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◇5




 このことは今日まで誰にも言わなかったけれど、と花挿(かざ)し姫は言った。

「私はずっと願って来た。いつの日か花神に会いたいと。

 だって、私の手を取って花の育て方を教えてくれた父君はいつも言っておった。

 心を込めて花を育てればいつの日か花神が訪ねて来る、と。

 父君は男子(おのこ)だったから、訪れた花神は女神だったろうな?

 だから、私も──私の花神にいつか必ず会えると信じて来た。

 そのことを願って、心を込めて花を育てて来たのじゃ。

 そして、とうとう……私の元にも私の花神がやった来た……!」

 雪丸は何と答えていいかわからなかった。

 口を閉ざす雪丸に、上気して姫は話し続ける。

「ほら、(いち)に行った、ちょうど次の夜じゃ。花神が私の元へやって来た!」

 それは眩いばかりの月の夜で、月光の降る花畑に花神は静かに降り立ったのだと言う。

 その姿がどんなに気高く、煌びやかであったか……!

「夢見た通りであった……」

 姫は熱っぽい目で花神の装束の一々を雪丸に教えてくれた。

 目が覚めるように丈高く、雪白の肌、花の顔ばせ。

 雪丸は遂に一言も口を開くことなく、門を出た。そして──

 日の沈むのを待って、再び中納言の邸へ戻って来た。



 姫の語った、〈花神〉をこの目で見届けたいと思ったからだ。

 雪丸は姫の言葉を露程も疑ってはいなかった。

 姫の言う通り、花神は訪れたのだ。

 だからこそ(・・・・・)、一目なりともその姿を自分の目で見ておきたかった。

 邸は日中と変わらずひっそりと静まり返っていた。

 雪丸は花畑の中に身を隠して、待った。

 

 深更、花神はやって来た。

 重陽の節句から数えて八日目。

 空に掛かる月は既に玄月である。

 それでも、噎せ返るような香りの花畑に伏せて、闇に慣れた雪丸の目は、容易に花神の姿を捉えることができた。

「──……」

 姫の言い表した通り、まさにその通りだった……!

 長身に立烏帽子(たてえぼし)。紫苑の狩衣(かりぎぬ)二藍(ふたあい)指貫(さしぬき)

 金襴(きんらん)(くつ)のせいで音もなく、(さなが)ら水面を滑るように夜を()ぎって行く。

 花神は迷うことなく透渡殿(すきわたどの)を廻り、邸の奥へ消えて行った。

 雪丸が見ることができたのはここまでである。

 だが、それで十分だった。

 それ以上残っていて、姫のあの可愛らしい桜の唇から溢れる(ねや)の泣き声を聞きたいとは思わない──


 雪丸の方も泣きはしなかった。

 ただ口を引き結んで己の所属する世界へ帰って行った。

 河原へ。

 慣れ親しんだ葬送集団(きよめ)の仕事へ。


 

 


 戻った後は、幸いにも雪丸は忙しかった。

 立て続けに、休む間もなくあちこちから声がかかった。

 それというのも懇意になった検非遺使のお陰だ。

 〈犬狩り〉の件以来、雪丸を頼もしく思ってか、率先して仕事を回してくれた。

 雪丸はアブレて河原で石打ちをする暇もなくなった。



「おや、雪丸? おまえ、いい匂いがするな? 隅に置けぬ。何処で付けて来た?」

 その日、直々に河原へやって来た検非遺使にからかわれて雪丸は驚いた。

 中納言邸に通っていつの間にか自分にも花の香が染み付いていたらしい。

 検非遺使は訳知り顔でニヤニヤ笑ってから、顔を引き締めた。

「まあ、いい。おまえ、今日はこれから私と一緒に故右少弁の有業堂まで来てくれ」

「仕事ですね。また鳥辺野(とりべの)まで運ぶんですか?」

「まあな。だが、今回は少々ワケありでな」

「?」


 検非遺使についてその堂まで来ると、戸口に女が一人、待っていた。

 今日、葬送の地まで運ぶべきはこの女の夫だったが、問題が一つあった。

 夫はまだ死んでは(・・・・・・)いなかったのだ(・・・・・・・)


 雪丸の姉と言っても通りそうな、うら若いこの妻が顔に深く苦悩の皺を刻んで言うには──

 自分たち夫婦はこの堂を借りて住んでいる者だが、夫は病になり今日明日の命である。

 だが、堂内で死んで、ここを穢してしまっては貸主様に申し訳ない。

「そう言うわけで、どうか、夫を死ぬ前に(・・・)葬送地(やま)まで運んで欲しいのです」

 流石に雪丸もまだ生きている人間を運ぶのは初めてだった。

 だが、懊悩する若妻以上に、自分が死んだ後も妻をこの堂に住まわせてやりたい、せめてそれだけが先に逝く自分にできる精いっぱいのことだから、と痩せた手を伸ばして訴える男を見て、雪丸は頷いた。

「承知しました。俺が請負いますよ、検非遺使様」

「助かった!」

 検非遺使は正直に喜んだ。

「誰に命じても、流石に、生きている者を運ぶのは嫌だ、後生に悪い、と皆、二の足を踏んでな。

 だが、息を引き取ってからでは遅い。堂が穢れると言って、家主が聞かぬ。

 私もほとほと困っていたところだ。おまえが引き受けてくれて助かったよ、雪丸!」

 雪丸の肩を叩くと、

「では、そういう理由(わけ)だから──元気な内(・・・・)に早速運び出してくれ」

 生きていることを己の目で確認したがった家主立会の元、雪丸は男を背負って堂を出た。

「おまえは帰れ、ついて来るな」

 追って出て来た妻に雪丸の背中から夫は言った。

「でも、おまえ様……」

「お互い辛くなるだけじゃ。ここで良い」

 男の苦しい息遣いが雪丸に伝わる。

「おまえと夫婦(めおと)になれて……一緒に暮らせて俺は幸せだった。さらばじゃ。達者で暮らせよ」

「おまえ様……」

 女は夫の手を握った。

 そのままいつまでもそうしていたので、夫の方が振り払った。女の手は雪丸の肘に落ちて絡まった。

 華奢な女だったのに、その姿からは想像もできないくらい強く握りしめられた。

 その手に籠った力とは裏腹に消え入るような声で女は言うのだった。

「……この人を……お願いします……」

 雪丸は歩き出した。

「無理を頼んで本当に申し訳ない」

 背に揺られながら夫は言った。

「気にしないでください」

 雪丸は答えた。他になんと言えばいい? 

 これが俺の仕事ですから? それとも、こうか?

 こうして自分一人で背負って運べるから、屍より生きてる人間の方がずっと楽でいいですよ……

「おうい!」

 検非遺使が追って来たので、足を止める。

「これを、女房が渡してくれと──」

 (むしろ)だった。



 鳥辺野に着くと雪丸はその心尽くしの筵の上に男を寝かせた。

 あれきり男は一言も喋らなくなったが、生きてはいた。

 すぐには死にそうもなかった。

 実際に男が死んだのは三日後のことだ。

 その間、雪丸は傍にいて様子を見ていた。

 男が死んだのを確認すると、山を降りて妻にその旨伝えた。

 


 それが十月半ばのこと。

 特異な仕事ではあった。

 これ以外は普段通りの仕事をして、いつも通り時は過ぎて行った。




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