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お気に入りの冬用のベッドカバーはモスグリーン。暖かいフランネルの生地はふんわりと柔らかく、つい二度寝してしまうという欠点もある。その綺麗な緑色が、今は全く見えなくなっている……ベッドの上に出された服の山を見て、ため息が出てしまった。
タンスとクローゼットはほぼ空っぽ。そして、ここまでしたのに着ていく服が決まらないのは一体どういうことなんだろう。
クローゼットの扉についている全身が映る細長い鏡には、中途半端に制服を脱いだ姿のわたし。終業式を終えて帰宅して、着替えたら絢子さんのお家に行ってクリスマスだ。メンバーはわたしと絢子さんと、十和田くん。お料理して食べるだけ、パーティでもないんだし着飾る必要はない。第一そんなおしゃれな服など持っていない。普段着でいいはず、なのに、決まらない。いつも気に入っているカットソーもなんか違う。
もういい加減行かなきゃ……進路どころか、今日着る洋服一枚決められないなんて。少しヤケになりながら、結局、一番最初に出したセーターを手に取ると、鏡を見ずに勢いよく着替えた。
「遥ちゃん、エプロンはある?」
「あ、持ってきました」
なんだかんだで大荷物になったわたしを迎えた絢子さんは、やっぱり迎えに行かせればよかったと呟いていた……いや、まだ昼間で明るいし、荷物くらい持てるし。荷物がかさばったのは、下の方にこっそり用意したプレゼントが入っているから。気に入ってくれるといいなあと選んだけれど、自信もないので帰る間際にでも渡そうと思う。
そんなカバンの中からエプロンを取り出すと、早速台所でお手伝いだ。ちなみに十和田くんは、スーパーにお使いがてら、わたしが連れてきたコロを追加の散歩に行ってくれている。本当に動物好きなんだな。
足元にいるいつものおーちゃんを蹴飛ばさないようにして、いそいそと調理台の方へ向かう。オーブンには火が入っているし、野菜やお肉は大きな食事テーブルの上にスタンバイ済み。今日の絢子さんは割烹着でこれがまたよく似合っていた。
「ようし、早速始めましょ。そこの玉ねぎみじん切りにお願いしていい? 」
「これですね」
「軽く煮込むからあまり細かくなくて大丈夫よ。あと、セロリも。セロリはねえ、斜め薄切りにして、ずらして重ねて細く切って、向き変えてみじんに……そうそう、そんな感じ」
わたしにミートソースの作り方を教えてくれながら、絢子さんは隣のコンロの方でホワイトソースを作っている。今日のクリスマスメニューは、ラザニアだ。絢子さんの勤め先の料理教室はフランス料理がメインだからそう聞いた時ちょっと意外だったが、十和田くんが好きらしい。男の子はフレンチよりイタリアン好きよね、と楽しそうに笑って教えてくれた。
「絢子さんの包丁、すごく切れて怖いくらい」
「研いだばかりだから。気をつけてね」
よく冷やしてあった玉ねぎは、ストンストンと切れ味の良い包丁のおかげで涙が出る隙もない。ニンニクもみじんに切るとフライパンでひき肉と一緒に炒める。白ワインを入れて一煮立ちさせたら缶詰のホールトマトを崩しながら入れてグツグツ。
「……美味しそう」
「これも入れて、焦げ付かないように混ぜて、汁気がなくなるまでそのまま煮詰めていってね」
「わあ、本格的っ」
冷蔵庫から出してきたのは、お店から分けてもらってきたというドミグラスソース。缶詰じゃないの、初めて見た。
「いい匂い。なんだか、もうこのままで美味しそう」
「ふふ、今からよー」
コンロの前に隣り合って立って、お互い鍋をかき混ぜている。お喋りしながら美味しい匂いでいっぱいの台所に、なんかワクワクしてきた。
「楽しいわぁ……誰かと一緒にお料理は、いいわねえ」
「十和田くんとはしないですか?」
「時々はするけど。隆君みたいに喋るタイプでもないし、どっちかというとあの子、片付け要員ね。ほら、この家は食洗機ないから」
二人分だと手で洗ったほうが早い、と言う絢子さんの台所はお料理を仕事にしている割に物が少ない。フードプロセッサーとかありそうなんだけど、それも無い。聞いたら、家庭料理に必要なのは道具よりもスペースよ、と断言された。
使う材料をさっと手に取れて、切った野菜を入れたボウルを何個もぽんぽん、と置けて。確かに、いちいち寄せたり片付けたり探したりしなくていいと、すごく捗る……って、今日分かった。やっぱり、絢子さんが元は料理できなかったなんて信じられない。手際もいいし、教えてくれるのもすごく分かりやすい。
いい感じに煮詰まったソースと茹でたラザニアとチーズを交互に重ねていく。焼くのは十分ほど、表面がこんがりするくらいだから食べる直前にしようと軽くラップをかぶせてテーブルに置いた。
次はかぼちゃのポタージュスープ。ところどころ皮を剥いたかぼちゃと人参、玉ねぎを薄切りにしてコンソメで柔らかく煮て、ミキサーにかけて牛乳でのばす。ジャガイモのオーブン焼きに使うローズマリーを採りに庭に出たら、ちょうど十和田くんが帰ってきたところだった。
「お帰りなさい、コロのこと、ありがとう」
「うん」
十和田くんの目線は、私の肩から降りてコロの方へぴょんっと近寄るおーちゃんの方へ。顔を近づけてふんふんと何やらしているこの子たちは、本当に仲良し。普段コロは散歩の途中で他の犬に会うとわたしの足の後ろにそっと隠れるのに、おーちゃん達は大丈夫なのだ……コロの目には、おーちゃんはどう見えているのだろう。気になる。
「……それ」
「あ、ジャガイモと焼くんだって。お庭にハーブがあるのいいね……あの、今日、わたし来て迷惑じゃなかった?」
「いや、別に。絢子さん喜んでるし」
誘われて嬉しくて来てしまったけれど、そういえば十和田くんとは話していなかった。クラスメイトでもないのに頻繁にお邪魔して、嫌がられてはいないだろうかと今更だけど心配になってしまった。いつもいつも送ってくれたりしてるし。
「散歩、楽しかった」
「そう? それなら、よかった」
コロとおーちゃんの頭を撫でながら言う十和田くんの顔は見えないけれど、声に拒否する様子はなさそうで、少しほっとする。きゅ、と握りしめていた手の中のローズマリーの香りが立った。十和田くんは立ち上がると、わたしが持ってきてポーチに置いていたドッグフードを持ち上げてこっちを見た。
「これ、一回分? 水もあげておくよ。寒いし、中に入ったら」
「あ、うん。ありがとう……じゃあ、お願いします」
摘みたてのローズマリー。わたしは大好きな香りだけど、犬にはちょっとキツイかもしれない。言われるままにコロの世話も十和田くんに頼んで家の中に戻ると、台所では絢子さんがスルスルとジャガイモの皮を剥いていた。
「ありがとう、寒かったでしょ」
「すぐだったから平気です。あ、十和田くん帰って来ました」
「あら、じゃあそろそろ焼こうかしらね。そのローズマリーさっと洗って水気取って……」
そんな風にしているうちに、ただいまと十和田くんが中に入ってくる。
「サニーレタスでよかった?」
「いいわよ。遥ちゃん、洗ってちぎってもらえる?」
「あ、はい」
オーブンでジャガイモを焼いている間にサラダを作る。緑が綺麗なサニーレタスに糸のように細い千切りの人参を乗せたシンプルなグリーンサラダには、これまたお店特製のフレンチドレッシング。
コートを脱いできた十和田くんが慣れた様子で取り皿やなんかをテーブルに並べる。そのまま、買って来たフランスパンをテーブルで切ろうとしていたけれど、そのパン屋さんの袋には見覚えがあった。
「え、そのパン屋さん、うちの近くのじゃない? 言ってくれればわたしが来るときに寄ったのに。スーパーからじゃ遠回りだったでしょう」
「ああ、夕方の焼き上がりのを予約していたから……そういえば、店長さんが絢子さんによろしくって」
「はあい、よろしくされましたー」
スープのお鍋を覗きながらにこにこと話を聞く絢子さんは、実は顔が広い。性別・年齢を問わず、いろんな人と仲良くなるのだと、先日のケーキ教室の時にタカノリ先生がこっそり教えてくれた。
『ほんと、妬けちゃうくらい。教室だって、講師の親父より実は人気あるんじゃないかな』
いつもポカポカとした笑顔で迎えてくれる絢子さん。近くにいるとなぜだかほっとして、胸が安心感で満たされる。人見知りのわたしでさえこうなのだから、他の人だってそうだろうと強く思う。だからこそ、聞いてみたいことがあった。わたしはテーブルに近寄ると、十和田くんが切ってくれたパンをお皿に盛りながら声を潜める。
「……ねえ、十和田くん。絢子さんが怒ることってあるの?」
「あるよ」
「え、あるんだ」
「あの顔のまんまで怒るから、かえって怖い」
……そうかも。
「まあ、滅多にないけど……本気で怒ったのは、伯父さんが病気隠していたのがバレた時くらいかな」
「っそれ、は……」
「あら内緒話? 仲良しね」
振り向いた絢子さんはいつもの笑顔で。十和田くんは、何でもない、とグラスを取りに食器棚へ行ってしまって、残されたわたしは足元のおーちゃんと目を合わせると曖昧に笑ってごまかした。
「さ、そろそろ焼きあがるわ。ケーキは食後ね」
出来上がった食卓はとても豪華だった。こんがりと表面に焼き色のついたラザニア、ハーブの香りのジャガイモのオーブン焼きに、パセリを散らしたかぼちゃのスープ、サラダに焼きたてのパン。
クリスマスといえば鶏やターキーの丸焼きだけど、絢子さんは “ウチの定番” と言ってお醤油で甘塩っぱく鶏もも肉を煮込んだものをだしてきた。黒酢が少し入っていて、柔らかく仕上がるそう。白いご飯が欲しくなる味だったけれど、不思議と洋風のメニューにもよく合った。
ワイングラスに赤ワインのようなブドウジュース、隣のグラスにはよく冷えたレモン水。クリスマスツリーはないかわりに、濃い赤色のバラとヒペリカムを使ったアレンジメントがテーブルの真ん中に置かれ、赤と緑のクリスマスカラーのランチョンマット。磨かれてきらきら光るカトラリー。
どっしりと大きいテーブルがこの全てを余裕を持って受け止めている。
「わあ、なんか、すごい贅沢なクリスマス……」
「ふふ、普段は和食ばっかりだから、たまにはいいわよね。この前の遥ちゃんのケーキも上手にできてたし、お家でお父さんたち喜んだでしょう?」
確かにあのブッシュドノエルは驚かれた。お父さんがスマホで撮って送った写真に、お母さんが速攻電話をかけてよこして、来年は絶対自分が行くと意気込んでいたくらいだ。
「やっぱり教えてもらえると違います」
「隆君が聞いたら喜ぶわ。今日はまだまだお店で働いてるんでしょうね」
バレンタインの特別教室にもおいで、と笑った人懐っこいイケメンパティシエを思い出す。クリスマスイブの今日は早朝から夜遅くまで、ひたすら厨房に立つらしい……お疲れさまだ。
「そういえば、おーちゃんはこれは食べないの?」
「ご飯は食べないわねえ」
「お菓子だけだな」
そっか。じゃあ、食後にみんなでおやつタイムだと言えば、分かったのか足元に一度擦り寄るとささっと台所から出て行くおーちゃん。きっとみんなに伝えに行ったのよと絢子さんが笑った……クッキー多めに焼いてきたけれど、足りるかな。
絢子さんに促されてエプロンを外し席についてグラスを合わせると、特別なクリスマスを味わったのだった。




