戻されてきている。
歳に似合わない諦めた目をした男の子は、少しずつ周りに興味を持つようになり、最近やけに大人びてきた。遥ちゃんが帰るときは必ず送るように言った時、理由も聞かず頷いたあの子の顔を思い浮かべる。
「ねえ、馨さん。あなたの甥っ子は本当に、そっくりね。頑固で無愛想で……でも、絶対、守ってくれるの」
耐性のある拓海が少しは防波堤になるだろう。本人もむしろそれを望んでいるようで何も言わなかった。不器用な、可愛い子。
帰ってきた拓海の首元を暖めていたのは、本人のものではない見覚えのあるマフラー。気付かぬ振りをしてお風呂を勧める私に、あからさまに気が抜けた顔をした。大事そうにマフラーを外すその指先が微笑ましいと思う。
「次に会えるのはお正月あけよ。おばあちゃんのお家から帰って来るのを大人しく待ってましょうね」
膝の上の子に言えば、私にくりくりと頭を押し付けてからストンと降りて何処かへ消えた。時と世界の狭間に棲むものたちに、私たちはどう映っているのかしら。私にとっては馨さんとの鎹のようなこの子たち。
浴室から聞こえる水音にあくびをひとつすると、カップを片付けに席を立った。




