1 朝、冷えとスパイスの香り
翌朝。
布団の中で目を開けた瞬間、まず――――冷えた空気が頬に触れた。
(寒……)
冬の遠野は、朝が鋭い。
窓の端にうっすら白い霜が降りていて、息を吐くと細い白がほどけた。
でも、不思議と気持ちは沈んでいない。
昨日の夜まで、胸の奥に沈んでいた鉛みたいな重たさが――――
少しだけ、軽くなっている。
「……よし」
私は小さくつぶやき、上体を起こした。
起きる、着替える、髪を結ぶ。
いつもの動き。
それだけで、心が“薬膳カフェ千の実”の店主に戻っていく。
(今日の仕込みは……あれだ)
私は台所へ向かった。
コンロに火をつけ、鍋を出し、まな板を置く。
冷たい木の感触が、指先をきゅっと引き締める。
今日の朝粥は、参鶏湯風の薬膳粥―――
だけど、千の実のメニュー表に載せるときは、ちょっと可愛くしてある。
『月白サムゲ粥』
白くて、とろりとしていて、月みたいにやさしい。
鶏がらの旨みを土台に、生姜、棗、クコの実、ほんの少しだけ陳皮。
最後に、糸みたいに細い白ねぎと、花びらみたいにほぐした鶏肉をのせる。
(よし、まずは鶏がらのスープから)
鍋に水、鶏がら、薄切りの生姜、潰したにんにくを少し。
火にかけると、すぐに香りが立った。
生姜の強さが鼻を抜けて、その奥に鶏の甘い匂いがふわっと重なる。
「……朝の匂い」
自分で言って、少し笑ってしまう。
私の朝は、だいたいスパイスで始まる。
湯気が上がり始めたところで、もち米を研ぐ。
水を含んで丸くなった粒を指で触ると、ぷるんとした弾力が返ってくる。
(今日の副菜はどうしようかな)
お粥だけだと、千の実の“カフェ飯感”が薄い。
なので―――小鉢もちゃんと可愛いものにする。
冷蔵庫を開け、昨日仕込んでおいた紫キャベツの甘酢漬けを確認。
小さなガラス瓶の中で、薄紫が宝石みたいに光っている。
(うん、これにしよう)
それから、にんじんとレーズンのスパイスサラダ。
シナモンをほんのひと振り、クミンをほんのひと欠片。
“薬膳”と“カフェ”のちょうど真ん中の味にする。
最後に飲み物。
今日は寒いから、温かいやつがいい。
『棗はちみつラテ』
ミルクを温めて、棗のペーストを少し、蜂蜜をひとさじ。
仕上げに、星みたいに砕いたナツメグをほんの少しだけ散らす。
(可愛いし、体もあったまるし、最高)
そんなふうに頭の中でメニューを並べていると――――
背後、柱の影が、ふと揺れた。
「おはよう、美千流」
いつの間にか、朧がそこにいた。
台所の柱の影から、するりと“抜けてきたみたい”に現れる。
「……影から現れるの、やめてくれません?」
「便利だ」
「便利でしょうけど、心臓に悪いんですよ、毎回!」
「慣れろ」
淡々とした返事。
なのに私は、口元を押さえたくなるほど笑いそうになる。
(……昨日より、距離が近い)
昨日は“怖い”のほうが先に来た。
でも今は、驚いても、どこか安心する。
朧は鍋を覗きこみ、湯気の向こうで目を細めた。
「今日は白い匂いだな」
「なにそれ。詩人みたい」
「白い。やさしい。眠い匂い」
「……それは褒めてるんですか?」
「褒めてる」
短いのに、妙にまっすぐ。
私は思わず「ふふ」と声を漏らした。
「朝食、食べますか?」
「……食う」
まただ。
その“食う”の言い方が妙に子どもっぽくて、私は肩を震わせた。
(かわいい……いや、言ったら怒られる)
私は器を温めて、月白サムゲ粥を盛る。
中央にほぐした鶏肉、白ねぎ、クコの実をちょんと置いて、最後にごまをひと振り。
「はい。千の実の朝ごはんです」
朧は席につき、静かに一口すくった。
――口に入れた瞬間。
彼の長いまつ毛が、微かに震えた。
氷色の瞳が、一瞬だけ柔らかくなる。
「……落ち着く」
「よかった」
「お前の作るものは、腹だけじゃなくて……奥に届く」
「……奥?」
朧は少しだけ視線を逸らした。
「言葉にすると薄くなる」
(ずるい……その言い方)
私は棗はちみつラテも出して、朧の前に置いた。
「飲み物も。今日は“棗はちみつラテ”です。かわいいでしょ」
「……甘い匂いだ」
「カフェは甘いものが必要なんです」
「必要なのか」
「必要です。絶対に」
真顔で返されて、朧は一瞬固まった。
そして、ほんの少しだけ口元が緩む。
「……素直だな」
「素直が売りですから」
「それは売るものじゃない」
そんなふうに、他愛もない会話が続く。
その時間が、冬の冷えを少しずつ溶かしていく。
だけど――――
その“ぬくさ”に、影が混ざる瞬間がある。
カウンターの端。
あの“満月の踊り場”と同じ匂いを残した小さな欠片が、布の上に置かれている。
少女が帰ったあと、いつの間にか、そこにあったもの。
木なのか、石なのか、よく分からない。
触ると冷たいのに、目を離すと存在が薄れる。
まるで“ここに来た理由”を、まだ決めかねているみたいに。
私は見ないふりをして、仕込みを続けた。
でも、気配だけは、ずっと背中に貼りついている。
朧はそれに気づいているのか、私の手元を見守るように、影の位置を少しだけ変えた。
「美千流」
「はい?」
「……今日は、店を開ける前に“鈴”を鳴らすな」
「鈴?」
千の実の入口には、小さな真鍮の鈴がある。
客が戸を開けると、ちりん、と鳴るやつだ。
「どうして?」
朧の瞳が、すっと細くなる。
「影が寄る」
たったそれだけ。
でも、その言い方だけで――――
この店では、鳴らさないほうがいい音がある、
ということだけは、分かった気がした。
(影が寄る……)
昨日の夜の感覚が、指先に蘇る。
満月の踊り場の、あの“言葉にならない圧”。
私は頷いた。
「……分かりました。今日は静かに開けます」
朧は「うん」とも「よし」とも言わない。
ただ、目を閉じた。
それが――――“肯定”に見えた。




