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2 昼下がりの小さな常連と、影狼の距離

2 昼下がりの小さな常連と、影狼の距離

午前の仕込みを終え、開店準備を整える。


私はいつものように黒板にチョークで書いた。


本日のおすすめ

・月白サムゲ粥

・にんじんとレーズンの小さなスパイスサラダ

・紫キャベツの宝石ピクルス

・棗はちみつラテ

・豆乳きなこプリン(数量限定)


(よし、かわいい。千の実っぽい)


戸を開ける。


鈴は鳴らさない。


手でそっと押さえて、音を殺す。


それだけなのに、店の空気がいつもより静かだ。


雪の降る前の、息をひそめた感じ。


最初の客は、いつものおばあちゃんだった。


厚手のマフラーをぐるぐる巻きにして、手袋をしたまま入ってくる。


「美千流ちゃん、今日も良い匂いだごど」


「いらっしゃいませ。寒かったですよね」


「んだんだ。骨まで冷えだ」


私は月白サムゲ粥を勧め、棗はちみつラテも一緒に出した。


おばあちゃんは湯気を両手で包むみたいにして、ふうっと息を吐く。


「……あったまる」


(よかった)


“人の暮らし”がちゃんとここにある。


それが、私の店の根っこ。


昼の客足は、ゆっくり。


忙しすぎず、暇すぎず。


私は洗い物をしながら、時々カウンターの端の欠片に目をやりそうになる。


(見ちゃだめ)


見たら、昨日みたいに引きずられる気がする。


そのとき―――背後に気配。


「手が止まってる」


朧の声。


私は思わず肩を跳ねさせた。


「……朧さん、せめて厨房に来るときは気配ください」


「出している」


「出してないです!」


「お前が“他”を見ていた」


言われて、息が詰まった。


朧は私の隣に立ち、洗い物の泡の上から手元を覗きこんだ。


「……あれを見てる」


あれ。


欠片のこと。


私はうまく笑えなくて、布巾を握りしめた。


「怖いわけじゃ、ないんです。たぶん」


「たぶん、は危ない」


「……」


朧は、私の手首を軽く取った。


包丁を持っていないほうの手。


触れた指先が、意外なくらい温かい。


(……あったかい)


「お前は、ひとりで背負う癖がある」


「そんなこと……」


「ある」


即答。


私は言い返せず、視線を落とした。


「美千流」


名前を呼ばれると、心臓が小さく跳ねる。


「お前は捨てられたんじゃない」


「……またそれ、言うんですね」


朧は少しだけ言い淀んでから、静かに言い直した。


「捨てる者は、振り返らない。―――

“完全に”な」


(完全に……)


言葉の奥に、影がある。


朧自身の過去の痛みが、ちらりと覗く。


私は彼の横顔を見上げた。


「……朧さんは、振り返られたんですか」


一瞬、空気が止まった。


朧は答えない。


ただ、私の手首を握る指が、ほんの少し強くなった。


(踏み込みすぎた)


私は慌てて話題を変える。


「えっと、今日のプリン、豆乳きなこなんです。食べます?」


「……食う」


「さっきも食うって言ってました」


「食う」


「……わざとですか?」


「わざとだ」


(ずるい……)


私は笑ってしまって、緊張が少し溶けた。


朧は、私が笑ったのを見て、影を少しだけ引っ込める。


その仕草が、妙に“守って”感じがして―――胸がくすぐったい。


(守られてるっていうより……見てくれてる)


そんなふうに思った瞬間。


店の入口のほうで、風が鳴った。


カタン。


戸が揺れた。


鈴は鳴らしていないのに――――

“鳴ったような気”がした。


私は喉を鳴らして息を飲む。


朧の瞳が、すっと冷える。


「……来る」


「お客さんですか?」


「客のふりをしたものが、な」


背中がぞわっとした。


私は無意識に、朧の袖を掴んでしまった。


朧は見下ろして、言う。


「離れるな」


短い。


でも、命令じゃない。


“お願い”に近い。


「……はい」


私は頷いた。


そのとき、カウンターの端の欠片が―――


ほんのわずかに、黒く揺れた気がした。

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