3 守り人の印
めずらしく親方が店にいる、麗らかな午後だった。
開け放たれた西側の窓からは、差し込む日差しが黒くツルツルになってしまった床に、白い染みのような溜りを作っている。花や新芽の緑色の香りのする風が静かに吹き込み、カウンターの上の帳簿を時折めくり、入れられたばかり紅茶の白く上る湯気を押し広げてたなびかせていた。
急ぎの仕事もなく上機嫌な親方は、店内に並んだ刃物や馬具を見て回り、タローの仕事を検分した後、横に並んで一緒に包丁を磨いている。
「そろそろ、休憩にしようか。昨日、問屋が材を持ってきてくれてりゃ、こんなに暇を持て余さなくて済んだんだが……」
親方はそう言って、先ほどおかみさんが持ってきたカップを一口すすった。タローは、磨いていた包丁を置くと親方の方を見た。傍らではティーポットが静かに湯気を吐いている。
「でも、材があっても仕事ないですよ?」
「バカ。お前の授業だよ」
「ほんとですか?惜しかったなぁ……」
最後の方は呟くように言う。とはいえ、実はタローにはもう一人師匠がいる。それは親方の師匠でもあり、タローの祖父でもあった老練の職人だった。タローが八歳の時から見習いとして、材の見極め、炉の扱い、鉄の鍛え方など、基礎的なことを全部叩き込んだ人だったから、タローは仕事については一通りのことは知っていた。祖父が亡くなった四年前に、今の親方のもとにやってきたわけだ。親方は幾人かの祖父の弟子の中でも抜群の腕前で、祖父の信頼も一番厚い職人だった。祖父が亡くなるときにも、ただ一人、枕元に駆けつけ後事を託されたのだ。
「まあ、お前には材料があってもあんまり関係ないんだがな」
親方はにやりと笑う。普段は無口だが、仕事のこととなると雄弁だった。
「お前は技術的には充分一人前なんだ。実際、何本かの作は俺が修正をして店に出してるしな。売れることもある。後は、心持ちだな」
「難しいことを言われますね」、そう反論しようとしたところで、扉が開く音がして、軽やかな鈴の音が響いた。陽だまりの染みが四角くなって一気に広がり、一瞬影に飲み込まれた後に、ガチャンと音がして再び元の陽だまりに戻る。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは薄い水色にメッキされた鎧と白いマントをまとった長身の男だった。むき出しの金髪の長い髪が優雅に後ろに流れ、一本に束ねられている。年の頃は四十も半ばくらいだろうか。左胸には白いマストに戯れる乙女の図柄が刻印されていて、この街の所属するイビオス王国の騎士団の紋章だと見て取れた。男は柔和な笑顔を見せると軽く会釈をして店内を見回した。
「すまないが、こちらで一振り打ってもらいたいんだが……」
騎士風の男は躊躇なく言うと、すぐ側に飾ってあった包丁を手に取って眺めた。目を細めながらじっくりと検分している。騎士が一振りといえば、それは剣のことだ。
「ああ、すいません。うちは飛び込みでの注文はお受けしてないんですよ」
タローは親方の方を一度ちらりと見てから、いつもどおりの言葉を口にした。男は特に気にした風もなくひとつうなずくと、懐から一枚の羊紙皮を取出して、タローに差し出した。受け取ったタローは一読した後に、となりに座っている親方に渡す。
それは紹介状だった。タローには知らない名前の羅列ではあったが、親方は黙ったまま食い入るように羊紙皮を見つめると、やがてにやりと笑って顔を上げた。だが、何も言わない。タローはたまりかねて、何か口を開こうとしたが、それより先に男が言った。
「名乗りもせずに失礼した。私の名はファレス。このたび王国騎士団の副団長を拝命したのだが、これを機に剣を新調したいと思って参上した」
ファレスの声は太く低く、とても落ち着いた感じのする話し方だった。それを聞いてから、ようやく親方が口を開く。
「ようこそヴァルカンの焔亭へ。紹介状は拝見した。さっきこいつが言ったように、うちは飛び込みで仕事を受けることはまずないんだが……ゾイロス殿とはまた、懐かしい名前だな。どういった関係で?」
「私の剣の師にあたる。いや、それ以上に騎士として私を育ててくれた恩人だ」
王国の守護者たる騎士に対しても、普段と変わらぬ言葉遣いの親方に、ファレスは腹を立てる風もなく端的に答える。
タローは空のカップをカウンターの脇にある小さな開き戸のついた棚から取り出すと、ポットのお茶を注いだ。それから、カウンターの下に畳んでしまってある来客用の折り畳み式の椅子を準備する。
親方は懐かしそうに目を細めて、言葉を選ぶように続けた。
「ゾイロス候は昔の騎士団長だったな。たしか元帥までなって引退したんだったか。俺もずいぶんお世話になった。店を始めた駆け出しのころに時にいくつか注文をくれたし、その前からいろいろ目をかけてくれていたよ。お前の祖父さんも知ってるはずだぞ」
そういってタローを小突く。それを聞いたファレスの眉が一瞬動いたが、何も言わなかった。タローは気が付かなかったが、それは、何か言いかけて、あえて言葉を腹の底に押し込んだようにも見えた。その代わりに、親方が口を開く。
「ご健在のようで何よりだが、もう七十近いご老体だったはず。お元気か?」
「もちろん、ぴんぴんしているよ。紹介状を受け取りに行って久しぶりにお会いしたが、相変わらずだ。最近はめっきり年を取ったといいながら、毎日、若い子を相手に稽古をつけて、しかもコテンパンだ」
「なるほど。さすが湖龍の通り名は伊達じゃないな」
親方がからから笑うと、ファレスもつられて楽しそうに笑った。それから、タローに礼を言いながら、椅子に腰を下ろす。その目の前にカップが置かれる。湯気がふわふわと漂い、香りをまき散らした。
「湖龍のご老体の紹介状があったんじゃ、無下には断れんなぁ」
親方は、ぼりぼりと頭を掻いた。
「騎士に対して失礼は承知だが……騎士殿が提げられているその剣を拝見しても?」
「構わぬ。貴殿は鍛冶屋。武具を持つ騎士にとっては医者も同然。見せぬ道理はないさ」
ファレスは腰の留金を外し剣を外すと、柄と鞘の先を両手で持って親方に差し出した。親方も両手で受け取ると、座ったまま剣を抜き放ち、鞘をタローに渡した。タローも両手で受け取る。
金属製の鞘は革紐が巻かれ、地金の部分に小さな赤い石がいくつかはめ込まれていた。
親方は丁寧に刃の状態や表面の傷を調べた後に、ゆっくりと振り上げ軽く振り下ろした。
「とても大事にされているな。砥ぎ方もとてもいい。重心が狂っていない」
「もちろんだ。師匠のゾイロス候から譲り受けた大事な剣だ。なんどもこいつのおかげで死地を脱している」
「でしょうな。これはよい剣だ。それに私はこの剣を知っている」
親方はにやりとファレスに笑って見せ、ファレスも同様に口の端を持ち上げて見せた。
「これは俺の師匠の作ですな。こいつの祖父さんの作で、駆け出しのころに俺の目の前で作られた剣だ」
そういって再びタローを小突く。タローは目を丸くした。いままでにも何度か祖父の作は見ているが、実際に使われているものを見るのは初めてだった。改めて親方の手にある剣の柄尻を見ると、確かに祖父が使っていた異国の花の刻印があった。
「やはり、ヘラフィ殿のお孫さんか。ということは……」
「そうそう、こいつもなかなか筋はいいんでね」
親方が遮るように言った。ファレスは怪訝そうな顔をしたが、すぐにひとつうなずいて続けた。
「なるほど。それは楽しみだな。で、どうであろう?依頼の件は?」
「そうですな。いつもであれば少し考えさせてもらうところだが、ゾイロス候の紹介状もあるし、なにより、この剣を見て決めた。受けよう」
「かたじけない。師匠よりよいものを作ると聞いていてな」
親方は照れもせずに、一言「努力しよう」とだけ答えた。それから、片手でカウンターの引き出しを開き、羊紙皮とインク壺に羽ペンを取り出すと、羊紙皮を広げてから、タローに羽ペンを差し出した。
「では早速だが、注文を聞こうか?」
タローはあわてて鞘をテーブルに置き、受け取った羽ペンをインクに浸す。
「そうだな。儀礼用にも実戦にも使えるように、しっかりとした作りで。両刃で、身幅と刀身はこいつと同じくらいで」
親方の持ったままの剣をさしていう。親方は、片手で持っていた
「装飾は……アメジストをベースに派手すぎずに。柄はシルバーを使って、王国騎士団の紋章をあしらう。こんなとろでどうだろう?」
「ヒルト(鍔)の部分は翼の形にしてもらうことはできるか?シルバーメッキで構わんから、鋼か何かで強度を持たせて欲しい。ただし、全体の柔軟性だけは損なわずに」
「本当に使う気満々だな。できるが、重くなるぞ?他は?」
「あとは任せるさ」
「心得たよ。時間をもらうぞ。見積もりは改めて用意する」
ファレスは片手をひらひら振って、「サービスしてくれよ」とだけ答えた。親方は肩をすくめると、もう一度じっくりと剣を眺めてから、鞘に納めてファレスに差し出した。
「それにしても、いい仕事だ。しかも、本当に大切にされてるな」
ファレスは無言で受け取ると、笑みをたたえたまま口を開く。
「話に聞いた通り、なかなかの職人だな。いろんな意味で」
「褒め言葉と取っておくよ。また、連絡する」
「わかった。だいたいは王宮の詰所にいる。たまに城外の野営地いるが、詰所に連絡をくれれば大丈夫だ」
ファレスは立ち上がり、来たときと同じように腰に剣をさすと、タローを見た。
「おぬしの名は?」
「……タローです」
ずっと黙って二人の会話を聞いていたので、久々に口を開くと、声がかすれてしまった。が、ファレスは気にしていないようで、立ったまま、カップに残っていた液体を飲み乾した。
「では、タロー・ヤシマか。御祖父によく似ておられる。その名は覚えておこう」
「はぁ。ありがとうございます」
「馳走になった」
あっけにとられるタローをよそに、ファレスは踵を返すと、つかつかと歩きだし、背筋を伸ばしたまま、優雅に店を出ていくのだった。
扉が開き、ベルが乾いた音を立てて再び閉じた。しんとした空気が蘇り、少しだけ緊張がゆるんだ。
「祖父さんの知り合いって、結構すごい人が多いんですか?」
ファレスが出ていくのを確認してから、タローは親方に聞いた。ポットの湯気はほとんど消え、空のカップだけが残っている。
「そうだな。むしろ、師匠がすごい人だったんだが、おまえはまだ小さかったから覚えてないんだろうな」
「物心ついたときには、父も母もいませんでしたし、祖父さんは一線を退いた後でしたから」
「前にも言ったが、この街一番の鍛冶師といってもいいくらいの腕だったからな。王宮に出入りして、騎士団の武具や馬具を一手に引き受けていたくらいだから」
タローはファレスの分のカップを取り上げると、銀色のトレイに移した。それから、少し温くはなっていたが、ポットのお茶を残った二人のカップに注いだ。
「さて、ちょうどいい。講義の時間だな。座学だが」
「はい」
タローは座ったまま背筋を伸ばし、改まった返事をした。親方は満足そうにほほ笑む。
「おまえも見たな、剣は。よい砥ぎの仕事がしてあるし、油の量も適量で、しっかり手入れしてあった。使い込まれすぎて、実戦で使うにはそろそろ限界だろうが、まだ、少しの間は新品のように使える」
タローは無言でうなずく。親方は饒舌になって、続ける。二人の間で行われる授業はいつもこんな感じだったし、タローはどんな話もうれしくなって、夢中で聞いた。口を挟まず無言なのは、楽しんでいる証拠でもあった。
「おそらく、三十年近く前の作だったと思う。あれは、俺が助手に入って打ったものだな。材質はわかったか?」
「ええと……自分ならそう作るというのも込めてですが、芯によく焼いた柔らかい鋼を入れて、よく叩いた固鋼で包んであったと」
「そうだ。よく見ているな。さすがだ」
親方はカップを手に取り、口に運んだ。
「ほかにはなにか気が付いたか?」
「……よく使いこまれてたとは思いましたが、大切にしていた割に、表面に少し傷が多かった気が?……」
タローは手近にあった包丁を手に取ると、刃を横向きに向け上にあたる、平たい部分を指さした。
「ふむ……なんでだと思う?」
「鞘へ納めるときに付くんでしょうか?変な癖があるとか?」
「……惜しいな。見る目はあるが……」
「……わかりません。いつも、親方はそう言われますが……」
タローは少し気落ちして、口をへの字に結んだ。親方は相変わらずほほ笑んでいる。
「まあ、これがすぐにわかるようなら師匠もおまえに跡を継がせてるさ」
「……はい……」
「今日はいつものようにはぐらかしたりはせんさ。いいか、あの剣は無抵抗の人を処刑したり、暴力を振るうためだけに使われたんじゃない。激しい戦闘で使われ、自分やたくさんの人を護ってきたんだな」
タローは無言で首をかしげた。
「つまりあの傷は戦いの痕だ。刃こぼれは砥ぐことで消えてしまうが、刃の平地の部分は簡単には消せないからな。消せば却って目立っちまう」
「そこに傷ができるということは、結構激しく打ち合った、ということですね?」
「それも、盾を使えなかったということは、利き手の反対でなにかを護って戦ったということだろう。盾で自分以外を庇っていたこともあるかもしれない」
タローはかしげていた首を元に戻して、嘆息した。親方も頭を振る。
「これはよい仕事をしないとな。鍛冶屋の名が廃るぞ」
「はい!」
結局のところ、道具を扱う人に惚れこまないと仕事をしないというのが、ヴァルカンの焔亭の親方たる所以であり、意地でもあると、タローはそう思っている。
だが、鍛冶屋である以上、、自分の作ったもので人が傷ついたりすることは避けられないことだからこそ、守るため、生きるために必要な力を作りたい、という親方の想いは漠然としか伝わってはいなかった。
それは、結局のところ、これからタローが自分で学ぶしかないことだし、親方はそれを伝えるために、タローを弟子に取ったのだろう。
すべてはこれからである。
親方は、カップに手を伸ばすタローを見て、昔の自分と重ねながらこっそり肩をすくめるのだった。