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妹の欲しがるものを全て譲ってきましたが、もう限界です

作者: 七瀬しおり
掲載日:2026/11/07

 私には、二つ下の妹がいる。

 妹のアネットは生まれつき体が弱く、両親はいつもアネットにかかりきりだった。

 私のことなど見向きもしない。それが当たり前だと思って、育った。


「お姉様、そのリボン素敵。私も欲しいわ」


 五歳の誕生日に祖母から贈られた淡い青色のリボンは、私の宝物だった。


「……いいわよ、あげる」


 アネットが欲しがるなら仕方ない。そう思って譲った。

 アネットは満面の笑みでリボンを受け取り、その日のうちに飽きて引き出しの奥にしまい込んだ。


 それが始まりだった。


 お気に入りの絵本。友人からもらった押し花。街で買ってもらった髪飾り。

 アネットが欲しいと言えば、私は全て譲った。譲らなければ両親に叱られたし、アネットは泣いて体調を崩した。そうなれば、私が悪者になってしまう。

 だから、最初から譲るのが正解だった。


「クラリスは、優しいお姉様ね」


 母は、そう言って微笑んだ。その言葉に褒める気持ちなどなかったのだと気づいたのは、もう少し後のことだ。便利な道具として、褒めただけだった。


 十六歳になった私に、縁談が持ち込まれた。

 相手はアッシュフォード侯爵家の嫡男ジークハルト様。金色の髪に碧眼の絵に描いたような貴公子だった。


「よろしくお願いします、クラリス嬢」


 初めて会った日、ジークハルト様は穏やかに微笑んでくださった。

 私は緊張で声が震えたけれど、精一杯の笑顔で挨拶を返した。

 婚約者ができた。生まれて初めて、自分だけのものができたと思った。


 月に一度の茶会。時折届く手紙。

 ジークハルト様は優しく、私の話に耳を傾けてくださった。

 この方となら幸せになれるかもしれないと、少しずつ思い始めていた。


 そんなある日、アネットが社交界にデビューした。

 体が弱いはずのアネットは、いつの間にか健康になっていた。いや、本当に体が弱かったのかすら怪しい。

 思い返せば、アネットが寝込むのはいつも自分の要求が通らないときだった。


「お姉様のご婚約者様って、ジークハルト様でしょう? 私もお会いしたいわ」


 嫌な予感がしたが、断る理由も見当たらず、私は三人での茶会を設けた。


「初めまして、アネットと申します。お姉様からいつもお話を伺っておりますの」


 アネットは、完璧だった。恥じらいがちに微笑み、ジークハルト様の言葉一つ一つに感嘆の声を上げ、時折助けを求めるように見上げる。私には決してできない仕草だった。


「アネット嬢は、可愛らしい方ですね」


 茶会の後、ジークハルト様はそう仰った。私の心が静かに冷えていった。


 それから、ジークハルト様からの手紙は減った。茶会に誘っても予定があると断られることが増えた。

 代わりに、アネットは頻繁に外出するようになった。


「お姉様、今日もジークハルト様とお会いしてきたの。お姉様のこともお話ししたのよ」


 アネットは無邪気に報告した。その目は少しも無邪気ではなかったけれど。

 私は何も言えなかった。

 口に出せば、また私が悪者になる。嫉妬深い姉。心の狭い女。そんなレッテルを貼られるのは目に見えていた。

 だから、黙っていた。


 そして、その日は来た。


「クラリス嬢、突然で申し訳ありませんが」


 ジークハルト様は私を呼び出し、開口一番そう切り出した。


「婚約を解消させていただきたい」


 知っていた。分かっていた。それでも、言葉を聞いた瞬間、足元が崩れるような感覚があった。


「理由を、お聞きしても?」

「アネット嬢と恋に落ちました」


 堂々と、恥じる様子もなく、ジークハルト様は言った。


「妹、ですか」

「ええ。クラリス嬢には申し訳なく思っていますが、心は変えられません」


 謝罪の言葉はあった。けれど、その目に後悔の色はなかった。むしろ早く解放されたいとでも言いたげだった。


「……分かりました」


 私はそう言って、頭を下げた。


 帰宅すると、アネットが待ち構えていた。


「お姉様、ジークハルト様から伺ったわ。婚約解消、受け入れてくださったのね」


 悪びれる様子もなかった。


「ありがとう、お姉様。これでジークハルト様と結ばれるわ」


 私は、妹の顔を見た。

 幼い頃から、この顔を見てきた。リボンを奪ったとき。絵本を奪ったとき。髪飾りを奪ったとき。

 いつも同じ顔。勝ち誇った残酷な笑顔。

 私の中で何かが、ぷつりと切れた。


「アネット」

「何かしら?」

「もう限界なの」

「え?」


 私は静かに息を吐いた。


「今まで、あなたが欲しがるものは全て譲ってきた。でも、もう終わり」

「何を言って……」

「ジークハルト様のことは好きになさい。でも、私はもうあなたの姉でいることをやめる」


 アネットの顔から笑みが消えた。


「お姉様、何を馬鹿なことを」

「ずっと馬鹿だったのは私よ。あなたに何を譲っても、あなたは満足しない。次から次へと欲しがる。終わりがないの」

「だって、お姉様はいつも持っているんですもの。私にないものを」

「持っていた。過去形よ。もうあなたに渡すものは何もない」


 私は、踵を返した。


「待って、お姉様!」


 アネットが腕を掴んできた。


「離して」

「嫌よ! お姉様がいなくなったら、私……」

「あなたにはジークハルト様がいるでしょう?」


 私は、アネットの手を振り払った。


 その日のうちに、私は父に申し出た。


「アルビン叔父様のところに行かせてください」

「アルビンのところだと? あんな辺境に?」


 アルビン叔父様は母の弟で、王都から馬車で五日かかる辺境の男爵領を治めていた。社交界からは遠く離れた静かな土地だ。


「婚約を解消された私が王都にいては、家の恥になります」


 父は、反論できなかった。婚約を解消された娘を持て余していたのは明らかだったから。


 数日後、私は王都を発った。

 見送りに来たのは使用人だけだった。両親もアネットも姿を見せなかった。

 それでいい。もう振り返るつもりはない。


 アルビン叔父様の屋敷は、想像していたよりずっと温かい場所だった。


「よく来たね、クラリス。遠慮はいらないよ」


 叔父様は、穏やかな人だった。叔母様を早くに亡くし、子どももいない。広い屋敷でほとんど一人で暮らしていた。


「好きなだけいなさい。ここは誰もお前から何も奪わない」


 その言葉に、涙が出そうになった。


 辺境での生活は静かだった。

 朝は鳥の声で目覚め、庭の花の世話をする。昼は叔父様の書斎で本を読み、夕方には領地の子どもたちに読み書きを教える。

 誰も私から何かを奪おうとしない。誰も私に何かを要求しない。ただ穏やかに日々が過ぎていく。

 こんな生活があったのかと、私は初めて知った。


 叔父様の屋敷に来て一年が経った頃、一通の手紙が届いた。

 差出人は、かつての友人だった。


『アネット様とジークハルト様のご婚約が破談になったそうです』


 思わず二度読んだ。


『ジークハルト様がアネット様に飽きたとか。今は別の令嬢に熱を上げていらっしゃるようです。アネット様は婚約破棄の悪評もあり、新しい縁談が見つからないと嘆いているそうです。ご両親様もご心労で……』


 私は、手紙を閉じた。因果応報という言葉が頭をよぎった。

 アネットは、欲しがり続けた。人のものを奪い、自分のものにし、そして飽きて捨てる。

 ジークハルト様も同じだったのだ。だから二人は惹かれ合った。けれど奪う者同士では上手くいかない。


 その手紙の数日後、アネットから手紙が届いた。


『お姉様、お願いです。戻ってきて。私を助けて』


 長々と書かれた言い訳と懇願。読み進めるうちに、懐かしい感覚が蘇った。

 この手紙からも、あの頃と同じ匂いがする。

 欲しい。頂戴。私に譲って。


「お返事は書かれますか?」


 使用人に聞かれて、私は首を横に振った。


「いいえ。書くことは何もありません」


 私は、手紙を暖炉にくべた。

 炎が紙を飲み込んでいくのを見ながら、私は思った。

 アネットが欲しがっているのは、きっと私自身なのだ。何を差し出しても満足しないのは、奪う相手がいなくなることが怖いから。私がいなければ、アネットは誰から奪えばいいか分からない。

 でも、それは私の問題ではない。もう二度と、あの場所には戻らない。


 春になった。

 領地の子どもたちが庭に集まり、私が植えた花を見て歓声を上げている。


「クラリス様、この花なんて名前?」

「これはね、勿忘草よ。『私を忘れないで』という意味があるの」

「誰かに忘れられたくないってこと?」


 私は少し考えた。かつての私なら、そう答えただろう。

 忘れられたくない。見捨てられたくない。だから何でも譲って、良い子でいて、必死にしがみついていた。

 でも、今は違う。


「忘れられたくないという意味もあるけれど、大切な人のことを忘れないでいようという意味もあるのよ」


 子どもたちは不思議そうな顔をして、また花に駆け寄っていった。

 大切な人。今の私にとって、それは叔父様であり、この領地の人々だ。毎日挨拶を交わす使用人たち。読み書きを教えている子どもたち。市場で声をかけてくれる商人たち。

 私から何かを奪う人は、ここにはいない。皆、分かち合う人たちだった。それが私の新しい居場所になった。


 夕暮れ時、叔父様と庭を歩いた。


「クラリス、最近よく笑うようになったな」

「そうですか?」

「来た頃は、まるで幽霊のようだった。今は生きている顔をしている」


 私は、空を見上げた。茜色に染まった空は広くて、どこまでも続いていた。


「ここに来てよかったです、叔父様」

「そうか」

「初めて、自分のために生きていいんだと思えました」


 叔父様は何も言わず、ただ頷いた。その沈黙が心地よかった。

 私はもう、誰にも何も譲らない。これからは、自分の人生を生きる。

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