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「イブ・モンタンですか?」
「あら知ってるの? 遥ちゃんの歳で、珍しいわ」
「お父さんが好きで、車に乗るとよくかけるんです」
豪華夕食の後、三人でさあっと後片付けも終えてリビングに場所を移した。お茶の用意をしてくれているのは何と十和田くんで、絢子さんはレコードをかけてくれた。
「馨さんがたくさん遺してくれたの。せっかくあるんだし聴いた方がいいでしょう……遥ちゃん、大人気ねぇ、重くない?」
慣れた風にレコードの上に針を置くとこちらに戻り、目を丸くしてわたしとその周りを見る絢子さん。わたしはお茶を淹れるのも手伝えずに何をしているかというと……おーちゃんたちに囲まれて動けずにいた。数は、この前のご挨拶の時よりも気持ち多いくらいかな。
「そんなに重くはないんですけど。ちょ、待って待って、今出すから。順番ね、ええ今日はどれだけいるの?」
「お前ら、そんなにくっついているといつまでも出せないだろ。少し離れたら」
ソファーに座ったわたしの足元にも横にも膝の上にも、もちろん肩の上にもいるおーちゃんたち。手に持ったクッキーの缶を虎視眈々と狙われて開けられなくて困っていると、台所から紅茶を運んできた十和田くんが助け舟を出してくれた。
「本当に、遥ちゃんのお菓子大好きなのねえ」
「あ、あはは……嬉しいけど、絢子さんが作った方が美味しいと思うよ?」
少し離れてくれて、ようやく身動きが取れた。口々に何か言っているようできらきらしたのが見えるけれど、相変わらず音は聞こえない。十和田くんには聞こえているはずだけど……まあ、この状況では『早くちょうだい』とか、そんなことだろう。
「ごめんね、お待たせ。はい、メリークリスマス、っわ!」
かぱりと蓋を取ると、一斉に手を出してくる。なんだか映画で見た鳩に餌をあげるシーンのようだな、なんて他人事のように思っているうちにあらかたクッキーはなくなり、おーちゃんたちの波も引いた。
今日持ってきたのは、プレーンな生地とチョコ生地を交互に市松模様に組み合わせた四角いアイスボックスクッキーと、やっぱりクリスマスだからということでスパイスを入れたジンジャークッキー。午前授業になってからのここ最近、ちまちまと作りためていたのだ。
「……大丈夫? あいつら遠慮ないな」
「ああ、せっかく可愛くしてたのに髪が」
女の子だわあ、なんて言いながら絢子さんがようやく空いた隣に座ってくしゃくしゃになった髪の毛を手櫛で直してくれる。ううん、おーちゃんたち頭の上からもきたからなあ。今日はお料理をするしと思って髪はカチューシャで上げてきてたのだ。さっき、おーちゃんの足で落ちたけど。
「今日の服、可愛い。うさぎさんみたい」
「え、そ、そうですか?」
「白でふわふわ。冬っぽくていいわね」
あれだけ悩んだ服装は、白のタートルネックのニットに、ほとんど黒に見えるほど濃い緑色の膝丈フレアスカート。なんとなく、本当になんとなくだけどクリスマスのイメージ。ニットは少しだけアンゴラが混じっていて、確かにふわふわしている。でも、さすがにうさぎさんは恥ずかしい。
「ねえ、拓海もそう思うわよね」
「……猫」
「ええ、うさぎよ」
「あの、あの、もう……」
どっちにしろ恥ずかしい。わたし今、絶対に顔が赤い自信がある。またも一人だけ残ってくれた膝の上のおーちゃんに顔を埋めていると、もう、引かないんだからと笑いながら絢子さんはケーキを切ってくれた。濃い藍色の平皿に乗る淡い黄色は、絢子さんのお手製ニューヨークチーズケーキ。
湯煎のオーブンで一時間以上をかけてじっくり焼くというチーズケーキは、平らな表面に少しの焼き色も付いていない、きれいなきれいなクリームイエロー。まるでお店のものみたい。冷蔵庫で一晩寝かせて、しっとりと落ち着いている。
「美味しそう……」
「随分探したレシピだからね、美味しいわよ」
十和田くんの手でことりと置かれた紅茶は、淡い水彩画のような水色のグラデーションが綺麗なマグカップにはいっていた。
「ラッピングがなくてごめんなさいなんだけど。そのカップね、遥ちゃんにクリスマスプレゼント。この家での遥ちゃん専用よ」
箱はないけど新品よ、と言われびっくりして見れば、同じ形で柄違いのカップが絢子さんと十和田くんの前にもある。
「実は微妙にお揃いなの……嫌じゃない?」
「ぜ、全然嫌じゃないです! 」
ストンとしたごく普通の形で、ダンスを踊るうさぎの絵が描いてある。絢子さんのは編み物をするうさぎで、十和田くんのカップではスキーをしている。少し大人っぽい絵本の挿絵みたい。
「ずっと前にこれを見つけた時にね、どうしてか『買わなくちゃ』って思って。まだ拓海も一緒に住んでいないのに4個セットで買っちゃったのよ。ようやく理由が分かったわ。馨さんと、私と、拓海と、遥ちゃん。ほらぴったり」
「わたし、でいいんですか?」
「遥ちゃんがいいわ」
いつもと同じに穏やかに笑う絢子さんは、まっすぐわたしを見てそう言い切ると自分の紅茶を一口飲んだ……ここの家に、絢子さんの中に特別な居場所をもらった気がして、胸のあたりがぎゅうっとなった。
「……嬉しいです。大事に、使います」
なんだか涙が出そうになって、慌ててわたしもカップを手にする。何の変哲も無い形のカップは手に持つとしっくりと馴染んで安定感がある。唇に触れる陶器の感触も滑らかで厚すぎも薄すぎもせず、ずっと使い慣れた物のような感じがした。
「今日はうさぎさんで、ますますぴったりね」
「猫」
「あの、それはもう勘弁してください……」
またも服の話に戻って、涙も引っ込んでしまった。
低く流れる音楽と、美味しいケーキに紅茶。膝の上のおーちゃんは丸くなってウトウトとしている。やわやわと撫でる手に伝わる体温もいつもよりほんのり温かい。
「おーちゃんも眠るんだねえ」
「本当ね、見たことなかったわ。遥ちゃんが来てくれてから、この子たちにはへえって事ばっかりよ」
「そうなんですか?」
「……いるだけで、関わらないから」
「あなたはもう少しくらい関心を持っていいのよ」
聞こえないふりでお茶を飲む十和田くんに、絢子さんは仕方ないなあって顔で笑っている。
「そういえば、遥ちゃんたちみんなで、おばあちゃんのところに行くんでしょう。その間、コロちゃんはどうするの? よかったらうちで預からせて」
「あ、それは大丈夫なんです」
まだ家族以外を警戒して萎縮してしまうコロ。連れて行くにも初めてのところで心配だし、ペットホテルだってしんどいだろうと、家族会議にもなった。確かに絢子さんの家や十和田くんのことは怖がらないから、そうしてもらえるのはありがたい。でも、今回は大丈夫なのだ。
「実は、お兄ちゃんの塾とお父さんのお休みの都合がうまくずれて。みんなで一斉に留守にするんじゃなくて、どっちかは家にいるから大丈夫なんです」
「あら、そうなの……ですって。残念ね、拓海」
「別に。それならその方がコロも楽だろうし」
コロを真っ先に考えてくれる十和田くんは、やっぱり優しいなあ。何度かレコードを替えて、ほっこりした気分でその後もあれこれと何気ないことをお喋りしているうちに、そろそろ帰る時間になった。別れの挨拶を告げながら、カバンの奥からプレゼントをおずおずと取り出す。わたしが貰ったような、特別なものではないけれど。
「あの、これ……気に入ってもらえるか、ちょっと自信ないですけど」
「あら!」
寒くなっても自転車で駅まで通う絢子さんには、手袋。風を通さなくて温かいけれど、あまり滑らないようなのを探した。焦げ茶色で、手首の所に小さい白い花のコサージュが付いている。
十和田くんには、部活の時に使えるようなタオル。いかにもなスポーツタオルではないけれど、肌触りが良くて厚すぎないのが使いやすい、とお兄ちゃんが気に入っているのの色違い。端に小さく星の刺繍が入った濃紺色のタオルは夜空のようで、なんとなく十和田くんのイメージだった。
「嬉しいわ。ちょうど欲しいと思っていたの」
「……ありがとう」
よかった、喜んでくれたみたい。早速手袋をはめた手を、くるくるひっくり返して眺めている絢子さんにほっとする。十和田くんは少しぶっきらぼうに言って部屋に置きに行ってしまった。
今日のご馳走をタッパーに少し分けてくれたのを持たせてくれながら、気をつけて帰ってねと絢子さんはいつものように言ってくれる。
「いつも送ってもらっちゃって、ごめんなさい。私って心配な感じですか?」
「嫌? 迷惑?」
「そんな、迷惑なんてっ……私の方が」
「遥ちゃんが迷惑でなければ、そうさせてちょうだい。特にこの辺は入り組んでいるから。治安が悪いわけじゃないけれど、少し不用心なのよね」
古い住宅街は若い女の子も少ないからどうしても心配なの、と困り顔で言われてしまえば断ることなど出来ない。
「……毎回、十和田くんがわざわざ送ってくれるのが、悪くって」
「あれで結構、喜んでるから」
いたずらっぽく耳元でこっそり言う絢子さん。驚いて下を向いてた顔を上げれば、十和田の男は頑固なのよと笑う。
「馨さんも拓海も。やりたくなければ誰がなんと言っても、絶対に、やらないわ」
絶対に、の所にアクセントを置いて力強く言い切られて混乱する。
出かける支度をしてリビングに戻ってきた十和田くんに赤くなった顔を指摘されて、暖かい部屋でコートを着たせいだとごまかしたら、絢子さんに楽しそうにされてしまった。
外はもうすっかり夜。小さい子どものいる家が少ないこの辺りでは、庭先にイルミネーションを飾る家もほとんどないから、クリスマスイブとはいえ普段通りのしんとした様子。
くるぶし丈のブーツに足を入れて外に出れば、火照った頬が林から吹く風にひんやりと撫でられる。
絢子さんにお別れを言って、コロの方に行こうと玄関から数歩出たところで、おーちゃんが追いかけてきた。今日は寒いから家にいたら? そう言おうとして、一緒に走ってきたもうひとりが何か咥えていることに気付く。
不思議に思ってしゃがんだわたしの手にぽとりと落とされたのは、片手に収まるほどの小さい三角形のテントみたいな包み。紙のようなものでできているようで、ロウソクのように細いこよりが上の頂点から顔を出している。
「うん? なあに、これ?」
おーちゃんたちからキラキラと溢れる言葉とわたしの白い息が混ざる。
「……今日のお菓子の、手伝いが出来なかったから。その代わりだって」
「そうなの? いいの、貰っちゃって」
背伸びをしてわたしの肩に両手を乗せて、すりすりと頬ずりしてくれるおーちゃん。ふふ、くすぐったい。十和田くんが通訳してくれる。
「上に火をつけるんだって……花火か何かかな」
「ありがとう。今やってみてもいい?」
そう言って振り返れば玄関先にまだいてくれた絢子さんが、台所からライターを持ってきてくれた。おーちゃんたちを腕に抱いて、少し離れて十和田くんが火をつけるのをじっと見つめる。冬に花火なんて初めてで、なんか、わくわくする。
庭の大きな樹を避けて地面に置いたそれは、カチリと近づけられた火に素直に着火した。しゅううっと小さな火が根元に届いて……ぽんっと音と光が弾ける。
真上に打ち上がるかと思った花火は、柔らかな光の球体で。両手で包めるくらいの暖かな蛍のような光がいくつも、置いたところを中心に円状に広がった。
そして、まるで呼応するように鳴る庭の樹の鈴の音。
「っわ、ぁ……すごい」
「………」
ゆっくり落ちてくるたくさんの光の球に照らされて、声もなく驚く十和田くんがよく見える。
さっきまで吹いていた風も感じない。ただ、あたたかい音と光に包まれて自分までふわふわと漂っているみたい。髪に、肩に、上に向けた手のひらに触れては一瞬輝きを増して静かに消えていく光。惚けたようにそれを見つめるわたしと目があった十和田くんが、ふっと笑った。
……綺麗だね。
そうだね。
口の動きだけで伝え合って、また光に視線を戻す。
永い一瞬、って、こういうことを言うんだろうか。
最後の光の球が消えた時。耳の奥に残った鈴の音が、いっぱいになったこの胸からあふれそうで、そっと目を閉じた。




