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光の定刻  作者: 笹舟
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光の定刻【中】


 ただいまに返答したのは、専業主婦の母ではなかった。低く短い、おう、という声は、コンロの前に立つ父のものだ。


「母さんは?」


 顔だけこちらに向けた父は、黙ってテーブルの上を指差した。

 即座に三嶋は納得する。安売りチラシの裏には丸みを帯びた母の字で、「お兄ちゃんのところです。向こうに泊まります。鍋にカレー、冷蔵庫にサラダあります」と書かれていた。 

 母は、兄をお兄ちゃんと呼ぶ。前に抗議した恥ずかしいという兄の意見は聞き流され、その呼称は今でも変わっていない。今日も母は兄の傍らに座り、きっとそう呼びかけているだろう。


「着替えてこいよ。味噌汁が出来たら食えるぞ」


 振り返らないままの父の言葉に、カレーと味噌汁の組み合わせか、と可笑しく思った。

 調味料といえば味噌と醤油だというような純和風の父の作るものはほとんどが和食で、これは主に使われる調味料によるものなのだが、ほとんどが茶色っぽい色をしている。汁物が欲しいなら、湯を注げば完成の粉末スープだって戸棚の中にあったのに、そしてそれを父だって知っているのに、父はわざわざ自ら味噌汁を作ったらしい。

 そこまで考えて、今度はなんとも言えない感情が三嶋の中に湧いた。


「サラダ、出しとく。冷たすぎるのは腹壊しそうだし」

 

 マフラーを外しながら三嶋は父の背に声をかけた。コンロの火を消した無骨な父は、素っ気無く、あぁ、とだけ答えた。寒くなった首元に冷蔵庫の冷気がまとわりつく。首をすくめながら手に取ったそれが三嶋の好きなポテトサラダだろうということは、取り出す前からなんとなく想像がついていた。


 ここしばらく、今日のように母の居ない夜は何度もあった。それでも三嶋は父と二人で過ごす時間になかなか慣れられない。沈黙の中で夕飯を食べ終え、いつもならバラエティ番組でも見ている時間帯になったが、今日に限ってそこまで見たいと思うようなものはなかった。ジェスチャーで父にテレビを点けるかと尋ねたが、首を振って返された。


「お前も今度、知弘のところに行ってみるか?」


 卓上の灰皿を引き寄せながら父は唐突にそう言った。煙草に火がつけられる。すうっと広がる臭いに、風呂の準備でもしようと立ち上がったところの三嶋は眉を寄せた。


「無事に合格も決まったし、ってこと?」


 まぁそうだな、と父は答えた。

 煙草の臭いは、嫌いでもないし好きでもない。ただ、大人が何かを曖昧にしたいときや誤魔化したいとき、はっきりしたくないときによく纏わせる臭いだと、三嶋は経験上そう思っている。


「……相手のところには?」

「お前が行きたいなら、行ってもいい」

 

 しばらく立ち尽くした後、分かった、考えとく、と静かにリビングを出た。




 三嶋が公園へ行くと、いつも柳井は既に来ている。初めて見かけたときと寸分違わぬ体勢で何をするでもなくただ座っている。以前、あの日は何をしてたんだと尋ねたときには、三嶋を待ってたのかもねと柳井がよく浮かべる笑顔で茶化された。


 金曜日の今日も、いつもと同じように、柳井は花壇に腰掛けて待っていた。


「土産は何がいい?」

 

 口まであげていたマフラーをずらし、一言目にそう言った。

 案の定、意味が分からない様子できょとんとした柳井に、週末、県外に出る用事が出来たと説明する。ふんふんと頷いて了解したらしい柳井は、自分の隣に腰を下ろした三嶋を、鼻のあたま赤いよと笑った。寒いのが平気だといった柳井は、むしろ暑がりなのじゃないかと最近思う。この寒い中、防寒具などつけていないのに柳井はけろりとしているのだ。


「受験も無事に終わったから、久しぶりに兄貴のとこに行こうってことになったんだよ」


 マフラーを巻き直しながら言った言葉に、柳井はしばらく沈黙した。三嶋が怪訝に思った頃、思い出したように手を打ち、人差し指を立てる。


「将棋のお兄さんだ? そっか、じゃ、将棋セットも持っていくの?」

「いや。兄貴、今――病院だし」


 三嶋の返答に、それ以上深入りするのが憚られたのだろうか、柳井は眉を顰めて黙り込んでいた。柳井に気を使わせるつもりはないと、一ヶ月ほど前のことを思い出しつつ重苦しい口調にならないようにしながら三嶋は言った。


「しばらく前に交通事故起こして、まだ意識不明で入院中なんだよ。知らせを聞いた時は家族全員大慌てだったけど、命に別状は無いみたいだから意識戻ってから行けばいいって、事故の日から一度も、俺は兄貴のとこに行かせてもらってないんだ。これから受験控えてたって、それだけの理由だけでさ」


 これは嘘だ。

 三嶋は口からの言葉とは裏腹なことを考えていた。

 

 まずは受験のことを考えろと言われたのは本当だが、行かせてもらえなかったんじゃない。それでも三嶋が行きたいと言っていたなら、両親は兄のもとへ連れて行ってくれただろう。しかし自分はむしろ、身近に起こった面倒な事態から避けようとしていた。程良い言い訳に使える受験に、両親の言葉に、甘えていたのだ。


 取り立てて大きくではないが、死者一人の事故と僅かばかり報道もされた。その事故を起こした張本人が自分の兄だということが、事実に直面することを避けてきた三嶋には今でも実感出来ない。しかし言い訳として甘えられる受験も終えた三嶋は、今になってそれは何か間違っているように思えてきていた。だから、先日の父の提案を受けることにしたのだ。


「まぁそういう訳で。話が戻るけど、土産の希望は?」


 シューズのつま先から柳井へと視線を戻すと、はっとしたように柳井は笑った。


「あ、えっとね。そこの名物って言えば、紅月堂の月むすびってお饅頭食べたことある? 駅にも売ってるし、食べたこと無かったら食べてみて、美味しいからさ」

「訳すと、俺にそれを買って来いってことか」

 

 目を輝かせている柳井に言うと、別に買って来いなんて言ってないよとすました声音で返される。

 なんて馬鹿馬鹿しいやりとりだと思いながらも笑ってしまえば、通りすがりの買い物帰りらしきおばさんの刺さるような目線も気になりはしなかった。

 

 日に日に暗くなるのが早くなる。初めて話をした日の半分も会話をしていないような気持ちのうちに、三嶋と柳井は腰を上げた。


「将棋のお兄さん、お大事にね」


 手を振りながらそう言った柳井が、なんだか妙に三嶋の印象に残った。


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