光の定刻【後】
襖が開かれると、うっすら線香の匂いがした。
先に入った女性に続き、三嶋は足を進める。示された仏壇の前の座布団に座って、灯された蝋燭に挟まれる写真を眺めた。――兄が起こした事故で亡くなった、少年。三嶋の後ろに座っている女性は少年の母親で、彼女曰く、その少年は自分と同い年だったらしい。
線香を手に取り、蝋燭にかざす。やがてついた火を何度か手ではらって消すと、細くて白い煙がふぅっと伸びた。薄く漂っていた匂いも明確になる。線香の煙では煙草の代わりにはなれないのか、自分の中の気持ちを曖昧にすることは出来なかった。
手を合わせて、眼を閉じる。後ろで母親がすすり泣いているのが伝わる。三嶋と少年が重なって見えているのかもしれない。
父に連れられて訪れたのは、和風の一軒屋だった。少年はこの家で、父親と母親と妹の四人で暮らしていたらしい。そしてあの日、暗くなった頃に歩いて帰る途中で、三嶋の兄が運転する車に轢かれ生涯を閉じた。
少年の鞄についていた反射材が剥がれていたこと、兄が今の状態になったのは少年を避けようとして電柱にぶつかったせいだということもあり、言い換えるなら痛み分けというような形で、三嶋がようやく事実に向き直ろうとした時には両家は争いごとも無く話をつけ終わっていた。あの日のことを何も知らなかったのは三嶋だけで、あの日から取り残されているのは三嶋だけだった。
眼を開くと、写真の中の少年の姿が飛び込んでくる。
仏壇の横に積み上げられている画集に今にも手を伸ばしそうな様子で、写真たての前の白い皿に供えてある地元銘菓に感激しているような様子で、少年は満面の笑みを浮かべていた。
――どうりで、県内じゃ見たことの無い制服だと思ってたよ。
石造りの表札を見たときから、符号の合致には気付いていたのだ。
月曜の帰り道、拍子抜けするほどいつもと変わらず、彼は花壇に腰掛けていた。
「だから言ったじゃん、三嶋を待ってたんだってさ?」
近づく三嶋に気付くと、にっこりと笑顔を浮かべて言った。金曜に別れる前と、何ら変わりの無い笑顔と口調だった。
「わざわざ此処まで来て……、取り憑いて、俺を呪うために?」
「始めはどうだろう、そういう気持ちもあったかもしれない」
車に轢かれた柳井は即死だったらしい。苦しむ間も無く、ふと気付けば何だかよく分からない場所に居た。しかしだんだんと状況を把握して、どうやら自分は死んだらしいということに行き着くと、途端に悔しい思いが募ってきた。
「運命はずるいって思ったんだよ。すんなり死を認められなくて。僕まだガキだし」
そうして再び気付けば、この公園に居たのだという。
「どうしてかな、三嶋のことはすぐに分かったよ。事故とはいえ、自分の命を奪った人の家族なんだって。だから分からない、もしかするとその時は三嶋も殺してやりたいなんて思っちゃってたかもしれない」
そこまで言ってから、今はそんなこと思ってないよと柳井は片手を振った。悠長に笑えるような内容じゃないのに、三嶋は自分が穏やかに笑っていることに気付いた。
「俺、霊感なんて無いし。幽霊も信じてなかった」
「僕は今でも信じてないよ、見たこと無いもん」
そんな風に笑う柳井に、ずるい、と三嶋は思った。
足もちゃんとあって、身体も透けてなどいない。何よりその性格や態度がリアル過ぎて、死者だと見破ることなんて出来るはずもなかった。でも、考えてみれば当たり前だ。柳井だって死ぬ前はただの人間だったのだから。リアルとそうでないものなど、生きている者が勝手に区別しているだけだ。
「気付いたときは、驚いたなんてもんじゃなかったぞ」
「あはは。『アッと(at) 驚くサプライズ(surprise)』、成功だね」
それは苦手教科の話をした時に出たもので、英語が苦手だと言った柳井に、三嶋が教えたいくつかのフレーズの中の一つだった。教えた時は、これでテストは完璧だと豪語していたくせに、彼がテストを受ける機会はもうやってこない。
「なんで死んだんだよ」
「えっ。それ、僕に訊くの?」
「兄貴や俺のこと、恨んでるか?」
「今はまったく。将棋のお兄さん、早く眼が覚めるといいね」
「……いつかさ、俺も死んだら、幽霊になるのか?」
ぱたぱたと足を交互に揺らして、穏やかな表情の柳井は空を仰ぐ。
「うーん、それは何とも。あ、でも、それいいかもね」
柳井にならって、三嶋も上を向いた。まだ青みが残っている空だけ見れば、前に柳井が言っていたように暖かそうにも見えた。それでもやっぱり頬を撫でる風は切るように冷たくて、空を見上げたままでいるととても不思議に感じる。
「三嶋もさぁ、死んだらどうにか頑張って幽霊になってよ。そしたら僕が迎えに来るから、飲酒運転してる人のところとか、図書館の本を切り取っちゃう人のところとか、二人で全国各地に化けて出ようよ。それで、幽霊が世の中を正すんだ!」
楽しげに拳を握る柳井に、前代未聞だな、と三嶋も笑った。
何十年先になるか分からない、もしかするとそれは明日にでもなるかもしれない、幽霊との約束。下を向いて鼻をすすった三嶋を、柳井は、ほんと寒がりだねと茶化した。
ちかちかと何度か瞬いた後、公園の電灯が灯った。その瞬間を何度も眼にしてきた三嶋には、じきに青空が消えてしまうのがよく分かっている。今の時間が心から惜しくて、出来ることなら、時間をこの境界で止めてしまいたいと思う。
「あ。そうだ、サプライズといえばさ!」
このリアルがほどけていくような僅かな瞬間に似ている、
あの絵の題名は何だったか。
「三嶋、知ってた? 北九州って、九州の上半分のことじゃないんだって!」
馬鹿馬鹿しい会話を楽しんできた自分たちに相応しすぎるような、とても馬鹿馬鹿しい一言を残して、柳井の姿は絵に溶けた。
寒かったでしょう、あら鼻が真っ赤だわ、と帰宅した三嶋を迎えた母は、着替えてきなさいと言うことも無く制服姿のまま三嶋をソファに座らせた。
「今、あったかいココアでも淹れるからね」
そう言ってキッチンに向かおうとする母に、三嶋はお茶にして欲しいと頼んだ。鞄のジッパーを開き、中から包装紙に包まれた箱を取り出す。その箱を見た母は、驚いたように軽く眼を見開いた。
「お友達と食べなかったの?」
「まぁちょっと……出しそびれて」
マフラーを外しながらそう答えた三嶋に、母は笑って、夕飯が食べられる程度にしておきなさいねとお茶を淹れに向かった。
包装紙を剥がし、箱を開け、九個いりの中の右下の包みを手に取る。包みを開くと、薄茶色でまるまるとした饅頭が鎮座している。早速食べてみたその味はありがちなもので、正直、あれほどまで絶賛するようなものではないなと三嶋は思った。
それに何だかこの饅頭は、やけに、喉に詰まる。
一つ目のそれを飲み下し、お茶が来るのを待ちながら、三嶋は二つ目を手に取った。
窓から見える外の景色は、もう真っ暗になっている。




