序
ガシャン。思った以上に大きい音を立てて倒れた自転車、カゴから溢れ散らばる買い物の数々。手首に巻きつけていたおかげで離れなかったリードの先でハッハッと息を弾ませているコロの、つい一瞬前と変わらないその様子に無事を確認してほっとした。
自転車も荷物も道路に投げ出したまま、血相を変えて私に駆け寄る女性が怪我の有無を問うその声にぼんやりと頷きながら、わたしの目はアスファルトの上に染みを広げる割れたパックの玉子から外せなかった。
「本当にごめんなさいね、私は怪我ひとつないのに」
「あ、いえ、わたしが悪いんです。急に走って出たから……」
高い塀に挟まれて見通しの悪い狭い交差点だった。古い住宅街の奥は車一台が通るのがやっとな幅で、区画整理もされずにうねうねとした道が続いている。
どういう訳か帰りたがらないコロに付き合って長くなった散歩中、普段は大人しい飼い犬が珍しく走り出したのについ、引きずられて飛び出してしまったのだ。
「いつもはこっちの方には来ないんです、今日はたまたま犬が来たがって……それで道がよく分からなくて。あの、玉子とか、ごめんなさい」
「そんなこと気にしないで。自転車の私が気を付けなくちゃいけなかったのよ。中学生? ごめんなさいね、女の子に怪我までさせてしまって」
ギリギリで回避してくれたので実際にぶつかってはいない。バランスを崩して躓いて膝と手のひらを少し擦りむいたけれど、今日はジーンズじゃなくて膝丈のハーフパンツだったのが災いしただけだ。
わたしの膝に滲む血を見ると痛そうに眉を下げて何度も謝り、手当てを申し出てくれた。そんなご大層な怪我ではない、大したことはないからと言えば、怪しまれていると思ったのか自己紹介をしてきた。お母さんと同じ年くらいの少しぽっちゃりしたこの女性は、十和田絢子と名乗った。
初対面だけどどこかで会ったことがあるような。遠い親戚に会ったような気がして、普段は人見知りのはずのわたしが怖いとか気不味いとか、そういったことはなぜか一つも感じなかった。
結局、すぐ近くだから手当てさせて欲しいと手を引かれたのは、アイアンの柵と低めの垣根で仕切られた先に、柔らかな印象の前庭が広がる一軒家。
「わあっ……可愛いお家」
白い壁、三角の屋根、赤い玄関ドア。可愛らしいポストは緑色。これで煙突があれば完璧に子どもがクレヨンで描いたような「おうち」
庭の木にはその張り出した枝にブランコをつけたくなるし、家に寄り添うように咲く濃いピンクの蔓バラもとても似合っている……思わず声が出た。
「ふふ、そう? ありがとう。でも、そうね、知らない人の家の中なんて怖いでしょう、だから外でね」
そう言って玄関脇にあるポーチに招かれた。前庭の中ほどにある背の高い木と、ポーチの一部まで伸びたバラの蔦が道路側からの程よい目隠しになっている。住宅街の最奥なのだろう、敷地の先は軽く手入れされた雑木林になっていた。そちら側は背の高いアイアンの柵があり、薔薇ではない花の香りが気持ちの良い秋風に乗って届いてくる。くんくんと鼻を鳴らしていると、隣の林で金木犀が咲き始めてるのよ、と教えてくれた。
……おとぎ話の家みたい。
庭の大きな木にはクリスマスツリーのオーナメントみたいな金色の丸っこい玉がいくつかキラキラと揺れていた。この女性が結んだのだろうか、それともお子さんかな。お兄ちゃんが乗っているような自転車が停めてあったから、きっと息子さんがいるんだろう……でも、男の子はこういう飾りとかしないよね、女の子もいるのかもしれない。
ざっくりと敷かれた芝生、石や木の枝でなんとなく仕切られた花壇は、見飽きたはずの小菊やコスモスでさえ素敵。ポーチの近くにはローズマリーの低木……どこもかしこも可愛い。
こんな家なら入ってみたいと思う好奇心を隠して、ポーチの後ろ側にある大きな窓の中は覗かないように気をつける。アイボリーのレースカーテンがゆったりと吊るされたその窓は、フレンチドアの開き窓になっていた。
そしてそのまま、大したことのない傷を丁寧に手当てしてもらうことになってしまった。
ポーチにある木でできたベンチを勧めると、救急箱を取ってくると言って絢子さんは玄関に回った。わたしの両親に連絡しなきゃ、というのを必死で大丈夫だと何度も言って諦めてもらったが、まだ心配そうにしている。染めていなそうな髪は肩の上で軽くウェーブして、先ほどまで被っていた帽子のせいで少し乱れていた。
絢子さんはその大きな開き窓から薬箱を持って現れると、ポーチの隅にある外水道で丁寧にわたしの傷を洗い、消毒して絆創膏を貼ってくれた。薬箱を片付けにもう一度家に入ると、今度は長いグラスに入ったアイスティーをお盆に乗せて戻ってきた。可愛らしいマカロンが小さなお皿に乗ってある。私も知っている有名な菓子店の包装だった。
「よかったらどうぞ。お菓子は頂き物なのだけれど」
「あの、でも」
「こんなのでお詫びにならないわね、まだ痛いでしょう」
「いえ、もうちっとも……あの、それじゃあ、いただきます」
ポーチの脇に繋いだコロは陶器のスープ皿に入れてもらった水をおいしそうに飲んでいる。気付けば自分も喉が渇いていた。だって、もう家を出てから一時間は経っている。にこにこと勧める絢子さんにいつまでも遠慮するのも悪い気がしていただくことにした。
よく冷えていてひとつも渋くないアイスティーはお店で出されるような爽やかな香り。一気飲みしそうになるのをなんとか我慢する。
「すごく美味しい……。あ、自転車とかあのままで大丈夫ですか?」
自転車も買い物も全部あの角に寄せて置いてきたのを、喉が潤ったら急に思い出した。
「いいのよ、車は滅多に通らないし後で取りに行くから」
ここは行き止まりで住人しか通らないからと、屈託のない話し方になぜか安心する。お菓子もどうぞと言われておずおずと手にしたピンク色のマカロンはイチゴかと思ったらラズベリーだった……甘酸っぱくて美味しい。こっちはピスタチオだったかしら、と薄緑のを渡されそうになったところで、コロの耳がぴくりと動いたのが見えた。かしゃん、と閂を外す音に顔を向ける。
「絢子さん、あそこの自転車、何があったの。とりあえず荷物だけ持ってきたけ、ど……?」
柵の向こうの道路から声を掛けながら、眼鏡をかけた同じ歳くらいの男の子が少し破れたエコバッグを抱えて入ってくるところだった。蔓バラの影になっていた私に気付いて驚いて足を止める。
金木犀香る空の下、庭の隅に干された洗濯物の中にある馴染みの深い中学のジャージに気付いたその時、ざあっと吹いた風に揺らされて、枝に下げられた金の丸い飾りが細く高くりん、と鳴った……鈴、だったんだ。
「まあ、Nos Bonnes Mères…, et Bonnes Dames……」
「え?」
聞き取れず顔向けると、思わずというように呟いた絢子さんは、はっとしてゆっくり笑顔になった……まるでお母さんが自分の子どもに向けるような目で見つめられて、なんだか少し照れくさい。
「ううん、なんでも。甥っ子が帰ってきたわ。おかえりなさい、拓海」
これがわたし、北沢遥と、絢子さん、そして十和田拓海くんとの出会いだった。