3 影が落とす予告
夕方。
雪が降りそうな空の色になって、店内の灯りが一段あたたかく見える時間。
客が途切れ、私は厨房で明日の仕込みの下ごしらえをしていた。
棗を水で戻して、クコの実を小皿に分ける。
スパイス瓶のふたをひとつずつ閉める。
その「いつもの作業」が、心を落ち着かせてくれる。
――――はずだった。
格子窓に、コン、コン……と幽かな音。
私の背中が固まる。
(誰?)
朧が音のほうへ視線を向ける。
影が、床を薄く這った。
そこにいたのは―――
月明かりに照らされた、小さな狐。
稲荷に仕える使いの存在。
赤い目が静かに光り、尻尾の先だけが白く揺れている。
狐は、こちらを見て―――
人語に近い声色で、囁いた。
『――――あれだけじゃない』
『名を持つものが、他にも目を覚まし始めてる』
『月が満ちるほど、境は薄くなる』
ザワリ、と背筋を撫でる感覚。
まるで、私の中の何かが“呼ばれた”みたいに。
狐は続ける。
『お前たちを試すものが来る。
“人間のふりをした妖”を疑え』
「……試すもの」
朧の声は低い。
『それと―――』
狐が一瞬、ためらうように目を細めた。
『“影の封”が、届く。
手で触れるな。目で追うな。
言葉だけ、受け取れ』
(影の封……?)
私は息を止めた。
狐はそれ以上言わず、月に溶けるように消えた。
音も、気配も、一瞬で。
残ったのは、冷えた窓と――――
私の胸の奥に広がる、言いようのない嫌な予感だけ。
「朧さん……“影の封”って」
朧は答えない。
カウンターの端へ視線を向ける。
欠片。
昨日の階段の欠片。
そこに―――薄い黒い紙みたいなものが、いつの間にか置かれていた。
(さっきまで、なかった)
紙は紙じゃない。
影でできた“封”だ。
触れたら、引きずられる。
見続けたら、吸い込まれる。
狐の言葉が脳内で鳴る。
―――手で触れるな。目で追うな。言葉だけ、受け取れ。
朧が、影を伸ばした。
影の指先で、封を“めくる”ような仕草をする。
触れていないのに、封がほどけて―――黒い文字だけが、宙に浮かんだ。
【美千流へ】
【まだ迎えには行けない】
【月が満ちるほど、血が騒ぐ】
【店に留まれ。人の世に根を張れ】
【影狼を信じろ】
【―――父より】
私は、心臓が冷たくなるのを感じた。
(父……)
“会ったことのない父”からの言葉。
声も顔も知らないのに、文字だけが、私の中に重く落ちてくる。
朧の影が、一瞬だけ荒れた。
でも、声は出さない。
私は、唇を噛んでしまう。
「……迎えに、来ないんですね」
ぽつりと漏れた声が、自分でも驚くほど静かだった。
朧が、こちらを見た。
氷色の瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「来るか来ないかは、俺には分からない」
「……」
「だが」
朧は一歩近づき、私の肩に手を置いた。
「お前を“物”として扱うなら、俺が止める」
その言葉が、胸の奥を熱くした。
怖いのに、嬉しい。
嬉しいのに、泣きそう。
「朧さん」
「なんだ」
私は息を吸って、言った。
「……私は、まだ何も選べません。
でも、千の実は……この店は、守りたいです」
朧の影が、微かに揺れた。
「それでいい」
「いいんですか」
「守りたいものがあるなら、それが“根”になる」
朧は私の肩から手を離さず、低い声で続ける。
「明日から、店が忙しくなる」
「願いの階段の余波……ですか?」
「それもある。だが――――“試すために来る者”がいる」
「客として?」
「人間に紛れてな」
喉がひりつくほど、息を飲み込んだ。
朧は、私の肩に置いた手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「いいか」
氷色の瞳が真剣に私を射抜く。
「お前が誰かを助けたいと思う、その“手”が鍵になる」
「どんな妖が来ても、どんな嘘をまとっていても――」
朧の声が、深く落ちる。
「お前は、“救いたいと思った相手”だけ救えばいい」
その言葉が、私の胸の奥で強く響いた。
―――救いたいと思った相手だけ。
昨日の階段の影の声とも、どこか重なる。
“願いは捨てるな”
“手放すな”
私は小さく頷いた。
「分かりました」
朧は手を離し、影へと戻ろうとする。
その背中を目で追いながら、私は思う。
(私は守られているんじゃない)
守られて安心したいから、朧をそばに置くんじゃない。
―――朧に、そばにいてほしい。
その事実を、ようやく自分の中で言葉にできた気がした。
店の外で、風が鳴る。
鈴は鳴っていないのに、また“鳴ったような気”がした。
そして私は、明日来る“誰か”の気配を、まだ見ぬ影の向こうに感じていた。




