8 冷たくも慈愛の光
夕暮れが空を朱色に染め、ヴァルカンの焔亭の店内をも朱く照らし、街中を黄昏に包むころ、タローは店仕舞いを始める。入り口を施錠し売り上げを計算してお金を数えるのだが、それが済むと裏口から店を出て、住居部分へ繋がる廊下を歩く。その頃には外も薄暗くなり、この日はもう真ん丸に肥った月が昇り始めていた。
食堂に入るとすでにおかみさんが晩御飯の支度を終え、少し早く仕事を切り上げた親方が食卓の椅子に座ってゆったりとくつろいでいた。しかし、いつもと違って親方の前にいつも置かれているはずの麦酒の入ったジョッキが見当たらない。
タローは伝票や売上計算書をお金と一緒に部屋の片隅の金庫にしまい込み、計算書の一表だけを親方に差し出しながら言った。
「珍しいですね。飲まないんですか?」
「ああ、今日は今からひと仕事だ。飯食って一服したらおまえも付き合え」
「はい?あ、わかりました。付き合いますよ……って本当に仕事なんですか?」
タローが尋ねながら食卓のいつもの自分の席に着くと、おかみさんが見計らって取り皿を差し出してくれる。
「そうよ、お仕事よ。わたしの方の仕事なんだけど。手伝って頂戴ね」
おかみさんのとびきりの笑顔に、タローは思わず大きくうなずいてしまった。
「今日は満月だし、天気もいいし、こんな時にしかできない仕事もあるのよ」
「こないだの修理だよ。石の部分は俺にはどうにもできんからな。こいつの担当だが……助手がいる」
「ああ、アルコンさんのですね」
タローが取り皿に移したサラダを口の中に頬張りながら答えると親方はうなずく。
「といっても、することは少ないが……準備をな」
「手伝ってくれると助かるわ」
もとより鍛冶師見習いとして雇われている以上、拒否することはあり得ないのだが、それでも気をまわして声をかけてくれる二人はありがたいと思う。タローは親方夫婦のそういう気遣いが嬉しかったから、食事も早々に切り上げると、一服の間をおかずに立ち上がった。
おかみさんもタローから受け取った皿をシンクに移すと、皿はそのままに白いエプロンを外した。
「それじゃ始めるから、ついてこい」
立ち上がった親方の向かった先は工房だった。炉の火はすでに落ちていて、熾火が僅かにくすぶって工房の中をぼんやりと紅く照らしていた。床には窓枠の形が正確に浮き出るように月光が絨毯を広げている。
窓から見える外の世界はすっかり陽が沈み、代わりに昇った満月が、あたりを深い海の中のように蒼く照らし出していた。
しばらく棚でごそごそしていた親方は、アルコンが預けていった剣をおかみさんに渡すと、今度は戸棚の中からガラス製の大きな盃と漏斗を取出してタローに押し付けるように渡す。自分は引き出しから取り出した形の違う鉄枠を二つ持つと外に出て工房の扉を閉めた。
目が慣れるまでは薄暗い闇が広がっているだけだったが、やがてその闇は薄れて消え、世界は輝かしくもやさしい白銀へと変わっていく。ぎらぎらと照りつく昼間とは生反対に、小さな雪が降り積もるように、やわらかな月明かりが降りてくるようだ。
正面には月明かりでぼんやりと浮かび上がった店舗兼住居の母屋が佇んでいる。親方はそちらではなく、戸口の側から壁に沿って歩き始めると、ぐるりと回って工房の裏側に回った。
工房裏は建物はなく幅の狭い崖のようになっていて、平屋造りの母屋の二倍ほどの高さの小山から細い糸の様な滝がちょろちょろと流れ落ちていた。小山の上には湧き水があるのだろうか。滝の落下地点は小さな池のようになっていて、すぐに横にある小川に流れ込んでいる。池というよりは水たまりに近いような大きさだ。
親方は水たまりに長靴で入り込むと、鉄枠を二つ据え始めた。小さい三本足のスタンドのような鉄枠の上に、鼎状の枠を取り付ける。それから鼎の中に盃を入れると、ちょうど滝から落ちてくる流れが盃に注がれ、あふれた水が鼎の外側を伝って釜状の底で合流する。そして下のスタンドの三本足の間を糸のような流れが滴っていく。
「これから儀式をするのよ。宝石を浄化するの」
設置が終わったところでおかみさんが言った。親方は黙ったまま微調整をしていたが、水から上がるとおかみさんから剣を受け取りタローに渡した。
「石を外してくれ」
アルコンが預けていった剣を鞘から抜くと柄の留め具を外して分解をしていく。手を差し出した親方に、分解された刀身を渡す。親方は再び水たまりにつかると下のスタンドの部分に、刃の方を上にしたまま、切っ先が水たまりに斜めに刺さるように固定した。
透明感のある月明かりを受けて、タローの左手に残された石はぼんやりと蒼く輝いているように見える。タローが再び差し出された親方の手に外した石を乗せると、親方はその石を鼎の上に乗せられた盃に沈めた。
月の光と水の乱反射で、きらきらと輝きながら静かに底へ落ちていった石は、ほんのりと光を帯びた水の中で佇んでいる。
「じゃあ、頃合いもいいしぼちぼち始めましょうか」
おかみさんは丈の長いスカートのポケットの中から布の包みを取り出すと、手の上で広げる。白いハンカチくらいの布の中からは、こぶしの半分くらいの透明な水晶の球が姿を現した。
ハンカチを座布団のように左手に広げ、その上に水晶を乗せたおかみさんは、右手を小山の影から昇りかけている満月に向けると、ぶつぶつと呪文のような言葉を呟き始める。
「月の女神ディ……に求める……慈愛の光にて……の浄化を……」
口の中で呟くような呪文ははっきりとは聞き取れなかったが、タローと親方は一歩下がってたったまま様子を窺っている。
「しもべの滝に……宿して……」
言葉が進むにつれて水晶が青白く輝き始め、同時に滝から滴り落ちる水も少しずつ輝き始めた。ぼんやりと燐光を放ち始める。と同時に、盃に沈められた石が浮かびはじめ同じような輝きを持ち出した。
光が水の中を満たす。
空に輝く満月が乗り移ったかのように黄色い光を放つ水の中に、宝石が青白い炎のように浮かび上がった。
青い炎が揺らめくたびに、石の中の濁りが消えていく。
盃からあふれ出た輝く水は釜の底へ滴り落ちると、雫となって鼎の下に置かれた剣の刃にあたり、二つに分かれて水たまりへ散っていった。
「……こうやって、剣自体にも力を持たせて、刃を鍛える。そういう呪法というか儀式なんだ」
親方はタローと並んだまま、顔を向けずに呟いた。タローは静かにうなずく。
おかみさんはかわらずに呪文を唱え続けていたが、やがて言葉は空気に溶けるようにして消え、おかみさんの手の中で光る水晶だけが残った。
「……あとはこのまま一晩、月が沈むまで待てばいいわ」
おかみさんは水晶を元通りに布に包むと言った。水晶は余熱を漏らすかのようにしばらく布越しに輝いていたが、徐々にその輝きを失っていった。
「これ、置いておいて大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。もう、術は発動してるから」
盃を指さすタローにおかみさんが言った。その間にも光り輝く水は溢れつづけ、宝石を浄化し、刃を研ぎ澄ましていた。
「よし、じゃあ戻ろうか。タローに何か温かいものでも」
「ええ、タロー君にはお茶でも入れましょう。あなたはお預けになってた麦酒でいいわよね」
月は昇っていたが、澄み切った空気に当てられ、少し肌寒く感じていたタローは「お願いします」と短く言うと、歩き始めた親方について母屋に戻った。
食堂に戻った親方は部屋の隅に置かれた安楽椅子に腰かけて身体を預けた。
タローは食卓の席に座り、おかみさんはさっそく台所に立つとかまどの熾火に薪を足してからヤカンをかけた。
「術というか魔法の儀式ってもっと大変な準備がいるのかと思ってたんですけど……」
タローはテーブルに座ったまま言った。
「拍子抜けした?」
「そういうわけじゃないんですけど」
「大昔はね、それこそおとぎ話に出てくるような大掛かりな魔法があって、そのためには何人かの魔導士が何日も儀式を行って、それでとんでもない力を持った魔法を使ってたの」
親方がおかみさんから手渡されたジョッキをぐっと飲みほした。
「でも、だんだん人間の魔力が弱まっていって、自力で強い魔法を使うことはできなくなったの。それでも魔法を使いたかった人たちは自然の力を借りるようになったの」
「それで、魔力を導く人となったわけだな。おかわりをくれ」
親方の差し出したからのジョッキをタローが受け取り、おかみさんは「ゆっくり飲んでよ」と二杯目の入ったジョッキを渡した。
タローは立ち上がり流しにコトリとジョッキを置く。
「このかまどの火はもちろん、少し前までは、こんな水道なんてなかったから井戸の水をくんで力を借りていたわけで、魔法が特別ってわけではないんだけれど、でも、魔法を操れば大きな力を使えるわね」
おかみさんが指をパチンと鳴らすと、かまどの焔が一瞬大きくなり、ヤカンの口から湯気が立ち始め、しゅんしゅんと音を立て始めた。
タローは驚いて目を丸くした。
「すげぇ……」
「今のはお遊び。私は仕事以外では滅多に力は使わないから。それに大した力なんかないしね」
「騙されるなよ。こいつは本気になったらこの街ひとつ消し飛ばせるんだぜ」
親方が大笑いをしながら言った。おかみさんは「もう……」とあきれたようにため息をついた。どこまで本気かはわからない。
「とにかく、こうやって力を借りることで魔法を使うわけ。今日は月と水の力を借りたの」
「月の光って力があるんですか?」
タローの問いにおかみさんは怪訝そうな顔をする。
「万物に力があるっていうくらいだもの。もちろんよ。今日は満月の透明な慈愛の光と純粋な水の力を浄化に向けたわけね」
タローは素直に驚いた顔を見せた。
鍛冶屋として武器や盾といった直接的な力とばかり付き合ってきたタローには目新しいことばかりだった。それがわかったのだろうか、親方が言葉をつづけた。
「もちろん、火の力を借りて剣を打つことも可能だな」
「そもそも、魔法っていうのは無尽蔵の力じゃないのよ。きちんと理屈があって、対価も払っているの」
おかみさんはヤカンを取り上げて食卓の敷物の上に置くと、ろ過布に木の実を砕いた粉を包みながら言った。布の中の乾燥した黒い粉が、ぱらぱらと少しだけ食卓にこぼれた。
「もちろん、今日のような小さな力なら私の体力だったり精神力だったりですむけれど、力の種類によってはそれ以外の対価が取られることだってあるわ」
「薪を燃やして火を起こすように?」
「そう、そして、剣を振るえば血が飛び散るように」
「だから、私は必要以上に魔法は使わないし、使うとしても何かの力を助けたり増やしたりするだけ。水の浄化の力とかね」
「それで、澱は消えてなくなるんですか?」
タローは矢継ぎ早に質問を飛ばす。
「いや、そうはならないな」
答えたのは親方だった。
「あくまで洗い流すんだ。澱は流れていくだけで誰かが引き受けなけりゃならん」
「まあ、この石に溜まるくらいの量なら地面に流れた後に散らばっていって、たくさんの人や生き物が分けて背負うくらいで済むんだけれど。もちろん私たちも背負ってね」
「本当に微々たるもんだろうな」
タローの前に湯気を立てたカップが置かれる。親方はちびちびとジョッキに口をつけていた。
「けれど、もっと強い力を使うにはそういうわけにはいかないの。対価のために魔法石に力を蓄えておいたり、ひどい魔導士なら贄を使うとか……まあ、つまり、あまり魔法も万能じゃないってことよね」
「いや、でもやっぱり、魔法はすごいなって感動してます」
タローはカップに口をつけながら、少しぼんやりとした目つきのまま言った。
「自分の力以上のことをやって見せるっていうのはすごいですよ」
「あら、あなたたち鍛冶師だってそうよ。火の力を借りて新しい力を作り出して……それが他の人の力に合わさって大きな仕事をするのよ」
「それは……そうですけど」
親方が半分ほど飲んだジョッキをコトリとテーブルに置いた。
「俺にも、まあ、タローの気持ちはわかるよ。けど、こいつの言うことももっともだわな」
おかみさんの方を顎でしゃくる。
「俺たちは魔力を持たないからな。そのかわり技術を持ってる。あとは誇りだよ」
親方はタローに向かって胸を張った。タローは反復する。
「誇りですか?」
「鍛冶屋である誇りを忘れなきゃ、魔法と同じくらいの力を使えるさ」
タローはカップを置くとそのまま黙り込んで俯いた。思案をしているのだ。三人の今の会話を反芻する。わからないこともたくさんあるが、タローの胸の中では期待や好奇心や不安や、いろいろな感情が渦巻いては消えていく。
そこで親方が再び好奇心を曳く言葉を口にした。
「魔法の力を宿した魔法剣ってのがある。裏庭のあの宝石がついてた剣もそうだがな。魔法を帯びた剣だ」
タローは顔を上げた。
「鍛冶屋としては興味をそそられるだろう」
「……はい、とても」とタローは頷く。親方はにやりと悪戯っぽく笑う。
「俺は作ったことがある。もちろん夫婦で力合わせてだな」
「そうね。二人で作ったわね」
「どんな剣かは今は教えない。けれどな、おまえが鍛冶屋の誇りっていうのを理解したら、その時は教えてやるし、協力をしてやる。三人で打ってみるさ」
親方はジョッキの残りを一気に飲み干した。タローはカップを見つめたままじっとしている。
「わかりました。まだ、鍛冶屋の誇りっていうのはまだよくわかりませんが……頑張ってみます。理解できるように」
「……お前ならできるさ……」
親方はやさしくつぶやいた後、突然ガハハとばかりに笑い飛ばした。それから、大きく背伸びした。
「どうやら、俺は酔ってるらしいな。寝るかな?」
「私ももう休むわ」
親方が立ち上がると、おかみさんもそのあとに続く。二人はジョッキとカップをシンクに置くと、食堂を出ていった。
残されたタローは、しばらく窓から差し込む月明かりをぼんやりと眺め、視線は床にぽっかりとできた月光だまりを泳いでいた。
書き溜め分はここまでです
ここからは少しずつのアップになりますので今少し、お時間をくださいませ