妹の欲しがるものを全て譲ってきましたが、もう限界です
私には、二つ下の妹がいる。
妹のアネットは生まれつき体が弱く、両親はいつもアネットにかかりきりだった。
私のことなど見向きもしない。それが当たり前だと思って、育った。
「お姉様、そのリボン素敵。私も欲しいわ」
五歳の誕生日に祖母から贈られた淡い青色のリボンは、私の宝物だった。
「……いいわよ、あげる」
アネットが欲しがるなら仕方ない。そう思って譲った。
アネットは満面の笑みでリボンを受け取り、その日のうちに飽きて引き出しの奥にしまい込んだ。
それが始まりだった。
お気に入りの絵本。友人からもらった押し花。街で買ってもらった髪飾り。
アネットが欲しいと言えば、私は全て譲った。譲らなければ両親に叱られたし、アネットは泣いて体調を崩した。そうなれば、私が悪者になってしまう。
だから、最初から譲るのが正解だった。
「クラリスは、優しいお姉様ね」
母は、そう言って微笑んだ。その言葉に褒める気持ちなどなかったのだと気づいたのは、もう少し後のことだ。便利な道具として、褒めただけだった。
十六歳になった私に、縁談が持ち込まれた。
相手はアッシュフォード侯爵家の嫡男ジークハルト様。金色の髪に碧眼の絵に描いたような貴公子だった。
「よろしくお願いします、クラリス嬢」
初めて会った日、ジークハルト様は穏やかに微笑んでくださった。
私は緊張で声が震えたけれど、精一杯の笑顔で挨拶を返した。
婚約者ができた。生まれて初めて、自分だけのものができたと思った。
月に一度の茶会。時折届く手紙。
ジークハルト様は優しく、私の話に耳を傾けてくださった。
この方となら幸せになれるかもしれないと、少しずつ思い始めていた。
そんなある日、アネットが社交界にデビューした。
体が弱いはずのアネットは、いつの間にか健康になっていた。いや、本当に体が弱かったのかすら怪しい。
思い返せば、アネットが寝込むのはいつも自分の要求が通らないときだった。
「お姉様のご婚約者様って、ジークハルト様でしょう? 私もお会いしたいわ」
嫌な予感がしたが、断る理由も見当たらず、私は三人での茶会を設けた。
「初めまして、アネットと申します。お姉様からいつもお話を伺っておりますの」
アネットは、完璧だった。恥じらいがちに微笑み、ジークハルト様の言葉一つ一つに感嘆の声を上げ、時折助けを求めるように見上げる。私には決してできない仕草だった。
「アネット嬢は、可愛らしい方ですね」
茶会の後、ジークハルト様はそう仰った。私の心が静かに冷えていった。
それから、ジークハルト様からの手紙は減った。茶会に誘っても予定があると断られることが増えた。
代わりに、アネットは頻繁に外出するようになった。
「お姉様、今日もジークハルト様とお会いしてきたの。お姉様のこともお話ししたのよ」
アネットは無邪気に報告した。その目は少しも無邪気ではなかったけれど。
私は何も言えなかった。
口に出せば、また私が悪者になる。嫉妬深い姉。心の狭い女。そんなレッテルを貼られるのは目に見えていた。
だから、黙っていた。
そして、その日は来た。
「クラリス嬢、突然で申し訳ありませんが」
ジークハルト様は私を呼び出し、開口一番そう切り出した。
「婚約を解消させていただきたい」
知っていた。分かっていた。それでも、言葉を聞いた瞬間、足元が崩れるような感覚があった。
「理由を、お聞きしても?」
「アネット嬢と恋に落ちました」
堂々と、恥じる様子もなく、ジークハルト様は言った。
「妹、ですか」
「ええ。クラリス嬢には申し訳なく思っていますが、心は変えられません」
謝罪の言葉はあった。けれど、その目に後悔の色はなかった。むしろ早く解放されたいとでも言いたげだった。
「……分かりました」
私はそう言って、頭を下げた。
帰宅すると、アネットが待ち構えていた。
「お姉様、ジークハルト様から伺ったわ。婚約解消、受け入れてくださったのね」
悪びれる様子もなかった。
「ありがとう、お姉様。これでジークハルト様と結ばれるわ」
私は、妹の顔を見た。
幼い頃から、この顔を見てきた。リボンを奪ったとき。絵本を奪ったとき。髪飾りを奪ったとき。
いつも同じ顔。勝ち誇った残酷な笑顔。
私の中で何かが、ぷつりと切れた。
「アネット」
「何かしら?」
「もう限界なの」
「え?」
私は静かに息を吐いた。
「今まで、あなたが欲しがるものは全て譲ってきた。でも、もう終わり」
「何を言って……」
「ジークハルト様のことは好きになさい。でも、私はもうあなたの姉でいることをやめる」
アネットの顔から笑みが消えた。
「お姉様、何を馬鹿なことを」
「ずっと馬鹿だったのは私よ。あなたに何を譲っても、あなたは満足しない。次から次へと欲しがる。終わりがないの」
「だって、お姉様はいつも持っているんですもの。私にないものを」
「持っていた。過去形よ。もうあなたに渡すものは何もない」
私は、踵を返した。
「待って、お姉様!」
アネットが腕を掴んできた。
「離して」
「嫌よ! お姉様がいなくなったら、私……」
「あなたにはジークハルト様がいるでしょう?」
私は、アネットの手を振り払った。
その日のうちに、私は父に申し出た。
「アルビン叔父様のところに行かせてください」
「アルビンのところだと? あんな辺境に?」
アルビン叔父様は母の弟で、王都から馬車で五日かかる辺境の男爵領を治めていた。社交界からは遠く離れた静かな土地だ。
「婚約を解消された私が王都にいては、家の恥になります」
父は、反論できなかった。婚約を解消された娘を持て余していたのは明らかだったから。
数日後、私は王都を発った。
見送りに来たのは使用人だけだった。両親もアネットも姿を見せなかった。
それでいい。もう振り返るつもりはない。
アルビン叔父様の屋敷は、想像していたよりずっと温かい場所だった。
「よく来たね、クラリス。遠慮はいらないよ」
叔父様は、穏やかな人だった。叔母様を早くに亡くし、子どももいない。広い屋敷でほとんど一人で暮らしていた。
「好きなだけいなさい。ここは誰もお前から何も奪わない」
その言葉に、涙が出そうになった。
辺境での生活は静かだった。
朝は鳥の声で目覚め、庭の花の世話をする。昼は叔父様の書斎で本を読み、夕方には領地の子どもたちに読み書きを教える。
誰も私から何かを奪おうとしない。誰も私に何かを要求しない。ただ穏やかに日々が過ぎていく。
こんな生活があったのかと、私は初めて知った。
叔父様の屋敷に来て一年が経った頃、一通の手紙が届いた。
差出人は、かつての友人だった。
『アネット様とジークハルト様のご婚約が破談になったそうです』
思わず二度読んだ。
『ジークハルト様がアネット様に飽きたとか。今は別の令嬢に熱を上げていらっしゃるようです。アネット様は婚約破棄の悪評もあり、新しい縁談が見つからないと嘆いているそうです。ご両親様もご心労で……』
私は、手紙を閉じた。因果応報という言葉が頭をよぎった。
アネットは、欲しがり続けた。人のものを奪い、自分のものにし、そして飽きて捨てる。
ジークハルト様も同じだったのだ。だから二人は惹かれ合った。けれど奪う者同士では上手くいかない。
その手紙の数日後、アネットから手紙が届いた。
『お姉様、お願いです。戻ってきて。私を助けて』
長々と書かれた言い訳と懇願。読み進めるうちに、懐かしい感覚が蘇った。
この手紙からも、あの頃と同じ匂いがする。
欲しい。頂戴。私に譲って。
「お返事は書かれますか?」
使用人に聞かれて、私は首を横に振った。
「いいえ。書くことは何もありません」
私は、手紙を暖炉にくべた。
炎が紙を飲み込んでいくのを見ながら、私は思った。
アネットが欲しがっているのは、きっと私自身なのだ。何を差し出しても満足しないのは、奪う相手がいなくなることが怖いから。私がいなければ、アネットは誰から奪えばいいか分からない。
でも、それは私の問題ではない。もう二度と、あの場所には戻らない。
春になった。
領地の子どもたちが庭に集まり、私が植えた花を見て歓声を上げている。
「クラリス様、この花なんて名前?」
「これはね、勿忘草よ。『私を忘れないで』という意味があるの」
「誰かに忘れられたくないってこと?」
私は少し考えた。かつての私なら、そう答えただろう。
忘れられたくない。見捨てられたくない。だから何でも譲って、良い子でいて、必死にしがみついていた。
でも、今は違う。
「忘れられたくないという意味もあるけれど、大切な人のことを忘れないでいようという意味もあるのよ」
子どもたちは不思議そうな顔をして、また花に駆け寄っていった。
大切な人。今の私にとって、それは叔父様であり、この領地の人々だ。毎日挨拶を交わす使用人たち。読み書きを教えている子どもたち。市場で声をかけてくれる商人たち。
私から何かを奪う人は、ここにはいない。皆、分かち合う人たちだった。それが私の新しい居場所になった。
夕暮れ時、叔父様と庭を歩いた。
「クラリス、最近よく笑うようになったな」
「そうですか?」
「来た頃は、まるで幽霊のようだった。今は生きている顔をしている」
私は、空を見上げた。茜色に染まった空は広くて、どこまでも続いていた。
「ここに来てよかったです、叔父様」
「そうか」
「初めて、自分のために生きていいんだと思えました」
叔父様は何も言わず、ただ頷いた。その沈黙が心地よかった。
私はもう、誰にも何も譲らない。これからは、自分の人生を生きる。




