ひとさらい~ある神官の独白~
何故、あんな「約束」をしてしまったのだろう。
「ちょっと、話が違うじゃないのっ」
彼女が恐ろしく不機嫌な顔で飛び込んできた時、私は丁度書類仕事に一区切りつけた所だった。
王都の神殿、その奥向きにある神官の執務室へは、一般人はまず入り込めない。
神殿の内部であるため機密文書や貴重品が保管されていたり、また修行の場でもあるからだ。
どうしても特定の神官に会いたければ、受付で取り次いでもらうしかない。
運が良ければそう日を待たずに会えるだろうが、当の神官の手が空かなければかなり待たされることになる。
そして高位の神官になればなるほど、そうした会見の申し込みは増えるが、余程の事情がなければ、早々会見は不可能だった。
しかし、何ごとにも例外はある。
彼女は取り次ぎも通さずにここまでやって来ている。
それはひとえに、彼女の亡き夫がかつて神官であり、彼女の父もまた高位の神官であったからだ。
神殿を遊び場のようにして育った彼女を見知る者は今でも多く、彼女自身は神殿に関わりがないにも関わらず、気まぐれな猫のように神殿内を自由に歩き回ることが出来るのだ。
しかし、今ではそれが忌々しいとため息をついた。
彼女がここへ来た理由、それは自分にとっても酷く苦いものだったから。
「何の話ですか。それにしても騒々しい登場の仕方ですね。いくら神殿内部に立ち入っても咎められないとはいえ、せめて取次くらいは通してもらいたいものですが」
眉をひそめて、敢えて尋ねてみせれば、彼女は執務机につかつかと近寄って来て、白い手のひらで机をたたいた。
「とぼけないで。ねえ、話が随分違うようじゃない?あなた、私に何と言ったかしら」
少しも笑っていない目で彼女は私を見る。
「妻の関心を引きたいから、愛人のふりをしてくれ、そう言ったのよね?ええ、私だって神官の家系の娘よ、彼女の事情も多少はわかっているつもりだった。私としてはこんな厄介な男お勧めしないけど、彼女の気持ちがアンタに向く事で……それで彼女が幸せになるならと思ったのに」
「その通りの事を、協力願ったはずですが?」
「違うわよ!だいいち、彼女はアンタに関心すらないじゃない!あれじゃ私に嫉妬するどころか、大喜びで私にくれるとでも言いたげだったわ。初めて会った時もおかしいと思ったのよ!この前なんて、彼女、なんて言ったと思うの?」
目線で問えば、彼女は苛々と髪の毛をかきあげ、吐き捨てるように言った。
「もうすぐ、貴女の望みが叶うでしょう、ですって!私がアンタと結婚するって思っているのよ。アンタ、一体何してるの?彼女、お腹に子どもがいるんでしょう?このままじゃ彼女自身もそうだけど、子どもにもよくないわよ」
子ども。喜ぶべきことが、これほど苦いものになるとは思わなかった。
“子どもでも出来たら”確かに私はそう言った。
私の家系が、とても子どもが出来にくく、特に高位の神官であればあるほど、そうであるのを知っていて、言ったのだ。
早々出来る筈がないと思っていたから。
たとえ子が出来ても、その頃にはきっとこの関係も変える事が出来ていると、そう思っていたのだ。
私には彼女の望みを叶える気など、初めからなかったのだ。
押し黙った私を見おろし、彼女は重苦しいため息をつく。
「いいえ、何かをしたのじゃなく、アンタは何もしなかったのね。ちゃんと、彼女に伝えてないんでしょう?どんなにアンタが彼女を望んでいたって、言葉にしないと伝わらない。ドレスとかアクセサリーとか、アンタ彼女に贈っていたわね。私も選ぶのに付きあわされたけど……私が会った彼女は、素っ気ないほど地味な服を着ていたわ。ねえ、彼女は贈った物を一度でも身につけてくれたの?」
「必ず、一度は。ですが二度同じものをつけたのを、見た事はありませんね」
気にいらないのかと思って、次は違う意匠のものを贈りましたがと答えれば、彼女は違うわと首を横に振る。
「彼女は、贈り物なんか要らないのよ。だから贈られても、一度は義理で身につけても後は仕舞っているのでしょう。ねえ、アンタは一度でも贈り物を身に付けた彼女を褒めた?……その顔はしてないんでしょうね。何が彼女の気をひきたい、よ。もうアンタに関心すら失くしている人に、アンタは何をしているの」
優しい言葉もかけず、身勝手に束縛して、子どもまで作らせて。アンタのやったことは彼女にとっては暴力でしかないわ。そして、たぶん。
彼女はやるせなくため息をつく。
「彼女にとっては、ここで起きたすべてが、わるい夢を見ているようなもの、なんでしょうね」
彼女の言葉は嫌になるほど的確に、そして鋭く傷を抉っていく。
反論の言葉も浮かばず、机に肘をつき、組んだ手の上に顎をのせて……目を閉じる。
そんなことは、私自身がよくわかっていた。
もうアンタの愛人のふりなんてしないわよと言い置いて、彼女は去った。
亡き友人の妻だった彼女は、再婚話にうんざりしていた。そして私は縁談にうんざりしていた。
お互いの利害の一致で、社交の場では恋人同士のふりをしていたのだ。お互い、そういう目で見られる相手ではないとわかっていたから気も楽だった。
私の結婚を機に、その関係も解消したはずだった。
さて再婚話をどう断ろうかしら、そうさばさばと笑っていた。彼女に愛人のふりを持ちかけたのは、妻の気をひきたいがためだけでは、なかった。妻であるなら、正式な社交の場には伴わなくてはならない。様々な人間が妻を見る。妻の事情を知っている者もいるだろう。
そのような中に、連れて行きたくなかった。……誰にも見せたくはなかったのだ。
自分だけが妻の目に映ればいいと……そう思っていたから。
初めて妻がこちらに現れた、その時のように。
「ですが……やはり、望みを叶えなくてはならないのでしょうね……」
小さく呟いた。妻をこのまま傍に置いたとして、それは妻を苦しめる事にしかならない。
そもそも、初めから妻には意に染まぬ事ばかり強いてきた。
やさしい、やわらかい言葉のひとつもかけられず、気付けば酷い言葉ばかり妻には吐き続けていた。妻を前にすると、何を話していいかわからず、うろたえた挙句の事だと言ってみても、それはもう遅いのだろう。
これではいけないと思いながら、時間はまだあると楽観視していた。
自分の怠慢と傲慢さが、今の事態を招いたのだ。
己の愚かさを笑うしかない。
けれど、と内心で思う。脳裏に浮かぶのは、いつかの夜の出来事。
自分にとっては受け入れがたい望みを口にした妻に、自分がしたことを。
あのまま力を込め続けていれば、妻は呼吸を止めていたかもしれない。
自分の手の届かない遠くへ行ってしまうならと、暗い感情が蠢いた事をわかっている。
いまも心の奥底では、その思いが息づいているのを知っている。
だからこそ、妻の望みを叶えるべきだと……わかってはいた。
自分が、自分こそが妻を害してしまわないうちに。
……毒に倒れた妻を抱き起こした時。このまま失ってしまう事を恐れた。
青ざめた頬、閉じられた瞼、そして腕の中に抱いた身体は、驚くほど細かった。
このまま二度と目を開けないのではないかと思った。
けれど、私を見てくれないなら、この手でもう誰も見られないように、どこへも行かないようにしてしまえ、そう囁く声がある。
その声に耳を塞ぎ、目を背けるように私は呟いた。
「貴女の望みを叶えましょう……」
それだけが、私が貴女にしてあげられる事。
いつかの神殿で、月明かりに照らされた貴女は、微かに微笑んでいた。
そのようなうつくしい笑みは、私に向けられることは、なかった。
私に気付いた貴女は、すぐに笑みを消し、感情の見えない顔を作る。
笑いかけてほしかった、私を見てほしかった、そばにいてほしかった。
私は初めから間違い続けて、そして最後まで間違えた。
そうして貴女を失ってしまう。
しかし、それは貴女が味わった苦痛には足りないのだろうと思った。
END