恩師北大路
「北大路、俺、あんたが嫌いだ」
碧色の空に薄い雲が侵攻し、少し肌寒い早朝の空間に章吾の声が透き渡った。目の前の中学時代の恩師は、知っていたさ、とでも言っているかのようだった。
彼が言葉を発しないことに、スーツを身に纏った章吾はさらに歯を食いしばる。沸き立つ苛立ちが、静まりどころを見せようとしない。
「俺は、何度でも言うぞ。あんたが嫌いだ。あんたが嫌いだ。あんたが嫌いだ!」
しかし、辺りは静まり返っていた。烏の声も雀の声も響かない。翼を持って空に舞うのは、章吾の言葉だけであった。刺々しく、決して柔らかくない羽が矢のように飛び散り、恩師の方に突き刺さる。
それでも、彼は何も言わなかった。今更何を言っているのだ、とも、立派に巣立ったな、とも、スーツが似合うようになったか、とも。閉口した章吾を映し返し、固く微笑んだ。
章吾は瞳を閉じて俯いた。切り出す言葉を咀嚼し、映像と共に飲み込もうとしては喉につかえさせていた。下らなく、つまらないことばかりが喉を押し通ろうとする。半ば躊躇いがちに再び顔を上げ、北大路に向き直った。
「あんたは覚えているか? 俺は、忘れられない」
中学生時代、生徒が受ける北大路の印象は、“苦手”だった。いつも厳しい顔立ちは崩れず、それでいてその面に似合う言葉を発していた。服装の乱れ、授業中の態度、校内の諍い。ことあるごとに叱咤を飛ばしその威厳を振りまいていた。どんな事情があっても、彼の前で廊下を走るのは自殺行為に等しいほどであった。生徒が微塵も彼に近寄らないのは、彼が決して生徒たちを褒めなかったからだ。できて当たり前だとでも言うかのように、下がった口角は上がることを知らないでいた。
北大路を好いている生徒はいない。例外はなく、章吾も周りの生徒たちと同じ、わざわざ身体を燃やされにいく虫ではなかった。章吾は学年の中でも、クラスの中でも、さほど目立つ存在ではなかった。教師たちの視線からもそう捉えられていた。勉学が優秀なわけでも、運動神経に長けているわけでもなく、また、生活面で難儀をかけるわけでもなく、特に成績が悪いわけでもなかった。生徒間での絡みも教師との絡みも少ない。別にそれに対して気にかけることもなく、平凡とした学生生活を送っていた。
何かにつけて特に優れていたり、クラスでのまとめ役を買ったりする生徒は教師たちの印象に残りやすい。逆に、劣っていたり、生活面で手間のかかる生徒も同様である。章吾は、教師たちに何かを印象付けようとしたわけではなかった。寧ろ、後悔の念が渦巻き、誰もが忘れてしまうことを願っていた。目立たない生徒の特権。手間のかからない生徒の特権。しかし、何事もなく勝手に飛び立っていくことはできなかった。
それは卒業式当日だった。学校生活に充実感を味わっていた者だけが流せる涙を章吾は流していなかった。寂しさがないわけではなかったが、そこまでではなかった。
受け持った生徒たちの旅立ちは、教師たちに毎度のように涙を誘う。
すすり泣く、各々の声が体育館に響き、退場の拍手に紛れていく。校門の方へと流れていくと、教師陣が一列に並び生徒たちを出迎えていた。立派に巣立つ雛鳥たちにエールを送る。
生徒たちはその慣れしたんだ顔ぶれに一瞥を投げると、ある者は泣き、ある者は笑い、そして章吾は惚けたように平然としていた。一列に並び、教師たち一人一人と握手を交わしていく。元気でね、とか、高校に行ってもがんばれよ、とか、それぞれの激励が飛び交う中、章吾は気恥ずかしそうに、教師たちと目を合わせずに握手を交わしていった。頑張れよ、などと決められたテンプレートを肩に貼られたりするが、俯いた章吾に向けて、顔を上げろ、と言ったのは誰からも握手をされていない、北大路だった。
未だにまっさらな手を宙に差し出し、北大路は三年間一度も見せなかったような微笑を章吾に向けた。その会心の微笑をもってしても、生徒たちと握手を交わすことのできない彼は、一切の哀れみを表に出さずにいた。
「三年間、ありがとな」
彼もまた一部の生徒に決められたテンプレートを貼るように、章吾には彼の言葉が簡単なものに聞こえてしまった。顔を上げるように言われたときには、他の教師のように適当な言葉じゃなく、特別な言葉が用意されているのだ、と章吾は彼の後光を感じ取ろうとした。気のかかる生徒たちや、生活面において手のかかる生徒たちには他の生徒と違う言葉を交わした教師陣。北大路は彼らとは違うのだ、と章吾は思い込んでいた。
差し出された手に顔を向ける。指先の赤くごつごつした手が、章吾の手を待ち侘びていた。必要とあらば、生徒たちに向かって飛び掛ってきた北大路の手。章吾の過ごしてきた三年間では、握り締めることはもちろん、触れることさえも恐れられてきた彼の手が、生徒たちの温もりを求め宙を漂っている。
突然、この場に似つかない破裂音が響いた。
握手をされなかった北大路の手は宙に固まり、北大路自身も章吾を目の前に固まった。
「どうせ、俺なんか忘れちまうんだろ」
似つかわしくない破裂音は、周囲の雑音に掻き消され二人の空間にだけ弾けていた。ポツリと漏らした言葉が北大路に届いているのか章吾にはわからなかった。ただ、握手を拒んだ章吾の手がその旨を伝えていた。
三年間過ごしてきてわかったことは、章吾も手間のかかる子だったかもしれない、ということだった。章吾が払った手を戻すと、北大路の怒号が飛ぶ―― 一瞬の幻が、章吾を包んでいた。
決して口角を上げることのなかった北大路の口元は弛んでいる。歯を見せることはなく、それでいて微笑よりも笑んでいる。
卒業式だからなのか。怒るほど価値のある生徒でもないためなのか。章吾は彼の表情の意味を理解できなかった。口角を上げ何も言わない彼をただ睨んでいた。何を期待していたのかさえも見出せず、章吾は大きく鼻から息を吸い、下唇を噛み締め彼から目を逸らすと、そのまま校門を出て行った。まだ別れを惜しむ生徒は校門を出ようとしない。その誰もが親しみのある教師や後輩と感謝と惜別の意を交わしていた。ちらほらと見える、何の未練もなさそうな背中たちと共に、章吾は帰路を辿って行った――
「目を逸らしたら、もう、あんたと目を合わせられなくなっちまった」
少しの風が章吾の前髪をさらうと、彼は奥歯に力をこめて俯いた。黒く光る革靴が妙に疼いている。自分の意思とは関係なく、自分の足ではないかのように震えていた。目の前の恩師は今も尚、言葉を発しない。
「高校に通い始めてからもさ、通学路であんたを見かけたよ、何度か。あんたは気づいていたのかわからないけれど、俺はあんたに気づかれる前に、逃げた」
見る度に、それまでゆっくり漕いでいた自転車を勢いよく走らせていた。翼を縮め這ってその場から退いていた。巣立っていたのではなく、巣から落ちていたことを章吾は今更ながら噛み締めていた。
「あんなことがあったからさ、皆とは違って、あんたを良い教師だとは思えなかった。いや、思おうとしなかった。二十歳の同窓会にあんたが来たとき、皆は親しみを込めてあんたを迎え入れていたようだったけれど、結局、俺はあんたと目を合わせることもできなかった」
噤んだまま章吾は恩師の方を見上げた。じっと固くなっている恩師を見つめる。映し返される自分の姿に、彼は再び下唇を噛んだ。
「今更ながら、こうして目を合わせられるようになったんだな。本当に、目を合わせられるようになったのかな? 先生、俺、ちゃんとあんたと向き合えてる?」
張りの失せていく章吾の声が掠れていく。渇いていく彼の声を反射し恩師は固まったままだった。立ち尽くし、何も言わずに章吾の姿を映し返している。
「先生がどうしてあんなに厳しかったのか、中学のときはわからなかった。だから、すごくムカついてて、すごく嫌いだった。高校からはさ、先生のように叱ってくれるやつなんていなかったんだ。甘えようと思ったら、どこまでも甘えられた。でも、俺には、俺たちには先生がいたから、甘えて、非行に走ることもしなかったんだ。だから、なんか照れるけど、ありがとう。それから、卒業式のとき、あんなことして、あんなこと言って、ごめん……ごめんなさい?」
烏の一鳴きが、霊園に響く。叱りつけるでもなく、宥めるでもない。悶える章吾の中にある翼から枷をとり、大空へと広げさせた。
途端、章吾を映し返していた漆黒の墓石に彼は飛び掛った。供えられた花は折れ散り、線香も木端微塵に土へと返される。土ごと掘り返した墓石にまたがり、膝が土にまみれるのも気にせず、拳がじんと痛むのも気にせず、彼は北の文字を両の拳で叩き続けた。
「なんて言えばいいんだよ。どうすればあんたに伝わる? 嫌いだとも、ごめんとも、今更言っても、遅くなっちまったじゃねえかよ!」
ドラ声が裏返り、張り上げた声を閉じ込めるように、章吾は墓石に額をつけた。不意に章吾の脳裏に流れ込んだのは、同窓会のとき、彼の肩を叩き嬉しそうな顔をする北大路だった。ビール瓶を片手に一人一人の生徒たちと話をしようと回っていた。声掛けの決まり文句は、大きくなったな――
「ビールなんか飲めるようになりやがってよ。いや、しかし、卒業式のときのあれはきつかったな。まさか、お前に手を払われるとはな」
すでに何人もの生徒と飲み交わしていた彼は鼻を赤くし、濁声になっていた。口臭がきついだとか囃し立てていた周りの言葉通りではなく、章吾は何も言わないでいた。
「一人一人に言葉を掛けるには時間が足りなくてよ、あれでもお前にぴったりな言葉だと思ったんだ。あいつらは、みーんな俺のことをグチグチ言いやがってよ――何、もう昔のことだろ――でも、お前はずっと俺の至らない厳しさを受け入れてくれていた。だから、三年間ありがとな、て言ったんだ」
他の生徒たちに不服の意を唱えられながらも、北大路は、言葉足らずだったな、と続けていた。
そんな彼を、章吾は無視していた。彼が何を言っていたのかも忘れようとしていた。肩に乗せられていた手を払いのけていた。
彼に感謝の意を持ち、そんな自分に後悔の念を抱いた。
「やっぱり、先生は良い教師だったよ。良い教師だった」
もどかしさにもう一つ拳をぶつけた。それすらも跳ね返すように、気持ちの悪い甲高い音が鳴り響く。
日の光が強くなり、次第に鳥の声も多くなってきていた。赤く腫れた手で墓石を戻すと、静かに拭き始めた。この場所に持ってきた全ての感情を伝えるように、しっかりと拭う。
「そうだ、先生。俺、報告したいことがあるんだ」
叫びで掠れた声と共に、嗚咽が漏れる。雲の隙間から木漏れ日のように朝日が射し込み、恩師の墓石が眩しく光った。赤く滲んだ両拳を握り、深々と頭を下げる。
「俺、教師になります。先生のような、教師になるよ」
【完】