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おばあちゃんの怪我は本人が言う通りそんなにひどくはなかったようだ。がっしり固められ三角巾で吊られているに違いないと思った腕は、薄いギプスこそされていたものの、出ている指先も少しは動かすことができた。あんまり力をいれると痛むし、さすがに歳だから治りは遅いだろうと言われたとおばあちゃんは軽く言う。それでも、利き手でなかった分そこまで不便はないと。
「そうは言ってもタオルだって絞れないし、洗濯や掃除だって。今は雪も少ないからいいけど、たくさん降ったら雪かきもあるでしょ」
「その頃には少しはよくなるっしょ。多恵さんとこも手伝ってくれる言うし」
「ストーブに灯油入れるのだって」
「配達の健二さんについでにやってもらうわ」
おばあちゃんは顔が広いし、一人暮らしなのをみんな気にかけてくれるから、実際大丈夫なんだろうとは思う。そこまで心配しなくても、と言うおばあちゃんに、お母さんはまだ不満そうだ。
「さてと遥ちゃん、おばあちゃんと一緒にモモの散歩に行こうか」
「あ、じゃあ、ついでにお豆腐買ってきて。絹二丁ね」
終わらないお母さんのお小言に飽きたおばあちゃんに誘われて外に出る。雪を抱えてそうなどんよりとした重い雲が、西の空にかかっていた。肺を冷やすしっとりとした風が頬に刺さるようでやっぱり寒い。近所からもらった、おばあちゃんの愛犬、黒柴犬のモモのリードを散歩用のに付け替えていたら後ろから呼ばれた。
「遥ちゃん、マフラーは? 首、寒いっしょ」
「あはは、向こう出るとき暖かかったから、忘れちゃったの」
……嘘だ。ほんとうは忘れてきたわけではない。いつもしてるのが手元になくて、他のはなんとなく、したくなかったのだ。あれまあ、とおばあちゃんがお手製のマフラーと、ついでに帽子も渡してくれたのを大人しく身につけながら、わたしはあのクリスマスの帰り道を思い出していた。
綺麗だったね、と言葉少なに歩く夜道。すっかり慣れた道程に不安はなくて、わたしはさっき見た光と鈴の音をうっとり思い出していた。そんなだから、十和田くんが随分薄着だったことに気付いたのも、自分の家がかなり近くなってからだった。
濃紺色のダッフルコートの前は開いたままだし、中は薄いセーター。マフラーもない浅いVネックの首元はスースーして寒そうなうえ、自転車を押すのはもちろん素手だ。聞けば玄関に置いて忘れたと言う。おーちゃんからのプレゼントやわたしの荷物なんかでパタパタさせてしまったせいだ。
「ご、ごめんっ、寒いよね!?」
「別に北沢さんのせいじゃないし。すぐ戻るから」
「ええ、でも……あ、じゃあ、これ。これ使って。もう着いたし」
「え、ちょ、」
わたしが慌てて自分から外したマフラーは紺の地に黒と緑のブラックウォッチ。制服の柄のような、これなら男の子がつけていてもおかしくない。渡しただけだと受け取ってもらえないだろうから、断られる前に、背伸びして伸ばした腕で強引に十和田くんの首に掛けた。
おーちゃんがいれば暖かいんだけど、今日は遅い時間だから絢子さんの家に置いてきた。それに、わたしにはオコジョでモフモフなおーちゃんも、十和田くんにはゴブリンだそうだからそこまであったかいかどうかはちょっと分からない。毛はあるって言ってたけど。
十和田くんはかなり驚いてたけど、自転車を支えていたから逃げられもしなかった。寒々しい襟元が隠れて少しほっとする。
「他のも持ってるから気にしないでお家までして戻って。わたしを送って風邪ひいたとかなったら大変……そういえば十和田くん、塾は? 冬期講習とか行くの?」
「……通常の授業だけ。特別講習は入れてない。北沢さんは? あんまり塾行ってる印象無いけど」
「わたし、数学だけなんだ。ほら、この辺の塾って受験対策がすごいでしょう。引っ越したばかりで志望校も決まってなかったし」
納得した様子の十和田くん。この近所は塾も予備校もたくさんあるけど、学校が多いせいかどこも受験特化型。だから、学校の授業についていけるなら、志望校が決まっていないと塾に通う意味はほとんどないようなものだ。
「……十和田くんはもう、受ける高校とか決めてるの?」
「一応」
「そっかぁ……わたし、まだなんだ。学校がありすぎるのも、困るね」
家の前に着いても中に入らずに話し始めるわたしを咎めるでもなく。十和田くんは不恰好に巻かれたマフラーを少し気にしながらも、自転車のスタンドを立ててお喋りに付き合ってくれた。
「加賀美さん達は? 女子は仲良い子と一緒に受験したりするんでしょ」
「そういう子たちもいるけど。真央ちゃんは真央ちゃんだし、ほのかちゃんはほのかちゃん。相談には乗ってくれるけど……やっぱり、自分で決めなきゃだから」
相談は、する。真央ちゃんたちからはこの辺の高校情報を教えてもらったり。でも、自分の将来の不安のような、うまく口に出せないこともある。
「ふうん。まあ、その方が自然だよね」
「友達と一緒は安心だけどね。あの、十和田くん。聞いてもいい?……将来の夢とかって、ある?」
「……」
ちょっと驚いた顔で見られてしまった。
「あ、ご、ごめん、言いたくなかったらいいの。あの、わたし、全然なくって、将来の夢とか入りたい高校とかっ、それで、十和田くんは、どうなのかなあ……って……」
「俺?」
「うん、そう……十和田くん、しっかりしてるし大人っぽいし。そういうのちゃんと考えてそうで」
自分が聞かれたら絶対に困ってしまう質問なのに、つい。
「や、ごめん、突然。本当、無理に教えてくれなくて全然い」
「動物関係かな」
びっくりして顔を上げると、十和田くんはまっすぐこっちを見ていた。その目に呆れたところも嫌がってるところもなくてほっとする。
「動物……獣医さん?」
「出来ればね。そんな簡単な仕事じゃないってのは知ってるけど」
ああ、なんかすごく納得。怖がりのコロも平気な十和田くんにぴったりだ。今だってコロは私の方じゃなく、 なぜか十和田くんの足元にいるし。
少し大人になった十和田くんが、白衣を着て犬や猫を抱っこしている様子が自然と目に浮かんだ。
「そっか……十和田くんなら、なれそう」
「北沢さんは料理とか上手じゃない。そっち方面は考えてないの」
「……どうなんだろう。この前、タカノリ先生にもそんなこと言われたけど」
「隆則さん?」
うん、と頷けば少し微妙な顔をした。
「十和田くんとも仲良いの?」
「仲良いって言うか、よくあの家に来てたから。最近は売れて忙しくしてて、あまり来なくなったけど」
「そうなんだ」
クリスマスケーキの教室の時に言われたことを話すと、隆則さんらしいと納得した様子だった。
「料理だって、別にそんなに上手じゃないよ、わたし。お母さんが前に入院した時に練習したから少し出来るだけで……」
六年生になったばかりの頃だった。その時に、お兄ちゃんと二人揃って教えられて、とりあえず家のこと一通りはできるようになった。だからこそ、今回もお母さんが長くおばあちゃんのとこに行っていられるのだ。
お母さんの入院自体は一週間と少しで、おばあちゃんも来て手伝ってくれたけどすごく長く感じた。直接命に関わる病気じゃなかったし、割とすぐパートに復帰もできるくらいのことだったのに、やっぱり、不安だった……手術だって絶対じゃないし、もし麻酔から目が覚めなかったら? そもそも、わたしがもっとお手伝いしてたら、お母さんは具合悪くしなかったんじゃ?
考えすぎだよって言われたけれど、どうしてもそんなことばかりが頭から離れなくて……料理をしたり、掃除をしたり。家のことをやってる間だけは、少しだけ忘れていられた。今も少ないながらも手伝ったりするのはその時の思いがあるから。
だから好きで始めたわけじゃない。動機としてはどうかと思う。
「いいんじゃない、無理に今決めなくても。高校から専門に進む必要のある業種とかならともかく」
「そう、なのかな。なんかね、自分に何もないような気がして……」
「皆そうだよ、きっと」
揶揄うでもなく呆れるでもなく、まるで自分に言うように十和田くんは呟いた。
「……うん。ありがとう、考えるね」
小さく頷くと、また下を向いていたわたしの額のはしに何かが触れた。カチューシャで前髪をあげたそこにうっすら残る傷跡に触れる感触、それが十和田くんの指先だと気付いて息が止まるかと思った。とりあえず、全身はぴきんと固まった。
「この傷のとき行ったのはK大付属病院?」
「っ、え、き、傷っ? えっと、そ、そう。確かそのはず」
ぎぎ、と音が出そうなくらいぎこちなく顔を上げた私の目に映る十和田くんは、すごくいつも通りの顔をしていた。まるで何も特別なことをしているわけではない、と言わんばかりで、少しだけわたしも落ち着いた……心臓うるさいけど。口から出るのは声じゃなくて絶対このドキドキの音に違いない。
一歩、いや、ほんの半歩も下がればこの指が離れるのに、どうしてかわたしの足は動かない。
よく転んだわたしが負った一番大きな怪我はこの、おでこの傷。この時は頭を打ってそのまま意識不明になったらしく、救急搬送されたらしい。らしいと言うのはそのあたりのことをまるで覚えていないから。
「あ、あの、なんか打ち所がよくなかったらしくって、記憶喪失みたいになったんだって。それで大きい病院で色々検査とか受けて。ちょうど、小学校に入る前だったんだけど、おかげで入学式のこととかもあんまり覚えていないの」
今はなんともないんだけどね、と慌てて言っても指先は離れない。なんだか、もう、顔が熱い。逆に十和田くんはああ、それで、と納得した風だった。
「俺もいたんだ、K大付属病院」
「え」
「脳波検査とカウンセリングに連れていかれてた。中庭で会ってるよ、北沢さんに」
ひゅ、と吹き込んだ風に冷やされた頭に何かがよぎる。
白い建物の中のぽっかりとした空間。
遠く聞こえる声、日差しのあたる地面は緑色……重なった手のひら。
見上げた男の子。あれは、
「……四つ葉の?」
「そう」
眼鏡のレンズの向こうで柔らかく細まる瞳。
「せっかくもらったのにお礼を言いそびれてて、ずっと気になってた。背も小さかったから歳下だと思ってた」
言えてよかったと。スッキリした表情で告げられて……わたしは、
「遥ちゃん? そっち、行き止まりさね」
「え、あ、」
いけない、つい思い出してぼんやりしてた。赤くなってるであろう頬を片手でパタパタと叩いて目を覚ます。あれ、でも、行き止まり?
「おばあちゃん、こっちって原っぱだったんじゃなかった?」
細い道路の先は無骨なフェンスで仕切られて向こうが見えない。小さい頃よく遊んだ空き地があったはず。
「何か建つらしいよ。春んなったら工事が始まるんじゃないかって」
「……そっかぁ」
見つけられない四つ葉のクローバーを探した空き地。もう一度行ってみたかったけど。
「残念?」
「少し。でも大丈夫。あそこ四つ葉なかったし」
そお? と懐かしそうにフェンスの向こうを眺めるおばあちゃん。うん、そう。四つ葉はもっと近くにあったんだ。たとえば病院の中庭や、あの駐車場の一角に。
思い出してまた、ふるふると顔を横に振ったわたしを不思議そうに見上げるモモのリードをくい、と引いて向きを変える。お豆腐も買ったし、あとはのんびり帰るだけ。
歩き出したコートのポケットの中でキーホルダーがかちゃりと音をたてた。家と自転車の鍵がついたそれは、ふわふわした茶色のフェレットのマスコットがついている。
……ようやく額から離れた指で、わたしの手に小さい包みをぽとりと落とした十和田くん。オコジョのは見つけられなかったからと、少し申し訳なさそうに言った声を思い出して、また、熱くなった頬を肘で隠した。
大晦日に、塾のお正月講習があるお兄ちゃんは向こうに戻り、入れ違いでお父さんがこっちにやってくる予定。お正月明けに戻った時に家の掃除が大変そうだ、とお母さんが呟いていた。少し下げた腕の隙間から見上げれば、やっぱり重そうな雲……向こうは今日も晴れて乾燥してるんだろうな。狭い日本なはずなのに、同じ時にこんなに違う。
「お兄ちゃんが走り回ってるのに、遥ちゃんはしゃがんで、じーっとしてばっかりで」
「四つ葉のクローバー探してたんだよ」
「で、あったったん?」
「なかったった」
あらまあ、と笑うおばあちゃんと一緒になって声をあげて笑った。それから、わたしとお兄ちゃんの小さい頃の話をたくさん聞きながら家に帰ったのだった。




