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母が「気持ち悪い」と言った理由(2)

次に思い出すのは、施設での生活だ。


白い壁。

決まった時間に鳴るチャイム。

昼寝の時間。

おやつの時間。


そこには「お母さん」はいなかった。


「美千流ちゃんのおかあさんはね――」


いつだったか、先生がぽろっと言った。


「“もう無理”って言ってたの」


“もう無理”。


その四文字が、やけに重かった。


「美千流ちゃんのこと、“気持ち悪い”って言ってたのよ」


先生は本当に悪気がなかったのだと思う。


あまりにも自然に、その言葉を口にしたから。


その瞬間、私の中で何かがぐしゃっと音を立てた。


(ああ、そうか)


“見えること”も。

“感じること”も。

全部含めて“気持ち悪い”んだ。


私は、“いてはいけないもの”なんだ。


そうやって理解した。


それから私は、笑わない子どもになった。

いや、なってしまった。


泣きもせず、怒りもせず、静かに日々をこなす「ちょっと変な子」。


見えるもののことは、誰にも言わなくなった。


“気持ち悪い”って言われるのが嫌だったから。






祖父に拾われて、遠野の古民家に来たのは、その少しあとだ。


「わしの娘はな、少し、怖がりなところがあってな」


囲炉裏の火を見ながら、祖父がぽつりと言ったことがある。


「お前を捨てたこと、決して許されることではないが――

“全部が全部、憎む必要はない”とも、覚えておきなさい」


「……どういう意味?」


幼い私は、怒っていた。


“ゆるさなくていいでしょ”と思っていた。


祖父は湯飲みを置いて、ゆっくりと続ける。


「お前の母親はな、小さいころから“感じすぎる”子だった」


「感じすぎる?」


「人の機嫌や気配、相手の言葉の裏にある本音……

そういうものが、人一倍分かってしまう子だった」


祖父の目が、どこか遠くを見ていた。


「だから、よく疲れていた。

“自分の中に、他人の感情が流れ込んでくるみたいで嫌だ”と何度も言っていた」


(……それ、ちょっと分かる)


他人の“味”が分かると、ときどき気持ちが重たくなる。


祖父は続ける。


「若いころ、お前の母親は、遠野の祭りで“変な男”に出会った」


「変な男?」


「夜店の灯の下で、氷みたいな目をした男だったそうだ」


どこか、朧を思わせる描写だと思った。


「人ではないと、すぐに分かったと言っていた。

なのに―――

“あの人といると、自分の中が静かになる気がした”とも言っていた」


それが、私の父らしい。


「お前の母親は、“自分の中に他人の感情が流れ込んでくるのが嫌だ”と言っていたくせに、その男と出会って一時は笑顔が増えた」


祖父は小さく笑う。


「だが――

妊娠に気が付いた時、あいつはたぶん、心底“怖くなった”のだろう」


「……なんで?」


「自分の中に、“人じゃない”血が混ざった子どもがいる」


祖父の声が静かに落ちる。


「自分と同じように“見えすぎるかもしれない子”が生まれてくる」


「自分が苦しかったように、その子も苦しむかもしれない」


「―――そして何より、“自分は、その子を守り切れない”ってどこかで分かってしまったからだ」


焚き火がぱちんと弾けた。


「弱かったのだ」


祖父は、はっきり言った。


「お前を捨てたのは事実だ。

逃げたのも事実だ。

それでも―――“弱い人間だった”と理解することはできる」


「理解したからって、許せるとは限らんがな」


そう言って、祖父は苦く笑った。


私はうつむいた。


(弱かった、か……)


「じいちゃんは、お母さんのこと、嫌い?」


私は聞いた。


祖父は少し考えてから、首を振る。


「嫌いじゃない。

だが、許してもいない」


「娘としては愛していたし、母親としては認めていない」


「それくらい、人の心は面倒で矛盾したもんだ」


「美千流」


名を呼ばれる。


「お前がいつか、“母親をどう思うか”は、お前が決めろ」


「“許さないまま”生きてもいい。

“少しだけわかろうとする”生き方を選んでもいい」


「どっちを選んでも構わん。

ただ―――

“自分が選んだ”といえるようになりなさい」


そのとき私は、よく分からないまま、ただうなずいた。


炎の向こうで、祖父の顔が少しだけ寂しそうに見えたことだけ覚えている。






布団の中で、私はゆっくり息を吐いた。


(……そうだ)


母が私を「気持ち悪い」と言った理由は、きっと一つじゃない。


私のことを本当に嫌がっていたのかもしれないし、自分自身が怖くてたまらなかったのかもしれない。


「気持ち悪い」と言ったあの言葉は、もしかしたら

「自分の中にある“感じてしまう部分”」ごと否定したかったのかもしれない。


そこまで考えたところで、不意に、さっきの“階段”の言葉が重なる。


―――“捨てたいって言ったのはあの子たちなんだよ”


母は、自分の中の何かを“捨てたい”と願って、私を手放したのかもしれない。


だからと言って、許せるわけじゃない。


でも――


(わたしは、あの人みたいにはなりたくない)


はっきりそう思った。


「いらない」と言って、自分の一部を簡単に捨てる生き方じゃなくて。



“捨てたくなるほど重いもの”も背負い直して、時々休みながら持っていけるような生き方。


「“捨てられた記憶”も、ここに置いとく」


あの人が言った「気持ち悪い」も、祖父が拾ってくれたことも、全部。


そのうえで、いつかちゃんと“自分で決める”。


母をどう呼ぶのか。

どの距離感で思い出すのか。



――それは、

私が“捨てなかった先”決めればいい。


そんなふうに思えた。

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