ひとさらい~ある医師の独白~
滅多に何かを望むということをしない人間が、望んだもの。
それを駄目だと言える人間が、どれくらいいるのだろうか。
「こんな事になるなら、あの時どうあっても私が後見になるべきでしたね」
甥は書斎の椅子に座ったまま、ノックもせず入り込んだ私を刺すような視線で見上げた。
「彼女は侍女に任せてきました。ああ、泣いてはいませんでしたよ。ですが、泣かれる方がよほどマシでしょうね……何故、お前はあんな酷い事を彼女に言うんです」
彼女の事を口にした途端、甥は顔を顰め視線を逸らした。
冷静沈着で知られた最高位の神官が、これほど感情を露わにする所を見た人間は殆どいないだろう。
思えば幼い頃から、感情の起伏が少ない甥だった。
血筋もあり、また資質からしても神官になることが幼い頃から決まっていた甥だった。
冷静で淡々としている様子は、神官としてはよい資質だと思われていて、周りのものも、それが甥の生まれ持った性格なのだと思っていた。
だが、それは違ったのだ。
淡々としていて、何にも執着しないように見えていたのは……単に執着する何かを見つけていなかっただけ。
今、甥の目には、酷く不穏な色と、何かを希求する色、そして葛藤する色とが交互に浮かび……彼自身酷い混乱の中にいるように見えた。
ただ、それを汲んでやれるのも、私が彼の叔父であり幼い頃からを知っているからだ。
彼の不器用さを知っているからだ。
そうでない彼女には……言葉を尽くさなければ、何も伝わりはしないのに。
「……さっき言ったとおりですよ。叔父上もご存知のとおり、神官の家の血筋は子が生まれにくい。まして私は高い位を戴くだけの力もある……余計、子が出来にくいと……出来る事はないとすら、思っていました」
「だから、彼女のお腹に居る子が、自分の子ではないと思った、と。言い訳にすらなりませんね」
私の言葉に、甥は反論せず黙り込んだ。彼女の事に関しては、いつもそうだった。
高い位の神官である甥は、その立場上様々な人間との交流もある。
それを卒なくこなしているくせに、何故か彼女に対してはいつも酷く不器用な態度で接していた。
それを私たちは甥の……初めての感情ゆえの戸惑いだと知っている。
それでもあまりに酷い言葉に、時折たしなめてはきたものの……先程の甥の言葉は、もう取り繕いようのないものだった。
自分が望み、妻に迎えた女性に対して、言っていい言葉ではなかった。
そう、彼女をもとの場所に帰したくないと望み、そして妻にと望んだのは、この甥だった。
彼女の元居た場所へと繋ぐ道が不安定だったのは、事実。
けれど、帰すことが出来ないほどのものでは、なかった。
神殿の巡回も終え、均衡も保たれた。
役割の終わった彼女は、望み通りもとの場所へ帰れるはずだった。
私たちを誘拐犯だと言い、ほそい身体を震わせながらも、気丈に睨みつけてきた彼女。
確かに彼女の言う通り、無理矢理こちらへ呼んでおいて、何ごとかを命じられる正当な理由など私たちの側にはなかった。
まして、事実を隠し、彼女に更に望まぬ立場に追いやる権利も。
「本当に彼女にこれほど辛い思いをさせると分かっていたら、どうあっても私が彼女の後見となっておくべきでした。陛下は時間をかければ大丈夫だろうと言っておいででしたが、事態を甘くみておいででしたね」
各地への神殿の巡回を終え、甥は都へと帰還した。
彼女より一足先に陛下へ挨拶に出向いた甥は、その場で彼女を妻にしたいと請うたのだ。
事実、呼ばれた者と、こちらの人間が婚姻した例は多い。
相手は神官や、後見となった者が大半であった。
こちらの者にしてみれば、均衡を保つ役割で呼ばれた人間の傍は心地いいのだ。
それはこちらの者に欠けた部分を彼女らが持っているからだろうか。無条件で惹きつけられる。
彼女に、“保護が必要”と言ったのもまるきり偽りではない。
過去には呼ばれた者を巡っての争いもあったという。
彼女らにすれば、呼ばれ無理矢理役割を押しつけられ、意に染まぬことばかりだろうに……それでも、長く傍にいる者から、熱心にかき口説かれれば心が動くのか……婚姻を受け入れ、こちらの世界に残ってくれた。
役割を終えても彼女らには均衡を保つ力が働いているので……いつしか、彼女らを何とかしてこちらの世界に残ってもらおうと考えるようになっていた。
こちらに居ればどんな望みでも叶うのだ、あちらに戻る必要はないだろう。
そう郷愁に暮れる彼女らにささやき、半ば強引に婚姻を承諾させた例もあったと聞く。
その婚姻に、彼女らが何を思ったかはわからない。
彼女たちの心の裡までは記されていない。
記録の上からは、彼女たちは大事にされ何不自由ない暮らしを送ったであろう事が読み取れはするものの、たとえ彼女たちが笑っていたとしても、本当は何を思っていたか、は推測するしかないから。
戻りたかった。けれど、戻れないから留まるしかなかった。
やがてはこの世界に馴染みおだやかな気持ちで暮らせたのだろうか。
それとも、望郷の念を抱えたまま、ひっそりと泣いていたのだろうか。
そして、彼女に限って言えば、初めから帰る事が望みだと言っていた。
王へ帰還の挨拶に訪れた際にも、帰りたいと言っていた。それだけが望みであるとも。
それを知っていて……事実を告げなかったのは私たち。
彼女の望みよりも甥の願いを優先させた。
その中には己のいる世界の安定を思う気持ちも含まれていたのだ。
それは彼女の預かり知らぬ、責任を負う必要も義務もない、この世界の事情。
それらが混じり合い彼女を望まぬ場所へと追いやった。彼女は私たちの前で泣く事も嘆く事もしない。
ただ、淡々と自分の望みを言い、殆ど声を荒げることもしなかった。
だからと言って、見知らぬ場所に連れて来られ、その挙句が帰れなくなり……悲しく、また辛く思わぬはずはない。
彼女の現状については、私にも責任があることは重々承知。
それでも、思わずにはいられない。
彼女の意思を無視したうえでの、勝手な考えだと理解しているが……もし甥が自分の思いをきちんと口にしていていれば。何度も彼女に希っていれば。
もしかしたら、彼らの関係は今とは違ったものになっていたかもしれないのにと。
王が……甥の願いを叶えるため、建前として言った“保護のための名目上の婚姻”ではなく、本当の夫婦になっていたかもしれないのにと。
彼女に真実を告げなかったという罪悪感は付いて回るだろうが、それは望みの代償として甘受すべきもの。
望みがかなうのだから、彼女が穏やかに過ごせるよう、心砕かなくてはならなかったのに。
「……時間はあったのに、お前は彼女に何も言えないままでしたか。お前が不器用なのは知っています。けれど、それは言い訳にもなりませんよ。自分が彼女を望んだのに、お前は彼女を傷つけることしかしていない。わかっていますか、彼女はもう、お前には何一つ言葉を伝える気持ちはないようですよ。どのような言葉でも曲げて伝わるなら、言う必要もないと言って」
びくりと甥の肩が跳ねた。怯えているようにも見える様子に、甥の救い難い不器用さを憐みながらも、それ以上に彼女のこれまでに味わったであろう恐ろしさを思うと胸が塞がるようだった。
彼女はこの屋敷で過ごしているあいだ、やすらいでいられる時はあったのだろうか。
ほぼ屋敷内だけで過ごしていたらしい彼女。
本を読み時折料理を作る他は、庭園を散策していたと話していた彼女。
甥は彼女をまるで屋敷に閉じ込めるようにしていたのだ。社交の場にすら伴っては来ず、同伴する必要がある場でも違う女性を伴って来ていた。
彼女はずっと、“自分は望まれてなどいない”そう思っていたのだ。
どれほど言葉を尽くし謝罪しても、足りない気がした。
顔も上げない甥に、最後通牒を突きつけるように言った。
「ここまで来たら、彼女との約束を守るしかないでしょうね。今更彼女に、どれほどお前が彼女を望んでいたと言ったところで、彼女は信じないでしょう。これまでのお前の言動の報いです。自身が招いたこと、甘受しなさい」
甥の書斎を出ると、そこには執事が控えていた。
彼女の様子を尋ねると、表面上は落ち着いた様子でお茶を飲んでいるとのこと。
泣いて詰られた方がどれほどよかったか。
私たちは一体どれほど、彼女に苦しさ悲しさを呑みこませてきたのだろう。
これ以上は、看過するわけにはいかなかった。
「彼女に、アレを近づけないようにさせて下さい」
承知いたしましたと執事は頭を下げる。
本来ならこの家の主人でもない私は、彼に命令を出す権限はない。
だが執事は、結婚当初の彼女の状態を知っている。医師である私を呼んだのも執事だった。
彼は主人の執着の行方を、恐れている様子だった。
いつか奥さまを損なってしまいかねません。そう不安をもらしたこともある。
甥には釘を刺しておいたので、彼女に近づく事はないだろうが、念には念をいれておいたほうがいいだろう。
お願いしますねと言い置いて、私は甥の屋敷をあとにしたのだった。
彼女の願いは、遠からず叶うだろう。
けれど、叶ったとして。
誰にとっても、それは苦いものになるだろう。
彼女自身にとって、さえ。
それはとても悲しいことだった。
そしてそれを悲しむ権利は、私たちにはないのだった。
END