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「お茶のおかわりはいかがですか」
「いえ、もう充分です、ありがとう」
空のカップを渡すと、彼女はにこりと微笑み、手際よくテーブルの上を整えてゆく。
それを見るともなしに眺めながら、テーブルの隅に置いておいた本を手にとった。
けれど、取ったもののページを捲る気にはなれなかった。
窓越しに見える空はよく晴れ渡り、穏やかな風が吹いている。
散歩をするにはうってつけの天気だった。
「いいお天気ですし、お庭でも散策されてはいかがでしょうか」
閉じられたままの本と、わたしの視線の先を見て取り、彼女はすすめてくれる。
しかしわたしは首を横に振った。
「いいえ、やめておきましょう」
わたしが居るのは、とある神殿の一室だった。
出発を一週間遅らせたのち、神官はわたしを連れて要所にある神殿への巡回を始めた。
医師はわたしの体調を案じてか、もう少し先延ばしにするよう提案したが、神官は聞き入れなかった。
あの日、再びの眠りから目覚めたわたしは、自分が王宮から違う場所へ移動していたことを知らされた。
目覚めた時傍にいた侍女に尋ねると、ここは神官の屋敷だと教えられた。
出発までここで養生していただくことになっております。私がお傍でお世話させていただきますので、何でも仰ってくださいませ。
にこやかに微笑まれ、まして身動きもままならない身体では、人の手は必要ないと言えず、不承不承頷いた。
食事にしても……初めは口に入れるのを躊躇ってしまったが、事情を聞いているのか、侍女は毒見をするようにわたしの目の前で少しずつ食べて見せ、それからわたしに差し出してきた。
疑われている事に怒りも見せずまた悲しそうにも見せなかった。
そうするのが当然のように、食事やお茶のたびに彼女は毒見をする。
わたしの事情を考えてか、それともあまり接触する人間を増やしたくないとの意向があるのか、この屋敷に来てもわたしが接する人間は少ない。
体調が完全でないうちは部屋から出なかったし、回復しても部屋とせいぜい庭に出るくらいのものだった。籠の鳥のようだと思わないもないが、ここに居るのはほんの一時の事だと聞いているので、気にするのはやめてしまった。
考えてみれば、わたしを害そうとするなら、あの時に助けていたはずもない。
医師は、せめて王と自分と……神官だけでも信用してほしいと言った。
信用出来るかは別問題だが、無闇に警戒するのはやめようと思った。
実際、疑いだせば際限がないし、どこかで折り合いをつけないとわたしの神経がもたなかった。
すこしでもたくさん食べて、体力をつけないと心配で送りだせませんね。
わたしの診察に訪れるたび、医師はいささか難しい顔をした。
こちらの人から見れば、わたしは子どものように小さく、細く見えるらしい。
こちらで会った人は男でも女でも、骨格からして違うのだろう、かなり体格が良かった。
おそらくはそのせいだ。
わたしの居る所では、この体格は平均ですよと言ってみても疑わしげな目を向けられて終わりだった。
実のところあまり食べられなかったせいで、痩せていたのは事実だったから。
医師はわたしを診察したあと、他愛ない話をしては帰ってゆく。
流行っているというお菓子のことだったり綺麗な花のことだったり。
話題は他愛ないものばかりだったが、他には医師自身のことなども聞いた。
医師は王や神官の叔父であり、神官は王の従兄弟だという。
彼らの間の、どこか気安い態度は互いに血縁同士だったからかと納得した。
あれから神官は一度も顔を見せなかった。
自分の屋敷なのだから帰って来ていたのだろうが、わたしの居る部屋には顔を出さなかった。
わたしも気にも留めなかった。
顔を合わせたのは、巡回の旅へと発った馬車の中だった。
位の高い神官であるうえ、王族の一人と、遠い場所から“特別に”呼ばれた人間。
その二人の警護の都合上とやらで、同じ馬車に乗る事になったのだ。
警護する対象が分散するよりはまとまっていた方が守りやすいという考えはよくわかるが、このときほど侍女が居たことを有り難く思ったことはない。
長時間あの刺すような視線に晒されるのかと考えるだけで気が重くなるからだ。
通常ならば侍女は同じ馬車に乗らないものと聞いたが、不慣れなわたしのために敢えて同乗させたらしかった。医師あたりがわたしの体調の事などを考えて進言してくれたのだろうと思う。
事実出発の時にはまだ体調が完全に回復してはおらず、揺れる馬車に酔い酷い吐き気に悩まされながらの旅になった。そうでない時はずっと眠っていたのだが、侍女が居なければ体調が悪くても到底言いだせなかったろうし、まして神官の居る場所で眠ったりも出来なかったろう。
外に出れば少しは楽になるかと思ったが、旅の始まりは散々なものだった。
そのようにして。
わたしは神官に連れられ神殿の巡回に出向いたのだが。
「……旦那さまの仰ったこと、気になさっておられるのですか?」
侍女は神官の事を旦那さまと呼ぶ。神官の屋敷に仕える侍女であるから、だ。
いいえ、とわたしは首を横に振った。
気にはしていない。ただ……言葉に逆らってまで行動するだけの意欲がないだけだった。
後であれこれ言われることを考えると、それを押して叶えるほどの望みでも、ない。
帰れるという望みが叶うなら、多少窮屈な思いをしても、それは些細なことだと思った。
「それならば、どうぞお気持ちのままにされてはいかがでしょう。こちらでしか目にできない珍しい花も咲いておりますし、なによりこちらでも、神殿の中に籠ったきり殆ど外へ出ておられないじゃないですか」
この神殿ではや幾つ目だろう。数える事はやめてしまっていたが、旅に出て季節は二つほど変わった。
要所の神殿だけとはいえ、各地に幾つもあり、そしてそれらは互いに遠く離れていた。
どの神殿でも、わたしが特別何かをする事はなかった。
神殿の長に引き合わされたあとは神殿の一室を与えられ、侍女を相手に数日を過ごす。
そして神官がこの地ですべき役割が済んだあと、再び長に挨拶をして去ってゆく。
その繰り返しだった。
初めは侍女のすすめもあり、またもの珍しさに惹かれて、一般の人々も訪れる神殿の内部を歩いてみたり、また花が咲き乱れる庭園を散策してみたりしたが、それらはすぐにやめてしまっていた。
この地において、自分の姿形が珍しいものだということはわかっていた。
またこちらでは年若い女性が外出する時、帽子をかぶりヴェールで顔を覆う事が多いという。
わたしも自分の立場はわきまえているので、ここでまで、男装をしたいとは言わずに侍女の差し出すドレスで過ごしていた。
とは言え、わたしはいつも簡素なものでと言い張り、侍女はこれでいかがでしょうかと、わたしの目からすれば布の多いドレスを差し出してくるので、毎朝ちょっとした攻防になってはいたが。
一番初めに訪れた神殿の長は、皺ぶかい顔に柔和な笑みを浮かべた後、貴女様にとっては珍しいものばかりでしょうから、どうぞお好きに散策などして下さいと言ってくれた。
この神殿の庭園は、少しばかり自慢なのですよと。
神官はわたしにここでの役割が済むまで大人しくしていろとだけ言い残し、他の神官たちについて何処かへ行ってしまった。
わたしはただ居るだけで、他に何もすることがないのだろうとそっとため息を零す。
贅沢なことなのだろうが、時間を持て余した。
侍女が淹れてくれたお茶を飲み、持参した幾つかの本を眺めて過ごす。
それらにも飽きたとき、ふと長の言葉を思いだした。
神官は大人しくして居ろと言ったが、きちんとドレスを着て帽子やヴェールまで被っての散策だ。
わたしがどこの誰だかわかる者はいない。
侍女に散策がしたいと告げると彼女も籠りきりではお体に悪いですし、是非そうなさいませと賛成してくれた。勿論自分をお連れ下さいとは言ったが、それは想定の範囲内だった。
一人きりで行動できるとはわたしも思っていない。
侍女の用意した、散策に相応しいドレスに着替え、帽子やヴェールを被り、わたしにとっては珍しい神殿を歩いた。また長が自慢する見事な庭園もそぞろ歩いた。
こちらへ来てこれほど長い間外を歩くのは久しぶりの事で、何でもない散策だったがとても楽しいものだった。
また明日も見て回ろう、そう思っていたが……夕刻部屋を訪れた神官によって、楽しかった気分はたちまち霧散した。
「大人しくしていて下さいと、私は言いませんでしたか」
部屋を訪れるなり、神官はさも腹立たしげに言い捨てた。
丁度その時侍女はおらず、わたしはまだ散策用のドレスを身に付けたままだった。
慣れない格好は窮屈ですぐにでも着替えたかったのだが、侍女に、夕食が済むまではどうかそのままでと言いくるめられてしまったのだ。
どのみち一人では脱ぎ着も容易でないドレスだから、そう言われては頷くしかなかった。
「何も騒ぎなんか起こしていないし、ただ散策しただけです。それにちゃんとこちらにあわせた衣装で過ごしていました。ヴェールまで被っていたのだから、誰もわたしのことなんかわからない。それに侍女について来てもらったのだから、わたしが何か変な事をすればちゃんと注意してくれたはずです」
ただの散策を何故咎められるのかと、わたしは神官の青い目を見返した。
すると視線は逸らされ、かわりにわたしの頭から爪先まで無遠慮に見つめられる。
「どのような衣装を着た所で変わりませんね。……本当に貴女など連れてくるべきではなかった。いいですか、二度は言いませんよ。私の仕事が済むまで、ここで大人しくしていなさい。いいですね」
忌々しげに言われ、反射的に頭に血が上った。
侍女はドレス姿を褒めてくれたが、自分で見るといかにも着せられている感が強くとても似合ってなどないと知っている。男装の方がよほどマシだともわかっていた。
それでも……似合っていようがいまいが、ここで求められる振る舞いにのっとった装いをしただけだ。
まして行動を制限される謂われはなかった。
「……ひとを勝手につれて来ておいて、本当に横暴なことですね。わたしは大人しく“籠の鳥”でいるでしょう。これ以上なにをどうしろと?わたし自身が気に障るなら、わたしなど見なければいいでしょう。その方がお互いにとって幸いでしょうね」
それは、と神官は低い声で何ごとかを言いかけたが、言葉は途中でかき消された。
侍女が食事の載ったワゴンをひいて、部屋に入ってきたからだ。
「旦那さま、こちらにいらしたのですか。お食事はどこで召しあがられますか」
「……長殿とご一緒することになっています。彼女はここで摂るのですね」
「はい、その方がお気が楽でしょうから」
神官は頷くと、わたしの方を振り向きもせず部屋を後にした。
彼女は神官とわたしの間の重苦しい空気に気付いていたのだろう、何かございましたかと控えめに尋ねてきた。
「……なにもないわ。ただ……彼にとってわたしは何をしても気にいらない人間だってことを再確認しただけ」
それから幾つもの神殿を巡ったが、どの神殿でもわたしは一室に落ち着いたあとは殆ど外へ出なかった。
わたしが閉じこもっていれば満足なのか、あれから神官は何も言ってこない。
馬車の中でも書類に目を通しているか目を閉じているかで、わたしに視線を向ける事もなかった。
馬車の中では侍女が色んな話をしてくれたし、また窓の外も見せてくれたので、体調が戻り馬車にも慣れた頃は、旅じたいは苦痛ではなくなっていた。
そうして淡々と単調な日々は過ぎ、聞けばあとわずかで巡る神殿も終わるという。
あと少しというなら、全て終わるまで心穏やかにいたいと思うだけなのだった。
そう言うと侍女は困ったような笑みを浮かべていた。
あまり動き回る生活でもないので、夜中まで寝付けないこともしばしばあった。
幸か不幸かこちらに慣れてしまえば、神経がささくれだつ事も少なくなった。
重石のようにのしかかる、帰りたい場所のことについて目を逸らしてしまえば……残されたのは酷く単調な日々だった。
一日、一日が過ぎる。
そのたびごとに帰る日が近づいていると思う事が、自分の支えだった。
そして、ここが最後に訪れた神殿だった。明日の朝にはここを発ち、王宮へと戻る。
そうしたら……わたしは戻れるはずだった。
神経が高ぶっているのか眠気はちっともやってこない。
寝台の上で寝がえりを繰り返し、とうとう起きあがる。ふと床を見ると濃く長い影が落ちていた。
窓の外を見ると明るい月が昇っている。この部屋の裏手に、表からは見えない庭があったはずだ。
どうせ寝付けないのなら、少し風に当たって来ようと思った。
外に出るわけじゃない、すぐそこだからと夜着の上からショールを羽織り、そっと部屋から出た。
わたしの案内された部屋は神殿の奥にあり、昼間でも人気はない場所だった。
それが深夜ともなればますますあたりはしんと静まり返っていて、葉擦れの音や獣の鳴き声、そして虫の声の他はなにも聞こえてこなかった。
足音を忍ばせて庭に下りる。裏庭といってもきちんと整備され、たくさんの花々が咲いている。
昼間であれば多彩な色彩が目を楽しませたことだろう。
それでも、煌々とした月明かりの下での花も、充分見事なものだった。
青白い光に照らされた花々は、仄かに光を放っているように見えた。
丈の短い草で覆われた庭。風で草がなびくさまは、波のようにも見えた。
頭上を振り仰ぐと、新円に近づいた月が見おろしている。
月は同じように見えるのに、どれほど遠い場所に来ているのだろうか。
本当に帰れるのだろうかという不安は、心に沸きあがるたびに押し殺してきた。
帰れるのだと、そう約束してくれたのだからと自分に言い聞かせながら。
ざあっと風で草がなびく。どれくらい月を見上げていたのか、気付けば身体がすっかり冷えていた。
そろそろ部屋に戻ろうと、振り返った時だった。
人影を目にし、ぎくりと身体が強張る。足音ひとつ聞こえなかったのに。
建物の影になり、その人の顔は見えない。息を呑むわたしをよそに、人影はこちらに近寄って来た。
月明かりに照らされたその人の顔を見て、わたしは安堵よりも気分が塞ぐのを止められなかった。
冴え冴えと光る銀髪、青白い光の下ではより酷薄に見える目の色……氷よりも冷たい声で、神官は言った。
「こんな夜更けにどこに行くかと思えば……おまけになんですかその格好は、はしたない。誰かを誘い込むつもりですか」
確かに外を出歩く格好ではない。
けれど少しばかり出歩いた程度で、これほど悪し様に言われる謂われはなかった。
「ここはほとんど誰も来ないと聞いています。誘う相手など居る筈がないでしょう。それに、誘うならもっと違う格好をしますよ」
もっと色気のある格好をねと淡々と答えれば、神官は険しい顔つきでわたしを睨んだ。
それに構わずわたしは言葉を続けた。
「それに、わたしは見苦しいんでしょう?そうであるなら、誰もわたしの誘いになど乗る筈がないでしょう。ご心配なく、もう部屋に戻ります」
彼の傍をすり抜けて部屋へと戻る。背後から待ちなさいと声がかかったが、振り返る事はしなかった。
王宮へと帰る馬車の中は、奇妙なほど平穏だった。
神官はわたしに何かを言う事もなく、わたしの方から話しかけることもない
侍女だけはわたしが退屈しないようにと気を遣ってくれ、何くれとなく話しかけてきた。
本当に侍女がいてくれてよかったと思う。この旅が終われば侍女ともお別れだ。
返せる物など何もないが、せめて感謝の思いだけは伝えよう、そう思っていた。