5 優しい雨に流れる汗
薄暗い店内に石畳に降りしきる雨音だけが陰鬱にこだましていた。昨晩から、細やかな音を立てて降りしきる雨が霧のように街中をしめらしていたが、むしろ全ての音を包み込み無音の世界を作っているようだった。
折からの雨で来店者もおらず、タローはカウンターに座って商品の手入れをしていた。工房で作業をしようにも、おかみさんが買い物に出ていて留守だったから、店番をするしかなかったのだ。
いつものようにウェスを用意して、丁寧に並べられた商品を端から磨いていく。親方は朝から何やら思案にふけっているようで、槌の音は聞こえずタローの世界は無音に包まれている。
視界の端で、湿気を逃がすためにわずかに傾けられた窓から、思い出したように時々しずくが落ちる。
ふと、耳を澄ますと、通りの遠くの方からひたひたと足音が近づいてくるのが聞こえた。やがて足音は店の前でぴたりと止まると少しの間があってからドアが開き、いつもよりは少し湿ったチャイムの音が店内に響いて静寂の幕を切り裂いた。
入り口に立っていたのは、ずいぶんと変わった風体の男だった。
上半身は深い青色の一枚の布を巻きつけたような服で、長いスカートのような黒いものを穿いていた。指が二股に分かれた靴下をはき、わらか何かで編んだようなサンダルのようなものを履いている。そして雨だというのに、これも草か何かの植物で編んだ笊のようなものを頭に乗せて、笠のようにして雨をしのいでいる。年の頃は三十過ぎくらいだろうか?
頭の笠からは、店の軒先と同じように雨の雫がしたたり落ちている。
「失礼する」
男が少し訛りのある言葉でそう言ったとき、タローはふと気が付いた。どこかで聞いたことある訛り……というよりも、自分の祖父が話す時の言葉に似ていた。ということは……
「東国の方ですか?」
タローは思い切って尋ねてみる。
考えてみれば、男の服は遥か東の島国の戦士である、サムライの格好だ。タローも見るのは初めてだったが、曽祖父の出身の国だから知識としては人よりは知っている。よく見ると腰には長い竿のような、細い剣を差している。思い出せばあとは早かった。
「いかにも」
長い黒髪を後ろに束ね、面長の顔に表情らしいものは浮かんでいない男は、にこりともせずに答えた。
「どうぞこちらへお入りください。なにかお探しですか?」
「こちらは腕のいい鍛冶屋と聞いて、見に参った。よろしいか?」
「もちろん」
タローはカウンターを出て入り口に近づく。男がびしょ濡れの笠を脱いだので、両手を差し出すと、男は初めてにこりと笑って「すまぬ」と笠を差し出した。
「どういたしまして。言葉がお上手ですね」
タローは笠を受け取り、カウンターの後ろに運びながら聞いた。
「立てかけておいて構わぬ……上手だろうか?ひどい訛りだと思うが」
「でも、はっきり聞き取れますよ」
「ありがとう。私はこの国駐在の外交官なんだ。東部海国連合の役人でハンベエ・ムラクモと申す。言葉が分からねば仕事にならぬゆえ」
「それで……むしろお上手ですよ。あ、タローです。鍛冶屋見習いです」
タローが笑顔を見せ、引き出しから洗いたてのタオルを差し出すと、ハンベエは素直に受け取った。
東部海国連合といえば、東の大洋を船でひと月ばかり渡った先にある島国のことだった。
長い間戦乱が続き小国が乱立していたと聞くが数年前に一人の将軍がこの国をまとめ、いくつかの小国と豪族たちの寄り合い所帯として自治権を認めたまま統治者になったという、その集合体が東部海国連合と名乗ったのだが、実質は大きな三つの島を含めた八つの島で構成された、それほど大きな土地を持つ国ではなかったが、土地独特の文化が醸成されていることで有名な国だ。
ハンベエは受け取ったタオルで顔を拭いながら店内を歩き始めた。。馬具や包丁の棚を見回した後に、最後に視線が止まったのはカウンターの後ろだった。
「あれは……どなたが作られたものかな?」
指さす先には槍と剣が飾られた壁があった。
「あれは、うちの親方が師匠……私の祖父なんですが……彼に技を譲られて打ったものです」
「こちら側の細身の方も?」
「ええ……そういえば、あれは東方のサムライの剣でしたね」
「悪いが見せてはもらえぬか?」
「売り物じゃないんですよ」
タローは苦笑いしながら言ったが、ハンベエは真剣な眼差しを崩さなかったのでタローも表情を引き締める。
「……この剣は売り物ではないですよ?」
「かまわぬ。見せてくれるだけでよい」
タローは軽く肩をすくめると、カウンターに戻った。それから背もたれのない丸椅子を動かすと、椅子を踏み台に壁の前へ立った。背を伸ばし釘で作られた溝のような型から剣を外して降ろした。
抜身の刃にはしっかりと油が塗られていて、手入れを欠かさないのでとても美しく輝いている。鞘はカウンターの足元の木箱に収められているので、取り出すと剣を納めてからハンベエに差し出した。
「我が国の刀と同じ形に見える。おそらく作り方も一緒ではないかと思えるが……」
ハンベエは片手で受け取ると懐から雨で湿ってしまった白く薄い紙を取出し、二つ折りにして口にくわえると柄を目の前に水平に構えて、音も立てずに刃を抜いた。
「これは正確には刀というのだ」
ハンベエは感嘆のため息ともくぐもった声でに言う。向きをかえ、かなり近くまで近づけながら仔細を観察している。
「これほどの刀は本国でもあまり見ることはできぬなぁ……さきほど、これはこちらの工房の者が造ったと申したな?」
「ええ、この工房の主人ですよ。私の祖父が師匠なんですが、そのまた父がアマツハラ出身と聞いています」
タローは東部海国連合に所属する小さな島の名前を挙げた。すると、ハンベエは得心が行ったように頷いた。咥えていた紙をはなす。
「貴殿の曽祖父か。確かにタローという名も東国風の名前だな」
「ええ、そう聞いています」
「しかし、これだけの技術を伝えられるとは、名工であったのだろうな。すばらしい刀だよ、これは。この国の剣のように削り出すわけではなく、ひたすら鍛え続けて薄く薄く折りたたんでいく。しかも材も強靭な鋼を使う」
「玉鋼ですね。川底からとれる僅かな砂の鉄を炭で焼き続けます」
ハンベエは再び驚いたように目を丸くした。それを見て、タローは続ける。
「玉鋼も自家製ですよ。専用の炉もあります。材料の砂の鉄だけは仕入れてきますけど」
「なるほど、そこまでこだわっておれば、名刀が生まれる要素はそろっておるな」
「ありがとうございます」
タローは丁寧にお辞儀をした。ハンベエは口に挟んだ紙を取ると、刀を手にしたまま刃の表や裏を観察する。それから軽く上段に構え首をかしげたので、タローは二歩ほど下がってから頷いた。
一瞬、光の筋が走ったように見え、タローは仰け反りそうになった。
ハンベエは両手で上段に構えたまま真っ直ぐに振り下ろしたのだが、空気を切り裂く音がし、風圧を感じて斬られたかと錯覚したタローは、思わず顔に手をあてたのだった。
「すごいです。斬られたかと思いましたよ」
「殺気も出しておらぬし、大したことはない。だが、この刀は大したものだ。重心とバランスも抜群だ。刃紋も美しい……他に武具はないのか?」
ハンベエは半ば興奮気味に言った。
「うちは注文でしか受け付けないんで……」
タローが言いかかけたとき、背後の扉が開く気配がしてぬっと親方が姿を現した。
「お客さんか?」
「ええ、東部海国連合の外交官だそうで戦士……はやく言えばサムライですね……あ、うちの親方です」
タローは、突然現れた大男の姿に怪訝な表情を見せるハンベエに説明する。親方は刀を構えたままのハンベエの姿に何か感じたのか、軽く口笛を鳴らしたが、ハンベエは気づいた風もなく親方に声をかける。
「貴殿があの刀を作られたのか?……素晴らしい」
「ああ、ありがとう」
素直な褒め言葉で珍しく、親方が照れたように頭を掻いた。それから、タローに向かってぼそりと言う。
「試作品が何本かあっただろう。出してやれ」
「いいんですか?……あれ、僕が造ったのも混ざってますよ?」
「構わん、あくまで試作品だ。ただし、売り物じゃないぞ」
タローはハンベエに手で少し待つようジェスチャーすると、カウンターの下に屈みこんで鍵のかかる大きな木箱を漁りはじめた。木箱の中から一本の剣と三本の刀を取り出す。
鞘に納まった四本の武器を見たハンベエは破顔した。
「拝見してもよろしいか?」
嬉しそうに問うサムライに、タローはにこりと笑顔を返し、剣と刀をカウンターの上に丁寧に並べた。
ハンベエはまず先ほどの紙を口にくわえてから剣に手を伸ばすと、右手で飾り彫刻を施された柄をしっかり持って左手で鞘を引き上げた。中から丁寧に薄く砥がれた両刃が姿を現す。幅が広くとられているが、徹底的に不純物を叩き出してあるので見た目よりは軽く作られている。けれどもなにより特徴的なのは、刀身の中心に沿って溝が切られ穴が開いていることだ。先端から数えて三つの楕円が開いている。
ハンベエは吸い込まれるようにしばらく見とれていたが、刃を縦にして軸を確かめたり軽く振るようにして重心を確かめた後、鞘に戻してカウンターの上に置いた。
「強度と軽量化の両立は難しいんですよ。こいつは実戦で使える最低レベルには持っていっているんですけど」
タローが言い訳じみて言うと、親方がかぶせるように言う。
「相手の武器を巻き取るようにも使えるし、なにごとも使ってみんとな」
堂々と言った。
「そうですな。アイデアは大事に。試行錯誤も大切ゆえに」
くすりと笑ったハンベエが答える。
それから彼は刀に手を伸ばし、三本のうちの極端に短い一本だけを手に取った。
「脇差ですな」
確認するようにハンベエが問い、親方は厳かに首を縦に振った。予備の刀として身に着ける小刀を脇差という。大小二本の刀を腰に指すことから、サムライのことを二本差しともいうのだ。
「見事なものだ……」
刀の半分の長さもない脇差だが、造りはほとんど刀と変わらない。磨かれた峰には覗き込むハンベエの顔が映り込み、側面には見事な刃紋が描かれている。
「どうかね?試し斬りでもするかね?」
親方が不意に言った。ハンベエは打たれたように顔を上げて親方を見る。
「よいのかな?」
「ああ、構わんよ。その脇差よりそっちの刀を使うといい」
「いや、結構。この脇差がよい」
雨音が静かに続いていて、外での試し斬りはできそうになかったので、親方はタローにカウンターを片づけるように言った。とはいえ、カウンターの上に片づけるほどの物もなかったので、骨董品に近いレジを足元に下ろすと平らな空間ができた。
「藁か竹でも持ってきましょうか?」
タローが訪ねるが、眉をひそめて思案気な表情を浮かべていたハンベエは、突然不敵な笑みを浮かべると言った。
「いや、それより不要の鉄棒か鉄柱はあるかね?」
「はい?」
タローは思わず聞き返し、その側で親方が豪快に笑いだした。
「いや、すまん。こいつは常識に捕らわれすぎのところがあってな。まさか、斬鉄を見せてくれるのか?」
「試し斬りにはちと似つかわしくなかろうが、これだけよさそうな刀ゆえに試してみたい」
「それは結構……刀、壊すなよ?」
「承知」
タローの想像の少し上のあたりで会話が弾んでいる。両人とも楽しそうではあるが、タローには少しついていけそうになかった。
親方はさきほどタローが刀を取り出した箱から、タローの腕ほどの太さがある錆びかけた鉄の棒を取り出すと、無造作に布で磨いてから、一緒に取りだした万力に挟み込んでカウンターの上に立たせる。
低めなカウンターは棚からは少し離れていて、この傍なら刀が振れるだけの空間が確保できた。脇差なら特に余裕がありそうだ。
「その脇差、この不肖の弟子が打ったんだ。気を付けてくれよ」
何に気を付けるのかを親方は言わなかったが、ハンベエは承知している風に軽くうなずくと脇差を納刀したまま左腰に差して構えた。
静かにゆっくりと呼吸を繰り返し集中するハンベエ。
次の瞬間、締め切られた部屋が開け放たれ風が吹き出すようにハンベエの身体が半身を開くようにして滑らかに動き、再び固まった。片手は脇差が握られたまま振り上げられている。鋭い金属音がタローの耳にぶつかるように響く。
一瞬の間をおいてカウンターの真ん中に置かれた鉄棒が斜めに割れたかと思うと、上半分が軽く宙を舞いくるくると回って床の上にごとりと落ちた。
遠巻きにしていたタローと親方は、思わず止めてしまっていた呼吸を、喘ぐように再開する。
「お見事!」
親方は鋭く短く言った。タローはただひたすらに感心してため息をついた。
タローの常識で考えれば、剣や刀で鉄を斬るということは考えられなかったし、だからこそ対鎧用に斧やハンマーや刺突剣が進化したのだ。これは、とんでもない出会いだと感心するしかない。
そんなタローの心境を知ってか知らずか、ハンベエはにやりと笑ったがすぐに眉をひそめるとすまなさそうに言った。
「すまぬ、腕が未熟か少々刃こぼれを起こしてしまった」
「あ?……ああ、大したことはないな、砥げばすぐ直る。ま、俺が打った刀なら刃こぼれはせんだろうがな」
親方は笑い飛ばした。タローも軽く手を振って見せる。
「未熟だったのは私の腕の方ですよ。もっといい刀を打てるようにならなきゃ」
ハンベエは名残惜しそうに脇差の刃を一瞥すると、洗練された動作で鞘に戻して刀を腰から外し、タローに差し出した。
「いや、この脇差はなかなかのものでござろう。この国にはほかに刀を打てる鍛冶はおられるのか?」
「どうかな?聞いたことはないな。師匠の弟子筋は俺たち二人だけだからな。他に教えたりすることはないし……他に渡航してきた鍛冶師がいれば別だが、そもそも、なにか他と違う剣だと気が付いても、刀だと知る輩はほとんどいない」
「なるほど、他にはおらぬか……実は、勉強と趣味を兼ねてこの国の剣を所望したかったのだが、気が変わり申した。刀を打ってはくれまいか?」
親方は少し驚いた風に目を開いた。
「本国にはもっと凄腕がいるだろうに、いいのか?」
「結構。この国で刀を打ってもらうことに意義があるように思う故」
ハンベエは笑って見せた。親方は嬉しそうに手を差し出すと、ハンベエは躊躇なく握り返した。
「斬鉄だってサムライだからと簡単にできるもんでもないだろうに……あの技を見せられたら受けないわけにはいかんよな」
親方はハンベエに言う。タローは同意して首を大きく縦に振った。
「材料の仕入れに少し時間がかかる。気長に待ってもらうが、いいか?」
「構わぬ。任期はまだある。いざとなれば後任に届けてもらうまでよ」
二人の遣り取りが終わり、ハンベエは連絡先を親方に伝える。メモを取り、細かい打ち合わせの後にタローは口を開いた。
「斬鉄っていうのはできるようになるまでどれくらいかかったんですか?」
「……そうさな……二十年はかかったと思うが?」
「そんなに?」
タローは声を上げる。
「五歳のころから剣を振っておったゆえ。もう少し才覚があれば早いかもしれぬが、まあ、こんなものかと思うぞ」
「技術を身に着けるのて簡単にはいかないんですね」
「それは貴殿とてそうであろう。鍛冶と剣術も技術という意味では大して変わらぬよ。形に現れるかどうかの違いくらいのものだ」
ハンベエは真顔になると、さらりと言った。タローも表情が落ち着く。
「よく訓練された技術と工夫された技術が合わされなければ、鉄はおろか薄紙ひとつ斬れはせんさ」
「そうそう、このサムライ殿の腕と俺たち鍛冶師の腕と、両方がよくなきゃダメだし、両方が飛びぬけていれば、鉄柱どころの話じゃなくなる」
親方が後を引き取るように言った。タローはふむふむと考え込む。
「だから、おまえはしっかり腕を磨いてろってことだな」
親方はタローの背中を豪快にたたき、それを合図にするかのように、ハンベエは背中を向けた。
「今日は雨であったが、出てきてよかった。それでは、また暇をみつけて参る故にお頼み申す」
タローが差し出した笠を受け取ると手慣れた動作でそれを被り、店の戸を開いた。
相変わらずしとしとと雨は降り続いていたが、戸口の上の方に僅かに見える空は、さきほどに比べるとずいぶん明るくなっていて、もうすぐ雨が上がりそうだと告げていた。
ハンベエは静かに歩み始めると、霧雨の中に消えていった。